3-1


『スコッチの件に組織が気付いた』

一文だけの短いメールをすぐに削除して、名前はすっかり覚えてしまった番号に電話をかけた。

『俺だ』

特徴的な深みのある声が通話口で応える。

「指令は赤井さんに?」
『ああ、すぐに始末せよとな』
「タイミングは?」
『任されている。そうだな、明日の夜にしよう。準備の方はどうだ?』
「ぬかりなく」
『では手筈通りに』
「ええ。―――彼をお願いします」

頼まれた、と短く答えて通話が切られる。
名前は沈黙したスマートフォンを握り締めて、ベッドにごろりと寝転んだ。

(……ついに来た)

大丈夫。打ち合わせ通りに事を運ぼう。そう言い聞かせても、一度速まった鼓動はなかなか静まりそうにない。

(最後にもう一度、下見しとかなきゃ)

赤井が諸伏を追い込む場所として、すでに一棟のビルがピックアップされている。
付近には使われていないビルが点在しているが、そのうち解錠せず侵入できるビルはその一棟のみ。
すでに下見は済ませてあるが、状況に変化がないかもう一度現場を見ておきたいところだ。

(…一分の隙も許されない)

今回は機械のスイッチ一つで済むような簡単なヤマではない。名前は仰向けのまま数回深呼吸し、「よし」と気合いを入れて体を起こした。




***




どこにでもいる地味なOL姿に変装した名前が見上げるのは、現在は使われていない一棟のビルだ。
ビルの外側には非常階段があり、各階層のドアは施錠されているものの、屋上なら解錠の必要なく侵入できる。

(元の時代でヒロくんが死んだのも、多分このビル)

未来で零から聞いたのは大まかな場所と赤井とのやりとり、それから諸伏が自決であったということと、その弾丸が彼のスマートフォンを撃ち抜いていたということだ。
詳しい場所までは聞かされていなくても、この辺りの建物を調べれば、現場となり得るのはここだけだとすぐにわかった。

名前は非常階段を上り始める。
金属製のそれはゆっくり上る分には問題ないが、少し足を早めればカンカンと耳障りな音を立てる。

(零くんは赤井さんがヒロくんを自決に追い込んだって言ってた…けど)

それは違う。名前はそう確信していた。

FBI捜査官である赤井は、諸伏が公安からの潜入捜査官だと知ったらどうするだろうか。
保身のために見殺しにする?───いや、違う。組織に噛みつくための牙となり得る人物を、彼がみすみす見殺しにするはずがない。
アメリカには証人保護プログラムもあるし、まずは保護を試みるはずだ。

(でもそれは失敗する)

失敗したからこそ諸伏は死んだのだ。
名前との接触というリスクを赤井に取らせているのも、かつて失敗した彼の保護を確実に成功させるためだ。

(では、なぜ保護に失敗したのか)

名前の足がカン、と音を立てて止まる。
足元を見下ろす彼女の脳裏には、見たことのないはずの光景が浮かんでいた。

自決のため自らに銃を向ける諸伏。それを止める赤井。二人の元に聞こえてくる、カンカンという耳障りな足音―――

(……なんて、悲しいんだろう)

そこに悪人は一人もいないのに、死ななくていい命が散ってしまう。

(零くんにはもう、そんな悲しみを味わわせたくない)

自分が自決のきっかけを作ったなんて、彼は知らなくていい。

(…そんなこと、私がさせないから)

足元を見つめていた彼女の視線が上がる。
階段の先を睨みつける彼女の瞳には、決意の炎がゆらゆらと揺らめいていた。




***




『悪い降谷。奴らに俺が公安だとバレた』

諸伏からのメールを確認した降谷は、脱兎のごとく駆け出した。
最後に確認した居場所と周辺の立地状況、彼が取るだろう行動を瞬時にシミュレーションして行き先を絞る。

『逃げ場はもう、あの世しかないようだ』

―――じゃあな、ゼロ。

(そんなこと、絶対にさせるか…!)

とにかくこの窮地を切り抜けさえすれば彼の身は守れる。潜入任務から外して、組織の件が片付くまで身を隠させればいい。だからもう少しだけ持ちこたえてくれ。降谷は祈りながら走った。

彼が今いるだろうエリアには、今は使われていないビルが点在している。そのほとんどが施錠されており、追われながら咄嗟に身を隠すには向いていない。しかしその中に、屋上まで解錠せず上れるビルが一つだけある。
降谷の足はそのビルに向かっていた。

「!」

目的のビルに近づいたところで、降谷は非常階段の前に佇む人影を認めて足を止めた。
黒いキャップに短い黒髪、着ているパーカーやボトムス、スニーカーまで全て黒だ。組織の人間だろうか。

「……そこで何を?」

逸る気持ちを無理矢理抑えつけながら、降谷が問いかける。
黒ずくめの人物がゆっくりと顔を上げてこちらを見た。女性だ。降谷の質問に答えるつもりはないようで、こちらをじっと見つめている。

「そこをどいてください」

今すぐにでも押しのけて屋上に向かいたい。だが彼女が本当に組織の人間だったら?かろうじて残る理性で踏み留まろうとするが、今まさに命の危機に瀕している男を思えばそれすらも危うい。
ここで無言の女と不毛な問答をしている暇はないのだ。

「どいてくれないのなら…力づくで通ります!」

ダッと踏み込み、女性の顔に向けて右拳を振り抜く。避けたところに間髪入れず左を振るが、彼女はそれも避けると降谷の左腕に沿うように体を回転させ、その勢いで彼の顔面に向けて右の裏拳を繰り出した。
咄嗟に上体を反らして避けた降谷に、勢いを殺さずに体を捻った彼女の左足が迫る。

「くっ」

後ろに跳んで距離を取る。
間を空けずに再び距離を詰めた降谷が左拳を胴体に叩き込もうとすると、向かって右にずれた彼女がその腕に左の掌底を当てていなす。

(かかった!)

左はフェイントだ。彼女の死角で握り締めた右拳を、近付いた側頭部に向けて思い切り振り抜いた。

「なっ!?」

こちらを見る間もなかったはずだが、素早くしゃがんで避けた彼女が地面に手をつき、降谷の顎を右足で蹴り上げる。
間一髪首を傾けて避けた降谷だったが、思わずたたらを踏んでよろめいた。

(?…追撃してこない?)

畳み掛ける好機だったにもかかわらず、彼女が仕掛けてくる様子はない。
素早く非常階段の前に戻り、こちらをじっと見つめてくる。

(くそっ、やりにくい)

降谷の手の内を読んでいるかのような動きに、予測しづらい型のない攻撃。
焦れた降谷がまた一歩踏み出そうとしたところで、ドンッという発砲音が夜闇にこだました。

「!」

(ヒロ!まさか、そんな…!)

銃声は一発だけ。降谷は思わず最悪の事態を想像して屋上を仰ぎ見た。

「……ッ」

ギリギリと奥歯を噛み締める。全ては終わってしまったのだろうか。

(屋上の人物が降りてきたら圧倒的に不利だ)

しかもすでに、組織の人間であろう彼女に攻撃するという愚行を冒している。このままではNOC疑惑が自分にまで及びかねない。

親友が今まさに死んだかもしれないというのに、職務遂行のための最善手を考えている自分に反吐が出そうだった。

(ヒロ、すまない…!)

やむを得ず一旦退くことにして足早にその場を離れた降谷は、それまで対峙していた女性が安堵のため息を吐いたことに気付くことはなかった。


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