2-7
VIPルームを出て辺りを確認しながら元の場所に向かうが、安室はまだ戻っていない。纏わりつくキツい匂いのせいか頭痛がしてきた名前は早々にここから立ち去りたかった。
(いや、マジで頭ガンガンしてきた…吐き気もする。ヤバいかな)
パーティーバッグからコンパクトミラーを取り出し、自身の顔を確認する。
(目の充血もないし気分の高揚もない。匂いで酔っただけか)
薬物中毒なんて冗談じゃない。ミラーを仕舞ってため息を吐いたところで、安室が戻ってきた。
「お待たせしました」
「あっ、おかえりなさーい」
すぐに顔を作って笑いかける。顔色の悪さまでは取り繕えなかったらしい。安室がわずかに眉根を寄せた。
「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
「うー、匂いに酔っちゃったかも」
指摘してくるということは、用はすべて済んだのだろう。連れの体調不良は、帰る口実としてはちょうどいい。彼女もそれに乗ることにした。
「今日はもう帰って休みましょう」
「うぅ、すみません……」
「気にしないでください。送ります」
連れ立って店を出た二人は、少し離れたコインパーキングに停められていたRX-7に乗り込む。
するとそれを待ち構えていたかのように、安室の携帯が着信を告げた。
「すみません」
一言断った安室が車を降り、電話に出る。数分で戻ってきた彼は「もう大丈夫です」と名前に告げた。
「組織の人間からでした。盗聴器も破棄してきたので、普通にしていてください」
「りょーかいー…」
力ない返事に、彼がこちらを見る。その顔つきはすっかりいつもの降谷に戻っていた。
「苗字さん?」
「ごめん、匂い酔い結構ひどくて…。めっちゃ頭痛い」
「大丈夫ですか。吐き気は?」
「吐かない程度にある」
ぐったりとシートに身を預ける彼女に、一瞬思案した降谷が提案する。
「……安室透の家ならここから近いですが、少し休みますか?」
ゆっくりとした動作で顔を上げた名前が、「いいの?」と聞き返す。
「その状態で放り出せませんから」
「……ありがとう」
服にも髪にも匂いが染み付いててしんどいから、シャワー貸してね。
何も考えずそう言った名前に降谷が一瞬動きを止めるが、弱っている彼女がそれに気付くことはなかった。
***
「うう、頭痛い…自分についた匂いがずっと追い打ちかけてくる…」
同じ職場になって半年ほど経つが、降谷は弱った名前を見るのは初めてだった。車から彼女を降ろし、背を押すようにして自室へと誘導する。彼女はずっと泣きそうな顔で痛い痛いとブツブツ呟いている。
「まずシャワーを…シャワーを浴びさせてください……」
「……わかりましたから。ほら、着きましたよ」
ドアを開けて促すと、名前が「零くんの匂い…」と小さく呟いた。
「え?」
「お邪魔します…」
「ああ、はい」
(聞き間違いか)
「洗面台にクレンジングオイルがあるので、使ってください」
組織の女に変装させられた時に買った物が、確か置いてあったはずだ。
彼女に声をかけながら、ジャケットを脱いで振り向いた降谷は自分の目を疑った。
「苗字さん!?」
(何やってんだこの女…!?)
彼女はその場でタイトワンピースを脱ぎ捨てており、黒い上下の下着姿になっていた。こんもりと形のいい胸がブラに窮屈そうに収まって…って何を考えているんだ自分は。
「んー?」
「ちょっ、」
彼女の手が背中に回り、ブラを外そうとしたところで思わずそれを止める。肩紐のないそれはホックを外した瞬間にアウトだろう。
彼女がこちらを向いていたので意図せず抱き締めるような形になってしまったが、背中に回した手でブラのホック部分をぎゅむっと掴んだことでなんとかポロリは避けられたようだ。
「…な、何してるんですか…っ」
こんなに焦ったのは警察官になって以来初めてのことかもしれないと降谷は思った。
「……外せないんだけど」
後ろに回された彼女の指先が、ホック部分を握り締める降谷の手を爪でカリカリと引っ掻く。
「っ、いや外さないでくださいよこんなところで」
「うう…頭痛い……近くで大きな声出さないで…」
ぎゅっと眉根を寄せるその表情は本当にしんどそうだ。普段から体調を崩す姿を見たことがないので、本人も相当参っているのだろうか。にしてもちょっと自分の行動を顧みてほしい。ちょっとでいいから。
「……わかりましたから、とりあえず後は脱衣所でやってください」
「んー」
ずりずり引きずるようにしてなんとか脱衣所に閉じ込め、降谷は長いため息を吐く。
「あ、なんか適当に服貸して」
扉越しに聞こえた呑気な声に、降谷は今度こそ脱力して座り込んだ。
***
「どうもすみませんでした」
結局倒れ込むようにして降谷の布団を占領して寝た名前は、翌朝開口一番に謝罪した。
「頭痛とか久しぶりすぎてちょっと色々混乱してました」
「……いえ、よくなったならいいんです」
顔を上げて見た降谷はどことなく疲れた表情をしている。一方の名前はぐっすり眠れて頭痛もなくなり健康そのものだ。本当にごめんねともう一度頭を下げた。
(家入った辺りから未来の零くんに接してる気になってた……弛みすぎだろ私)
この時代に来て何年経ってると思ってるんだ、いい加減慣れろと内心で項垂れる。通算したら警察官何年目だ?ベテランだろ?
「そもそも今回、協力を願い出たのは僕ですし。その件は本当に助かったので、もう気にしないでください」
名前がこれ以上恐縮しないよう気を遣ってくれるのがありがたい。今はまだ三年目の25歳だというのに、降谷はいつの時代も気の利く男だった。
「うーん…お詫びにってわけじゃないけど、また何か手伝えそうなことがあったら声かけてね」
眉尻を下げて名前が申し出ると、降谷はパチパチと目を瞬かせた後、「それは助かります」と表情を柔らかくした。
ただしそうは言ったものの、元々個人で動くことの多いゼロでは、協力して動く機会自体少ない。
それからの数ヶ月で名前が降谷にできたことといえば、彼の車が大破した時に降谷名義のマンションの下まで送っていったことくらいだ。
申し訳なさが止まらなかった名前は、結局彼が「本当にもういいんで」というまで本庁で会うたびにコーヒーを奢り続けた。
そして赤井から「スコッチがNOCと組織に知られた」という連絡が来たのは、その年の冬のことだった。
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