3-3
あの後赤井から連絡があり、諸伏は無事公安の人間と合流できたようだった。
彼は名前に礼が言えなかったことを最後まで気にしていたらしい。律儀な男だ。
降谷には短時間とはいえ辛い思いをさせてしまったが、彼もきっと無事を知って安堵したことだろう。
首都高でスコッチを追い詰めたが東京湾に車ごと落下してしまったと、赤井は組織に報告した。
案の定末端の構成員を使って死体を探したようだが、広い東京湾ですぐに見つけられるはずもない。結局その二日後に、警察が湾内で身元不明の死体を発見したという報道がなされた。朝刊と朝のニュースで報じられただけのそれは、あっという間に他のニュースに塗り替えられ、人々の記憶に残ることはなかった。
名前は赤井に今教えられる情報を全て渡し、彼との取引も無事に終わった。彼と次に会うのは4年後のバスジャック事件だろうか。
(ヒロくん、ヒゲ生えてたなぁ)
事前情報通りヒゲを生やしていた諸伏の姿を思い出し、名前の口元が弧を描く。
似合っていたような、似合っていなかったような。潜入任務のために生やしただろうそれは、今はもう剃ってしまっただろうか。
(もうちょっとちゃんと見とけばよかった)
もしかしたらもう見られない貴重な姿だったのかもしれない。ふふ、と思わず笑みが漏れた。
「何かいいことでもあったんですか?」
聞こえた声に顔を上げると、隣のデスクに降谷が座るところだった。
「あれ、降谷くんだ。珍しいね」
「報告書を作りに来ただけですけど、そしたら苗字さんが笑ってたので」
「うわ恥ずかしい…。ちょっとね、思い出し笑いを」
両頬を押さえた名前がごまかすように笑うと、「珍しいですね」と降谷が目元を緩ませる。
「…降谷くんも、何かいいことあった?」
「え?」
「いつもより表情が柔らかい気がして」
気付いていなかったらしい。目を瞬かせた降谷が自分の頬に触れた。
「そうですか?」
「うん、なんとなくね」
それは降谷をよく知る名前だからこそ気付いた、わずかな変化だった。彼は顎に手を当てて少し考え込んだ後、何かを思い出すようにして目線を下げた。
「…いいこと、というか。心配していた友人の無事がわかって安心したというか。…ちょっと気が抜けているのかもしれません」
そう言って苦笑した降谷に、名前もまた安堵した。よかった、ちゃんと彼の無事は伝わっているようだ。
「…お友達、無事でよかったね」
きっと今の自分はだらしない顔をしているだろう。諸伏を助けられたという実感が今まさにじわじわ湧いてきて、にんまり笑う顔を抑えられそうにない。
あまりに嬉しそうに笑う名前に一瞬言葉を失くした降谷だったが、つられるように彼も「はい」と柔らかく微笑んだ。
***
冬が終わり、春がやってきた。
名前の警察官としてのキャリアも、二度目の5年目に突入しようとしていた。
“一回目”のこの年、彼女は普段使い用に女子大生のカバーを作った。米花町や杯戸町を出歩くのに都合がよく、結局4年以上使ってしまったあのカバーだ。
今作ると設定は大学一年生で、年齢は18〜19歳となる。8歳のサバ読みとは当時の自分も思い切ったものだと思うが、使い勝手もよく気に入っていたので、今回も同じように作るつもりでいた。
(そういえば、初めて零くんを拾ったのもこの頃だったな)
名前の自宅マンションのすぐ下で、小さなSOSを発していた零を彼女は連れ帰った。潜入捜査の疲れもあっただろうし、諸伏の死後数ヶ月ということもあって精神的に溜め込んでいるものも多かったのだろう。
(でも今回は、ヒロくんも生きてるし…)
諸伏の死というストレス要因がない今、彼が自分に甘えてくるところは想像できない。きっと今回、あの出来事は起こらないんだろうな、と名前は若干フラグめいたことを考えていた。
***
そしてその数日後。
朝の5時に三回だけ震えたスマートフォンに、ソファで微睡んでいた名前は飛び起きた。
(えっ、なんで?)
すでに着信は途切れているが、ディスプレイに表示されている番号は見覚えのあるものだ。
カーテンを少し開けると、眼下には白いRX-7が路駐されているのが見える。
(何か別のトラブルかな)
すぐにその番号に折り返す。彼が無言で電話に出るのまで、記憶通りだった。
「どうかした?」
通話口の向こうに問いかけると、少しして彼の声が聞こえる。
『……苗字さん』
絞り出すようなその声に、名前は喉の奥がぎゅっと詰まるのを感じた。何があったのかはわからない。でもその声は、確かに助けを求めていた。
「今行くから、そこで待ってて」
返事を待たずに通話を切り、エレベーターで一階に向かう。無人のエントランスを抜けてマンションを飛び出し、通りの反対側に渡ると、名前は躊躇わず運転席の窓をノックした。
驚いたのか、シートを倒して横になっていた降谷が弾かれたように体を起こす。名前はロックのかかっていないドアを開けて声をかけた。
「部屋の窓から丸見えだったよ。そっちに寄れる?車来ちゃう」
「…えっ、苗字さん?」
呆気に取られながらも、降谷が助手席に移動する。名前は運転席に座ってシートを起こし、ルームミラーを調節して車を発進させた。
「…あの」
「とりあえず移動させるね」
ちらりと横目で見た降谷は珍しく顔色が悪い。「はい」と小さく答えるのを確認して、自宅マンションの駐車場まで彼の愛車を走らせた。
GT-Rの隣の駐車スペースに車を停めると、名前は助手席に座る降谷の顔を覗き込む。
「!」
「顔色悪いね…。でも目元は赤いし、目もちょっと潤んでる」
「……」
「ちょっとごめんね」
名前が降谷の額に手を当てると、彼はハッと息を呑んで体を硬くした。
「…熱、すごいんだけど」
手のひらに伝わる熱さに彼女が驚くのを見て、降谷はバツが悪そうに目線を逸らす。距離が近付いたことで、彼からほのかに硝煙の香りが漂った。
「今、仕事帰り?」
「…はい」
「相変わらず無茶するなぁ…。部屋、上がっていって。解熱剤もあるから」
そう言いながら体を離し、彼の返事を待たずに運転席を降りる。回り込んで助手席のドアを開けると、降谷が信じられないものでも見るかのような顔で彼女を見上げていた。
「ん?どうかした?」
「い、いや…部屋って…」
「だってそのままの状態で帰せないでしょう。運転もやめた方がいいし、車で寝ても良くはならないよ」
正論に言葉を詰まらせるが、何を躊躇っているのか車を降りる気配はない。それに痺れを切らした名前が言葉を重ねる。
「…あのね、限界を超える前に周りを頼るの。セルフマネジメントの基本でしょう」
後輩に心配されてるようじゃ先輩失格だよ、と呆れ顔で笑う名前に、降谷はようやく観念したようにため息を吐いた。
「…先輩だなんて思ってないくせに」
どこか不貞腐れたような反論が可愛く思えて、名前は笑いながら彼の手を引いた。
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