2-3
あれから赤井はすぐ近くの安ホテルに部屋を取り、彼女をその部屋に招き入れた。
「警戒しないのか」
「あら、部屋を取ったのはあなただけど…誘ったのは私よ」
入口近くに立ったままの赤井に対し、名前はコートを着たまま、部屋の奥に一つだけあるベッドに腰掛けている。赤井の後ろを素直についてきて、唯一の出入口を塞がれた今も警戒した様子のない彼女に赤井は意外そうな表情を浮かべていた。
(とにかくこの研ぎたてのナイフみたいな警戒心を緩めてもらわなきゃな)
若く鋭い赤井の警戒を解くのは一筋縄ではいかなそうだ。名前はため息を吐きたくなるのを堪えて気を引き締めた。
「なぜ俺を知っている?」
「腕のいい捜査官だと聞いたわ」
「俺の任務まで知っていたのは」
「あそこで口にしたのは申し訳なかったけど…ああでも言わないと、場所を変えてくれなかったでしょう?」
なぜ知っているのかは答えない名前に、赤井があからさまに眉根を寄せた。
「…俺は気が短くてな」
ドアのそばを離れた赤井が、ベッド脇に置かれたスツールを彼女の前に移動させ、それに腰掛ける。
「早々に本題に入ってくれないか」
射抜くような視線を向ける男に、名前は微笑みを崩さない。強い警戒心に心の中で嘆息しつつ、彼女はゆっくりと口を開いた。
「取引がしたいの」
目線で先を促す赤井に、名前が続ける。
「あなたが潜る予定の組織に、あなたと同時期か少し遅れて、日本人の男が一人入るわ。ツリ目がちな黒髪の男よ。…まあその時は染めてるかもしれないけど」
あえて零の存在は匂わせない。彼にまでリスクを背負わせるつもりはなかった。
「彼に危険が迫ったら教えてほしい。そして、できれば彼を逃がす際に力を貸してほしい」
「見返りは」
「組織の情報」
その答えに、赤井がわずかに目を見張る。じっと見つめられるが、名前がそれ以上話す気がないのがわかると彼は質問を変えた。
「その日本人の男とは?」
「公安警察の潜入捜査官よ」
「!」
今度はわかりやすく瞠目した赤井に、名前の笑みが深まる。
「……君は」
「あなたと同じ、公僕なの」
全くそうは見えない妖艶な笑みに、初めて赤井がため息を吐いた。
「…リスクが高すぎる。君から得られる情報というのがどの程度かわからない以上、簡単にイエスとは答えられないな」
当然の答えだった。
「あら残念、突っ込んだ情報も多いのに。もちろんいきなり全てとはいかないけれど…必ず相応のものをお渡しするわ」
ただでさえリスクの高い潜入捜査官にさらなるリスクを背負わせようというのだ。渡す情報をケチるつもりはない。
(でも、彼が全てを知るのはまだ早い)
情報の全てを開示するのは、以前と同じく、彼がコナンとの協力体制を築いてからがベストだろう。組織を壊滅に追い込んだ方法を名前が知らない以上、コナンの頭脳は必要不可欠だ。
顎に手をやってジッと考え込んでいた赤井が顔を上げる。
「それが本当なら、なぜ公安が潜る必要がある?すでに必要な情報は得ているんだろう」
そのもっともな問いに、名前は困ったように眉尻を下げてみせた。
「潜入自体防げたらそれが一番いいんだけど…非合法な方法で得た情報だから、あまり大っぴらにもできないのよ。それに、公安が一枚岩とも限らないでしょう」
(…実際は情報の入手経路を証明できないからだけど)
「自分の組織に内通者がいるとでも?」
「可能性はゼロとは言い切れないわね」
その答えに、赤井は目線を鋭くして名前を見つめる。一瞬の綻びさえ見逃さないというその眼光に、名前は内心で感心しながらもそれをじっと見つめ返した。
彼女の視線から何も読み取れなかったのか、赤井が短く息をつく。
「……なかなか、魅力的な取引ではある」
「それはよかった」
「君という人間が信用できれば、の話だがな」
ですよね、と名前は心の中で頷いた。
「残念ながら、今はこれ以上渡せるものがないの。情報も取引が成立してからよ」
「俺が君に無理矢理吐かせるとは思わないのか?」
「武闘派じゃないから、痛いことはやめてもらえると助かるわ」
いつかと同じ問いにいつかと同じように返す。未来のやりとりを知らない若い彼は、相変わらず警戒心を見せない名前の微笑みに顔を顰めた。
「……でも、そうね」
指先を口元に当て、名前がふと考え込む。
「実際にリスクを取るのはあなただもの。もう一つくらいなら…」
「…何をするつもりだ?」
ベッドから立ち上がった彼女に、赤井が訝しげに声をかける。
「…シャワー浴びるけど、逃げないでね」
シャワールームに続くドアに手をかけて、視線だけで赤井を振り返る。そのままドアの向こうに消えていった彼女を、赤井は無言で見つめていた。
***
潜入捜査官が本来の目的以外のものを望めば、その身に降りかかるリスクは桁違いに増す。特に黒の組織のような犯罪組織への潜入であれば、失敗はそのまま死とイコールだろう。
それは彼女もよくわかっているし、だからこそ以前、ベルツリー急行でシェリーを保護しようとした零もナーバスになった。
名前はシャワーを浴びながら、自分のやろうとしていることに目を伏せた。
(組織の情報と引き換えとはいえ、ヒロくんを助けたいと思うのは私個人の願望。それに付き合わせるんだから、こちらもリスクを取らなくては)
シャワーを終え、着てきたワンピースに袖を通す。髪を乾かしてシャワールームを出た名前に、振り返った赤井が目を見張った。
「……これは、驚いた」
言葉通りに驚いた表情を浮かべる赤井に、名前は心の中で「珍しいもの見た」と笑う。
彼の目線の先にいる黒髪黒目の女は、紛れもなく苗字名前本人だ。
「…逃げないでいてくれて、ありがとうございます」
再びベッドに腰掛けながら名前が微笑む。
「マスクでも被っていたか?」
「いいえ、ちょっとメイクを落としただけです」
腕に抱えているコートのポケットには、最終手段としてクレンジングシートが入れてあった。素顔を見せずに済むならそれに越したことはないが、彼の信用を得るためなら躊躇うつもりもなかった。
「こうも変わるか。恐ろしい技術だな」
「恐縮です」
「今が素顔ということでいいのか?」
赤井の問いかけに、名前は「確認されるならどうぞ」と目を閉じてみせる。
一拍置いて立ち上がった彼は、ベッドに座る彼女の前に立ってその両頬に手を添えた。メイクが乗っていないか確認しているのだろう。時折肌を滑る指先や、まつ毛や首筋にまで感じる視線がくすぐったい。
「…なるほど。確かに素顔のようだ」
手が離れたことを確認し、名前が目を開ける。彼はまだ目の前に立ったままだ。
「変装を得手とする諜報員が素顔を曝すとは、よほど本気らしい」
「本気でなければFBIの手を借りようなんて思いませんよ」
微笑む名前に、赤井も「違いない」と薄く笑う。
不意に肩をトンと押され、意識して力を抜いていた名前の上体がベッドに倒れ込んだ。
「……さて」
男が自分を組み敷くのを、名前は表情を変えずに見つめている。
「せっかくシャワーまで浴びてくれたんだ。…遠慮なく、いただいておこう」
端正な顔が近づいてくるのに合わせて、彼女は目を閉じた。
***
ベッドに腰掛けた名前は、手元のメモに目を落とす。そこに書かれているのは赤井の電話番号とメールアドレスだ。
あれから彼は唇が触れ合う直前で止め、体を起こしてこう言った。
「これも覚悟していたか」
抵抗どころか、少しの怯えすら滲まなかったことに感心しているようだった。
彼に続いて体を起こした名前は、髪を整えながらニッコリ笑ってみせた。
「目的が達成できるなら手段にはこだわりません」
「…なるほど、いい女だな」
いつかと同じ答えを返した彼女に、それを知るはずのない彼もまた同じ言葉を返す。
それから赤井は自分の連絡先を手渡すと、「連絡を待っている」と言い残して部屋を出て行ったのだ。
「あー疲れた」
メモを手にしたまま、ベッドに仰向けに倒れ込む。なんにせよ、ここでの目標は達成された。
(顔が突っ張る…早くホテル帰ってスキンケアしよう)
そうは思うものの、脱力した体はしばらく動いてくれなかった。
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