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「ああ、なんて完璧なんだ…どこもかしこも隙がない」

男は人形の髪や肌を撫で回しながら感嘆の言葉を吐き続けていた。その指先は耳、首筋、鎖骨を順になぞっていく。
きめ細かくなめらかな肌にしっとりと手が吸い付く様も男を興奮させた。

「鎖骨も綺麗だ…」

痩せすぎず程よく肉のついた鎖骨は、完璧なラインを描いている。そこに指を這わせながら男は熱のこもったため息を吐いた。

そしてその手を背中側にグッと回し、ドレスのファスナーを下げる。弛緩した体を片手で支えながら下げるのは大変だが、これも男の楽しみの一つだった。

「よぉし、下がったぞ」

反応のない人形に話しかけながらドレスの肩口を引っ張り、それをずり下げる。現れたのはレース細工の施されたコルセットだ。

「なるほどコルセットか…確かに趣味がいいな」

その上に溢れる柔らかそうなデコルテに、思わず口元がだらしなく緩む。そこに自分の指が沈むところを想像するだけでたまらなく興奮した。

男がそこに手を伸ばすのと、再びその手首が掴まれるのは同時だった。

「なっ」
「失礼」

世話役の声に振り返ると、視界いっぱいに広がったのはスマートフォンの画面だった。

「は?」

よく見ればそれは男のものだった。画面に表示されているのも見覚えがある。
これは───海外の銀行口座の、出入金履歴では。

「こちら、先月の売り上げ分で間違いないでしょうか」
「え…?」
「ああ、もちろん相席ラウンジではなく人身売買の方ですよ」

妖しく微笑む世話役に、状況が飲み込めない男は目を白黒させていた。

「これの入金元を教えていただきたいのですが。金で手に入れた名義ではなく、彼らの本名を」
「な、何を言って…」
「それから薬物の入手ルートと上納金の支払い先もね」

不意に聞こえた知らない声に、男はバッと人形を見下ろした。
いや、そこにいたのは人形ではない。ヘーゼルカラーの瞳に光を灯し、不快感露わにこちらを睨み付けてくるのは間違いなく“人間”の女だった。

「……!?ど、どうなって」

男の下から這い出した彼女が、歪めた顔を隠そうともせずドレスを着直す。

「……ピグマリオンコンプレックスも、人様に迷惑さえかけなければ単なる一性癖で済んだのに」

言いながら男に視線を寄越した彼女は、背筋が凍るほど凄絶な笑みを浮かべていた。

「残念だけど全部録画してあるから、社会的に死にたくなかったら正直に答えてね」




***




「…よく堪えましたね」
「ん?」

男から情報を抜いて部下を呼び出した後。
行きと同じく乗り込んだ車内で、名前はぽつりと呟いた降谷を見る。

「絶対に途中で手が出ると思ったんですが。さすがです」
「まあ、仕事だからね」

めちゃくちゃ気持ち悪かったけど、とヴィンテージドレスの上から自分の腕をさする。思い出しただけで鳥肌が立った。

「僕は何度もあの手首を折ろうと思いました」
「そ、そう…」

降谷の力なら枯れ枝のようにポキッといきそうで怖い。でもあの変態にはそのくらいしておいた方がよかったのかもしれない、と名前は物騒なことを思った。

「それで名前さん、この後の予定は?」
「朝になったら報告書作りに登庁するけど、とりあえずこのまま直帰かな」
「そうですか」

名前の答えに降谷が少し考え込んで、目線だけでちらりと彼女を見た。

「名前さん。もしよかったらなんですが」
「なに?」
「ハロに会っていきませんか」
「え!いいの!?」

画像でしか見たことのない子犬を思い浮かべて、名前が目を輝かせる。

「ええ、ついでに少し休んでいってください」

願ってもない申し出だった。

「やった。ありがとう」
「いえ、それに……」

降谷がそこで一度言葉を切る。

「…さっさと全身洗ってほしいので」

ハンドルを握る手にグッと力を籠める彼を見て、名前は全力で同意した。




***




深夜だからとそっとドアを開けた降谷だったが、待ってましたと言わんばかりのハロが「アン!」と駆け寄ってきた。慌てて名前と二人で室内に滑り込み、ドアを閉める。

「ハロ、しー。もう深夜だぞ」
「アン!」
「いや、いい返事なんだけど…」

苦笑する降谷にハロがまとわりつく。それを隣で見ながら、名前は口元に手を当てて悶絶していた。

「かっ…かわ…!」

画像で見ていた以上に可愛い。動いてる。尊い。ふるふる震える名前に気付いたハロが、不思議そうに近寄ってきた。

「アン?」

首を傾げる姿に名前はウッと呻いて心臓を押さえる。ハロは初めて見る人間が気になるようで、クンクンとドレスの匂いを嗅いでいる。

「…あ、これ脱がなきゃ」
「僕もハロに飛びつかれる前に着替えてきます」

降谷がそう言って自身が着ている燕尾服を示す。二人の衣装はどちらも急遽レンタルしたものだ。汚して買い取りになる前に着替えなくては。

「でももったいないね、似合ってるのに」

そう言いながら、名前はまじまじと降谷の姿を眺めた。濃紺のオーソドックスな燕尾服も、降谷が着ると高級そうに見えるから不思議だ。このまま映画にでも出られそう。
褒められた降谷は一瞬きょとんとしてから目元を緩めた。

「名前さんも綺麗ですよ。でも…」
「でも?」
「僕は早く素顔のあなたに会いたいです」

さらっと落とされた言葉に名前は言葉を失う。足元でハロがアン!と一吠えした。

「こ、これだから自覚ありのイケメンは」
「褒めてます?」

褒めてます!と捨て台詞を吐き、ドレスをたくし上げた名前が脱衣所に飛び込む。扉越しに降谷が噴き出すのを聞きながら、レンタルということも忘れて乱暴にドレスを脱ぎ捨てた。




***




シングルサイズのマットレスに長身の男と二人で無理矢理潜り込んだ名前は、その腕に包まれながら早速微睡み始めていた。

「…名前さん、まだ起きてます?」

彼女の寝つきのよさを知る降谷が囁くようなトーンで小さく問いかける。

「ん…ギリギリ」
「ちょっとだけ話があるんですけど…」
「いいよ、なに?」

目を閉じたまま先を促すと、降谷が一拍置いてから口を開いた。

「…今度、ヒロに会ってやってもらえませんか?」

言われた言葉を脳内で三回ほど繰り返して、名前が「えっ」と目を見開く。

「何かあったの?」
「いや…そういうわけじゃないんですが」

いつになく歯切れの悪い話し方で、降谷は続けた。

「ヒロは今変装してセーフハウスで生活してるんですが、万一のことを考えて僕は一切接触していないんです」
「うん」
「たまに部下に様子を見には行かせてるんですが…」
「なるほど。心配っていうか、気になるんだね。ヒロくんがどうしてるか」

部下からの報告はどうしても事務的になるし、降谷も部下に対して諸伏の友人としての顔を出すわけにはいかないだろう。名前の言葉に、降谷は小さく「はい」と答えた。

「いいよ。今度行ってみるね」
「…ありがとうございます」
「所属は公安としか言わないけど」
「十分です」

安心したのか、降谷の声が少し軽くなったのを感じる。

「…寂しい?」

胸元にすり寄りながら聞くと、降谷の大きな手が名前の髪をそっと撫でた。思えば諸伏を助けてもう二年が経つ。

「名前さんがいてくれるので、頑張れます」

寂しいかと聞かれて否定も肯定もしない降谷に、彼らしいと思いながらその体を抱き締めた。


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