3-4


「38.9℃」

…って高いよね?と体温計を見ながら名前が首を傾げる。自分自身滅多に体調を崩さないが、一般的に考えてこれは高熱だろう。

「高い、ですかね…多分…」

ベッドに腰掛けた降谷は、数値を聞いてしんどさが増したのか項垂れている。
ソファでいいと言い張る彼をベッドまで引っ張ってきたのは正解だった。名前は今朝ソファで仮眠を取っていたのでシーツは未使用だし、このまま寝かせてしまって問題ないだろう。本人は硝煙臭いのを気にしていたが、今シャワーを浴びたら浴室で倒れそうだ。

「とりあえずパーカー脱いで横になってて。冷えピタくらいはあったはず」

熱は上がりきっているようだし、後は薬を飲ませて冷やしておけばいいだろう。寝室を出た彼女が冷蔵庫を確認すると、眠気覚まし用に買い込んだ冷えピタがしっかり冷えていた。

半分に切った冷えピタと解熱剤、牛乳と水が入った二つのコップを持って名前が寝室に戻ると、降谷は言われた通りTシャツ姿でベッドに横になっていた。腕で視界を覆い、片膝を立てて無造作に寝転ぶ姿はいつになく隙だらけだ。

「ごめん、ちょっとだけ体起こせる?薬持ってきたから」
「……あー、はい」

のそのそと体を起こした降谷に、まずは牛乳入りのコップを渡す。空っぽの胃に解熱剤を入れるのはよくないだろう。意図がわかったらしい降谷が素直にそれを飲む。

「はい、薬」

シートから一つ切り離した解熱剤を彼の手のひらに落とし、水の入ったコップを手渡す。降谷は何も言わずにそれを飲むと、再びバタリとベッドに倒れ込んだ。そこにすかさず冷えピタを頸動脈に貼り付けると、彼からは「うぁ」と情けない声が漏れた。反対側も同様に貼る。

「今日の予定は?」

再び腕で視界を覆ってしまった降谷に、名前が問いかける。数秒の間が空いて、降谷がポツポツとそれに答えた。

「私今日は午前だけだし、最初の二件は引き継げるよ。その件わかる人、他にいる?いたら番号教えて」

それに対して降谷が諳んじた電話番号を一度口の中で転がし、記憶する。“一回目”の時には聞いた覚えのないそれは、おそらく風見の電話番号だろう。

「後で連絡しとくね。残りの一件はその人に任せとくから、今日は一日休んでて」
「……すみません」

今にも消え入りそうな声で降谷が呟いた。
実のところ、結婚後も彼が熱を出した姿は一度も見たことがない。健康管理オタクの彼がこんなにわかりやすく体調を崩すなんて、本当に珍しいことだった。

「…疲れ、溜まってた?」

暑いだろう布団を片付けて代わりにタオルケットを取り出しながら聞く。出したそれを降谷の腰辺りに掛けると、「疲れというか…」と彼が口を開いた。

「…ヒロ、死にかけたんです」
「え、諸伏くん?」

ベッドに腰掛けながら、名前は素で目をぱちくりと瞬いた。えっそれ聞いていいの?

「あいつ…警視庁公安部に配属されて、僕と同じ組織に潜入してたんです」

同じ公安だから、どうせいつか知れると思ったのだろうか。
セーフハウスにでも隔離して安全が担保されたから、そろそろ話してもいいと判断してくれたのかもしれない。

「それでNOCだってバレて消されかけて…まぁ、ある男に助けられたんですけど」

後半、急に声のトーンが落ちて苦々しげな声色に変わる。確執はなくとも、赤井とは馬が合わないらしい。

「組織がある限りヒロは表に出られないので、早く片付けないとって……」

彼を早く警察官に戻してあげたい一心で、無理をしすぎたのだろう。降谷の責任感の強さを見誤っていた名前もまた、苦々しげな表情を浮かべた。

「…降谷くんは、自分の力を過信しすぎだよ」
「え?」

横になったままの降谷が、視界を覆っていた腕をずらして名前を見た。

「いくら焦っても、一人でできることには限界があるんだから」

組織を確実に追い込むには、赤井やコナンの力が絶対に必要だ。それでも足りないというなら自分もいる。優秀な部下たちだって、彼に頼られるのをずっと待っている。

「それ……」

何かを懐かしむように目を閉じた降谷が、ぽつりと呟く。

「伊達にも、似たようなことを言われました」
「伊達くんに?」

頼りになる兄貴肌の班長が脳裏に浮かぶ。確かに、面倒見のいい彼なら言いそうだ。

「たまに、メールも来るんです。何してるんだって」

それは未来の零も言っていたことだった。名前にも降谷や諸伏を案じるメールを送ってきたように、彼はいつもかつての仲間を気にかけていた。

「どうせ返せないんだから、メールアドレスも変えてしまえばいいのに…変えられなくて」

消え入りそうな彼の声に、名前は思わず口を開いていた。

「返せばいいよ」
「え?」
「組織の件が全部片付いたら、返してあげればいい」

何言ってるんだ?という目で、降谷が名前を見る。公安捜査官にあるまじきことを言っているのは自覚しているが、名前は口元に笑みを乗せたまま続けた。

「全部終わったらの話だよ。一回くらい、また同期の5人でこっそり集まってもバチは当たらないんじゃない? …その時には降谷くんは世界的な巨大犯罪シンジケート壊滅の功労者だし、君を唆した私もきっと警視に昇進してるし、バレても始末書くらいで済むと思うの」

ね、といたずらっぽく笑う名前に、目を丸くしながら話を聞いていた降谷が脱力したように溜め息を吐く。

「……警視って。それ、何年後の話ですか?」
「順調にいけばあと三年かな」

その答えに、降谷がふっと笑った。

「組織潰すのにまだ三年もかかるんですか」
「世界的な犯罪組織だよ?もしかしたら、もっとかかるかも。だから今、一人で無茶しても意味ないよ」
「…なるほど。それもそうだ」

納得したように微笑む降谷に、名前の笑みも深まる。一人で突っ走りがちな彼も、これで少し冷静になってくれただろうか。
ふと、高熱でいつもより潤んでいる降谷の視線が、じっと名前に向けられたまま逸らされないことに気付く。

「ん?」
「……あの」
「何?」

どこか言いにくそうな降谷に、名前はベッドに腰掛けたまま体を少し彼の方へ向けた。

「…二人の時は、また下の名前で呼んでもいいですか」

縋るような視線に、名前は思わずウッと心臓を押さえたくなったがなんとか堪えた。くそっ、かわいい。

「もちろんだよ、零くん」

いつかのように返した名前に、彼もまた目元を緩めた。

「…ありがとうございます、名前さん」




***




うとうとし始めた降谷を残して寝室を出た名前は、彼から聞いた番号に電話をかけた。案の定電話に出たのは風見で、彼女が名乗ると硬直していたがなんとか引き継ぎは完了した。
降谷が高熱で寝込んでいるというのも、彼の動揺を誘ったようだった。

(健康管理オタクだもんな…)

名前自身、降谷に梅昆布茶の安眠効果とセロリの栄養素を力説されたのは記憶に新しい。聞くのは二回目だからすっかり覚えてしまったのもなんだか悔しかった。
そういえば、警察学校時代に諸伏に「料理はからっきし」と言われていた彼だが、すでに料理関係の蘊蓄も備わっているようだ。もうマスターしたのだろうか。早くない?

女としての敗北感を覚えながら寝室のドアを開けた名前は、ベッドに横たわる彼の胸が規則的に上下しているのに気付いた。

(……寝たのかな)

風見との引き継ぎにかかった時間は30分程だ。解熱剤が効いていれば、そろそろ体温が下がり始める頃だろう。

静かに近付いてみれば、視界を覆っていた腕は外れていて、幼さの残る寝顔がよく見えた。そっと額に触れると、先程の熱さに比べて若干落ち着いているようにも思える。
持ってきたタオルで額や首元の汗を拭き、手触りのいい金髪を優しく撫でる。

(相変わらず柔らかい)

いつの時代も変わらない感触に、名前は頬が緩むのを感じた。彼女はこの髪を触るのが好きだった。起こさないようゆっくりと撫でながら、気持ちのいい感触を堪能する。

(…早く良くなってね)

祈るようにその髪に唇を落としてから、名前はハッとした。

「あ…しまった」

だから結婚してないっつーの。

(いかんいかん、弛んでる)

彼が起きていないのを確認して、名前はそっと寝室を後にした。ダイニングテーブルにメモを残して仕事に向かう彼女は、玄関のドアが閉まると同時にむくりと体を起こした男には気付かなかった。
降谷は熱と動揺でぐらぐらする頭を気にも留めず、口元を手で覆い隠して目を丸くしていた。

「……なんだ今の」


prevnext

back