5-2
自宅の衣装部屋に入った名前は、数多ある衣装を前にいつになく真剣な表情で悩んでいた。カバーの設定を組み立てる時もあまり悩まない彼女が、この空間にこんなにも長居するのはこれが初めてだった。
(どうしよう…決まらない…)
警察官になってから、彼女がこの問題に直面したことは一度もない。考える必要性がなかったからだ。カバーにはカバーの衣装、素顔にはスーツ、そうやってこれまでやってきたのだ。
この衣装部屋にはカジュアルからフォーマルまで様々な衣装が存在しているが、彼女が今探しているのはそういうのじゃない。
―――つまり、名前には私服がない。
部屋ではシンプルなルームウェアを、バイクに乗る時はバイクウェアを着る。しかしその他の場面で、スーツ以外のものを着て外出をした記憶が全くない。
(大学の頃とかどうやってたっけ?“一回目”の警察官一年目の頃とか、休日に何着てたっけ)
だめだ、全然思い出せない。カバーならすぐに似合う服が思いつくのに、自分の素顔となると全く頭が働かない。もうTシャツにジーンズでもいいかな?
名前がこんなに悩んでいるのは、今朝早くに降谷から来たメールが原因だ。彼女の潜入任務が一つ終わり、今日は一日オフだということを知っていた彼からのメールにはこう書いてあった。
『今日、ハロを連れて少し出かけませんか。できれば、素顔のままで』
彼は自分が潜入捜査官だという自覚があるのだろうか?とメールを見た名前は思った。素顔の自分と彼が並んで歩くリスクくらい、彼だって承知しているはずなのに。
(いや零くんがそうしたいならいいけど。いいんだけど!)
なんせ服が思いつかない。これは由々しき事態だ。
そして結局名前が選んだのは、白のスキッパーシャツと黒いクロップドパンツだった。ハロがいるということで靴こそスニーカーを履くが、もはやスーツの時とほとんど変わらない雰囲気である。
(もう時間もないし、いいか…)
せめて髪型くらいはと、全体を軽く巻いてからトップを緩めにほぐしたポニーテールにした。これで少しは休日感を演出できただろうか。
そうこうしているうちに約束の時間になり、時間ピッタリに『下に着きました』というメールが来る。どこに行くのかもわからないまま、名前は最低限の荷物を持ってマンションを出た。
***
「なるほど、こう来たか」
呟いた名前の眼前に広がるのは、白い砂浜と青い海だ。
ゴールデンウィークも終わり、世間が日常に戻ったばかりの平日の昼間ともなれば、辺りには人っ子一人いなかった。
「我ながら、いい思いつきかと思ったんですが」
砂浜を走り回るハロに視線を向けながら、降谷が名前の隣に立った。
「うん、いいかも。素顔でこんなところに来られるなんて思わなかった」
休日に素顔で外出なんて、今までの彼女だったら考えられない。零と結婚していた時もこんな風に外出したことはなかったし、きっとハロがいるおかげだろう。
名前が心の中で感謝しているとも知らないハロは、波打ち際でパシャパシャと音を立てて上機嫌だ。
ふと視線を感じて隣を見ると、降谷が優しく微笑んでこちらを見ている。
「…なに?」
心臓に悪いのでやめてほしい、と思いながら問いかけた名前に、彼はふっと笑みを深めた。
「私服、見れて嬉しいです」
似合ってます、と嬉しそうに言う。名前は「零くんもね」と返すので精一杯だった。顔が赤くならないように耐えてはいるが、耳までは自信がない。ポニーテールは失敗だっただろうか、とあれこれ考えて照れをごまかした。
照れ隠しに視線を落としたユイが、ぽつりと呟くように話し始める。
「……先月、神社で零くんを見たの」
「神社?」
「花見の時期」
「……ああ」
すぐに思い至ったらしい。サングラスをかけたベルモットとバーボンが仲睦まじそうに歩いているのを見てしまった日のことだ。
「いいなぁって、思った」
「……」
「零くんとあんな風に並んで歩くなんて、きっと私はできないし。変装姿でっていうのもちょっと違う気がして」
「……名前さん」
「それが、こんなにすぐ叶うなんて」
すっかり緩んでしまった表情はそのままに、降谷を見上げる。
「……夢みたい」
目線の先の彼が、驚いたように目を丸くした。
「名前さん」
「ん?」
「可愛すぎませんか」
え、と目を瞬かせたところで、名前は突然感じた衝撃に「うわっ」とその場に座り込んだ。
「アン!」
全身海水と砂まみれのハロが、名前の膝の上でブンブンと尻尾を振っている。
「うわ、ハロびちょびちょ」
「アン」
乗られた名前の服もあっという間にぐっしょりと濡れてしまった。気にするなと言いたげに顔面をペロペロ舐めてくるハロに、名前は思わず笑いがこみ上げる。
「…ふ、ふふっ。もー、仕方ないなぁ」
「アン!」
「海、楽しい?」
「アン!」
「うん、いい返事」
汚れるのも気にせずハロと戯れていた名前だったが、ふと黙ってそれを見ている降谷が気になって視線を上げる。
「零くん?どうし―――わっ」
名前の膝に乗ったハロごと、降谷が突然ガバッと抱き締めてきた。
「…零くん?濡れるよ?」
「すみません…ちょっと幸福感が飽和状態になって」
感慨深そうに呟く降谷に、名前が目を瞬かせる。
「…あ゛ーー、帰りたくない」
ぎゅうぎゅうときつく抱き締める彼に、先に音を上げたハロがするりと抜け出していった。名前は自由になった両手を降谷の背中に回してみる。
「…そんなに、幸せ?」
「自分でも驚くくらいに」
即答だった。
名前はふと、彼を幸せにすると教会で誓った日のことを思い出した。今ここにいる彼はその誓いを知らないはずなのに、まるでその答えをもらったような気さえする。
「…それは、私も幸せだなぁ」
自分がこの時代に来たのだって、きっと彼の幸せのためだ。
(あとは、伊達くんだけ)
もう少し。もう少しだから。
寝物語に彼らのことを話してくれた零の、あの寂しそうな笑顔を思い出して、名前は抱き締める腕に力を込めた。
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