3-5


夜遅くに名前が帰宅すると、そこに降谷の姿はなかった。
すでにメールでそれを把握していた彼女は驚かない。用意しておいたレトルトのお粥を食べたようで、ゴミ箱にパッケージが捨てられていた。使った食器は律儀にも洗って片付けたのかシンクには何もない。傍らに置いておいた栄養ドリンクは持って出て行ったようだ。

(また無茶してませんように)

39℃近い熱があった人間が、一度解熱剤を飲んだだけで全快したとは思えない。お得意のセロリ料理でも食べてしっかり静養してくれるのを祈るばかりだ。



名前が次に降谷と会ったのは、およそ一ヶ月後のことだった。
世間がゴールデンウィークに浮かれる中、彼女は降谷からの要請を受けて彼の元に出向いた。
かねてからマークしていた人物がある中国人女性に頻繁に接触するようになり、調査した結果どちらも確保対象となったらしい。背後にはそちらの国の組織も関与しているとかで、通訳も仕事の内だろう。

二人が次に接触するタイミングを狙うため、名前は降谷と一緒に張り込むことになった。




***




「張り込みなんて何年ぶりだろ」

久しぶりだなぁ、と呟きながら助手席で缶コーヒーを傾ける名前に、降谷は「ですね」と同意した。
今回は関与が疑われる組織の規模を鑑みてゼロ二人が出張ることになったが、本来張り込みなんて彼らの仕事ではない。

それでもどこか楽しそうに話す名前を降谷は横目で窺っていた。

「…ちょっと楽しんでます?」

降谷の問いかけに、名前は「ちょっとね」と小さく笑う。

「なんか警察官やってますって感じで」
「いつも警察官ですけど」
「言葉の綾だから」

軽口の応酬に、彼女が本格的に笑い出した。

(……いつもと変わらない)

いつも通りの彼女を眺めながら、降谷は一ヶ月前のことを思い起こしていた。

不覚にも体調を崩してしまったあの日以降、彼女とは特に連絡を取り合うことはなかった。それでも協力の要請には快く応じてくれたし、こうして隣で笑っている。
彼女に変化は見られない。変化があったとしたら自分の方だ。

「……名前さん」

名前を呼ぶと、一瞬きょとんとした彼女が「何?零くん」と笑う。

「…いや、なんでもないです」
「えー、なにそれ」

暇なの?と彼女が聞いてくるのを軽く流す。

(名前を呼ばれるのが嬉しいとか小学生か?僕は)

彼女と職場で再会した時、降谷は彼女を苗字で呼んだ。職場なんだからその判断は当然だろう。
プライベートで会うような関係かは微妙だし、そもそも二人ともそんな時間はない。だからもう彼女に名前で呼ばれることはないと思っていた。

それが、熱に浮かされて彼女に「名前で呼びたい」なんて言ってしまい、彼女に名前で呼ばれて嬉しいなんて思ってしまった。20代も後半に入った男が情けなさすぎる。

(大体なんなんだ、人の頭にキスしておいて「しまった」って。誰かと間違えたとでもいうのか?あの状況で?)

徐々に矛先が彼女の方を向くのがわかる。この一ヶ月間、降谷を悶々と悩ませ続けていたのが彼女の謎の行動だ。
いくら降谷といえど、あの行動の意図は読めない。それは次第に苛立ちに変わっていた。

(こんなことで悩んでいる自分が子供すぎて腹立たしい)

これで相手が接近対象なら、好意を持たれていればやりやすいとでも思えただろう。でも彼女はそうではないし、彼女からそういった意味での好意を感じたこともない。
むしろ万全の体調ではなかったとはいえ降谷の目の前であっさり下着姿になったことを思えば、異性とすら思われていなさそうだ。

(ダメだ、これ以上考えたらストレスが溜まる)

ため息を一つ吐いて隣の様子を窺えば、彼女は缶コーヒー片手にスマートフォンをいじっている。
いつも通りすぎる彼女に、あれこれ考えても不毛だろう。降谷はごちゃつく思考をシャットアウトした。




***




張り込みは、対象の住むアパートから少し離れたところで行われていた。
名前の協力者お手製の小型カメラをアパート前の電柱の足場釘に設置し、数日おきに訪れる中国人女性を待つ。タイミング的には今日か明日だと当たりはつけているものの、張り込み開始から半日経ってもまだ動きはなかった。

「よし、交代で休もっか」

大豆バーを食事代わりに食べ終えた名前が降谷に言う。

「え?」
「せっかく二人いるんだし、時間は有効に使わないと」

マジかこの女、と降谷は思った。自分を異性として見ていないというのは百歩譲って認めるにしてもだ。ちょっと警戒心が薄すぎではないだろうか。

「…………そうですね」

しかし、降谷自身いつ組織から呼び出しがあるかわからない身だ。休める時に休んでおきたいというのはある。
不満いっぱいに同意した降谷に、名前は小さく首を傾げていた。

「名前さん、お先にどうぞ」
「そう?じゃあとりあえず30分で声かけて」

そう言って名前は助手席のシートを倒すと目を閉じた。一時間眠ってしまうと体がだるくなるので、入眠時間も含めて30分というのはまあ妥当だろう。などと考えていれば、すぐに隣から規則正しい呼吸が聞こえ始める。寝つきよすぎか。

30分後、名前に声をかけて交代するが、正直全く寝られない。
目を閉じて横になるだけでも休まるとはいえ、本当なら少しでも寝ておきたいのに。なんで彼女はすんなり寝られたんだ、と降谷は若干八つ当たりのようなことを思った。

(いや、シート起こせよ)

運転席のシートを倒した降谷の隣で、名前もまたシートを倒したまま仰向けでスマートフォンをいじっている。
降谷は腕で視界を覆っているが、視線を横にずらせばすぐに彼女の姿が見える状態だ。眠れない。

信頼なのか、単なる警戒心の欠如なのか。
いずれにせよ、貴重な休眠時間に降谷の精神は静かに荒れていた。

「零くん、30分経ったよ」

視界を覆っていた腕を外すと、隣の名前と目が合う。彼女は降谷が起きていることを確認すると、「じゃあよろしく」とまたすんなり眠りについた。くそ、腹立つ。




***




普段から寝起きも寝つきもいい名前は、降谷と交代するとすぐに微睡み始める。

アパートに向けて設置した小型カメラには人感センサーを搭載しており、敷地内に出入りする者があれば連動させたスマートフォンのバイブで知らせてくれる。

スーツのポケットに入れたスマートフォンが沈黙している間は、二人の貴重な休眠時間だ。

(……ん?)

体感で、降谷と交代してから20分ほど。
浅い眠りについていた名前の意識がふっと浮上した。何かが自分の額に触れている。

(なんだろう…)

薄目を開けた名前は、目の前の肌色に目を瞬かせた。褐色の肌と、喉仏が見える、ような。喉仏?

「…ああ、起こしましたか」

喉仏が視界から外れ、次は恐ろしく整った顔が視界いっぱいに広がった。

「………え?」

驚くほど近い距離にいる降谷が意味深に笑う。

「先日のあなたと同じことをしてみたんですが」

(先日の…?私、と……)

「え、起きてたの!?」

思い当たった出来事に名前は血の気が引くのを感じた。

「どうしてこんなことしたんですか?」
「あっ、えーと…ていうか近い近い」

至近距離の男前やめてほしい。名前は両手を突っ張って離そうとするが両手を一纏めにパシッと掴まれてしまう。

「ひぃ」
「モヤモヤ考えるのも疲れたので、教えてもらえませんか」

モヤモヤ考えてたの?と聞き返したいが、怖くてできなかった。倒した助手席に降谷が身を乗り出しているせいで、起き上がるのはおろか距離も取れない。

「やー…だからその、うっかりというか…」
「うっかり?誰かと間違えたんですか?」

いやあの状況で人違いはないよね?と思いながらも説明できない。確かに彼からしたら、付き合ってもいない女がたびたび距離ナシになるのは怖いだろう。

「えっと…ごめんなさい…以後気を付けます」
「答えになってませんよ」
「うまく説明できないんだけど、ごめんね…もう二度としないし、」

途端、不愉快そうに眉根を寄せた降谷に名前の言葉が止まる。えっ謝った方が怒るとはどういう…?
わからないながらに名前が謝罪を重ねようとしたところで、タイミングよくスマートフォンが短く震えた。

「!動き!動きがあったよ!」
「逃げるんですか?」
「違う違う、人感センサー!誰が出入りしたか確認させて!」

早くしないとカメラの画角から出てしまう。焦る名前に降谷がため息を吐きながら両手を解放し、体を離した。

「あっほら、対象の女!」

上体を起こした名前がスマートフォンの画面を降谷に突きつける。
横顔しか見えなかったが、事前に共有された中国人女性で間違いないだろう。

「じゃあ私女を押さえるので!男はよろしく!」

捲し立てるように言って車を飛び出した名前の背後から、隠すつもりもなさそうな舌打ちが聞こえた。

(こ、こわっ!)

対象の二名は一瞬で確保された。


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