5-6


名前の意識は、ごく浅いところを揺蕩っていた。
どこか懐かしいような、それでいて今もよく知っているような香りが彼女を優しく包んでいる。それが心地よくてつい体の力が抜けてしまう。

(……あれ、私何してたんだっけ)

記憶を遡ろうとして、ぼんやりとした靄に阻まれて失敗する。寝起きのいい彼女が微睡んだまま何も考えられないなんて、おかしいはずなのに。

結局思考を広げられないまま、彼女の意識は再び闇に沈んだ。




***




ふるり、と睫毛を震わせながら名前の意識が浮上した。
ゆっくり持ち上げた瞼から、白い天井が視界に入る。パチパチと数回瞬きをして、彼女はそれをじっと見つめた。

(……え?)

視線だけで辺りをぐるりと見回して、部屋中にふわりと漂う香りに気付き、名前の思考は今度こそ完全に止まった。

(なに、これ)

彼女はその空間を知っている。
懐かしいと思えるほど記憶に染み付いているわけではないが、それでも唯一無二の大切な場所で。

―――でもどうして。

信じられないような気持ちで、名前はベッドの上でゆっくりと体を起こした。名前が着ているのは下着と黒いキャミソールだけだ。

枕元には新しくて綺麗なのに、ひどく懐かしさを覚えるスマートフォンが転がっている。彼女はそれを手に取ると、側面のボタンを押してディスプレイを表示させた。

(本当に……?)

思わず頭を抱えたくなる。だって、もしそうなら。



「あぁ、やっぱり起きてた」



部屋の入口から聞こえた声に、名前が目を見開いた。
は、と乱れそうになる呼吸を抑え、一度瞼をぎゅっと閉じてから再び開ける。…大丈夫。ゆっくりと顔を向けた先では、彼が優しい笑みを浮かべていた。

「おはよう、名前さん」

ああどうしよう、泣きたくなる。脳裏にいろんな思いが過ぎってぐちゃぐちゃだ。

「…おはよう、零くん」

だってここは、彼と結婚してから購入し、二人で住んでいたマンションだ。

(全部、夢…?あの7年間も、みんなを助けたのも、全部夢だった?)

それなら、なんて長くて不毛な夢だったんだろう。

「…どうした?顔色が悪いな」

零が近づいて、名前の顔を覗き込む。顔も雰囲気も全てが自分が知る零のままなのに、意識を失う前に思い浮かべていた彼とは別の彼だというのか。

…いや、違う。零は零だ。彼の知らないところで勝手に7年分の夢を見て、変わってしまったのは名前の方だろう。

(夢……)

車の窓を割った感触も、力いっぱい握り込んだハンドルの質感も覚えてる。それなのに、夢だった?

「名前さん?」

気づかわしげな声に、名前がハッと顔を上げる。無意識に俯いてしまっていたようだ。

「ごめん、なんでもないよ」

笑いかけると、零が眉尻を少し下げた。

「体調が悪いなら無理しない方がいい。昨日の報告書なら僕が、」

「アン!」

零の言葉を遮った何かが、名前の胸に飛び込んでくる。

「え?」

名前は体に走った衝撃と、それを与えたものに呆然とした様子で視線を落とした。

「ハロ、もう食べ終わったのか?」
「アンッ」
「口の周りにカスがついてるじゃないか…ほら、おいで」

零が呆れた様子でハロを抱き上げる。名前はその様子をただ見つめていた。

「…ハロ?」

名前の呼びかけに、つぶらな瞳をこちらに向けたハロが「アン!」と返事をする。
間違いなく自分の知るハロだ。でも。

(どうしてハロがここに)

“一回目”の彼は、ハロとは出会わなかった。このマンションにも名前と零の二人で住んでいたのだから、それは間違いない。

「名前さん、朝食は食べられそうか?」

ハロを抱いたまま問いかけてくる零に、名前は内心の混乱を押し隠して頷いた。




***




そこは、間違いなく二人で購入したマンションだった。

二人の拠点として立地にもこだわり、荷物の多い名前が安心して衣装部屋を作れるよう床の補強までしてある。
3LDKで一室は衣装部屋、残りの二部屋がそれぞれの個室だ。どちらにもベッドはあるが、二人で寝る時はいつも零の部屋だった。

着替えた名前はダイニングテーブルで食事を取りながら、先ほどまでいた零の部屋のドアを眺める。

(今日は、私が過去に行ってしまったと思った日の翌日。つまり昨夜同期の話を聞いたことになる)

そこからの7年間は、夢だったのだと思った。

(…でも、それだとハロの存在の説明がつかない)

視線を落とすと、彼女の座る椅子の周りをハロがくるくると楽しげに回っている。

(じゃあ、過去へ行ってしまったのは本当だとして。部屋で気絶してからの記憶がないだけで、そのまま時間が経過したとか?)

そうなると名前はあの2月7日から約二年間の記憶を失ったことになるが、果たしてそう結論づけていいのだろうか。
もっと確かめなければならないことがあるはずだ。

そこに、スーツに着替えた零が片手にコーヒーを持ち、向かい側に腰掛けた。

「報告書、任せちゃってごめんね」
「いや、それはいいが…体調はどうだ?」
「えっと、別にどこが悪いっていうわけじゃないんだけど…。なんだかすごく長い夢を見ていた気がして、まだ頭がボーっとしてるの。ちょっと混乱してるのかも」
「長い夢?」

コーヒーを口に運ぶ零に、「そう」と頷く。

「それで…今からいくつか変な質問するけど、協力してくれる?」
「ああ、いいけど…」

頷いてくれた零に、早速一つ目の質問をする。

「私の名前は?」

その言葉に珍しくきょとんとした零が、「そこからか?」と聞いてきた。

「変な質問だって言ったでしょ?」
「……ああ」
「それで、答えは?」

一拍置いて、彼はコーヒーカップを置く。どうやら付き合ってくれるらしい。

「降谷名前」
「私とあなたの関係は?」
「夫婦だろ」
「プロポーズの言葉は?」
「……」
「零くん?」
「………あなたを降谷名前にしたい」

なんか色々省いた気もするが、一応答えてくれたのでよしとしよう。

「私の親友は?」
「キュラソー」
「彼女の身体的特徴は?」
「オッドアイと左膝下の義肢」
「部下の名前は?」

そこで彼が答えたのは、二人目の部下の名前だった。サミット会場の爆破で亡くなってしまった彼ではない。

(あの2月7日から約二年間の記憶を失ったという線は、これで消えた)

あのまま時間が経過したのなら、名前は“一回目”の知識を持ったままだったはずだ。そんな名前が自分の部下を見殺しにするはずがない。彼の死ぬ場所も時間もわかっていて、そのまま放置するはずがないのだ。
キュラソーの足の件だって、一度経験しているのだからきっともっと上手くやったに違いない。
二人が“一回目”の記憶通りの状況ということは、ここは“二回目”がそのまま経過した未来ではない。

(ということは、やっぱり彼らは助けられなかった…?)

気になるのはそこだ。もしそうだとしたら、彼女が体感した7年間はまさに無駄だったということになる。

その答えを知るために、名前は再び零に問いかけた。

「私とあなたが出会った場所は?」

その質問に彼の視線が左上を向く。過去を思い出しているようだ。

「確か……警察学校近くの、コンビニの辺りか」
「!」

名前は小さく息を呑んだ。彼とそこで出会ったのは、紛れもなく“二回目”のことだ。本来なら、外事課からゼロに異動になったところで初めて彼と出会ったのだから。

「付き合って初めてのクリスマスプレゼントは?」
「付き合ってすぐのクリスマスは何もできなくて、二年目に僕からは靴を贈った。名前さんからはネクタイをもらったな」
「その次の年は?」
「同じブランドの手袋だった」
「その年の二年参りでお願いしたことは?」
「それは…ってどさくさに紛れて聞き出そうとするな」

零がじっとりと細めた目でこちらを見る。

(これは…もしかして“一回目”と“二回目”が混ざってる?でもそんな都合のいいことが…)

でも、もしそうだとしたら。

考え込む名前に、零が一つため息をついた。

「……質問は終わりか?終わりなら、僕からも一つ話があるんだが」
「え?あ、うん。いいよ」

カップに口をつけてから、少し言いにくそうに彼が口を開く。

「…昨夜、寝る前に同期たちの話になっただろう」

あ、と名前は手に力が入るのを感じた。その言葉の先に、彼女の知りたいことが全て詰まっている。

「うん……」
「……それで、その」

視線を逸らしながら言い淀む零に、名前は無言で先を促した。聞きたくない気もするが、聞かなければならない。

「…明後日の土曜日、あいつらをここに集めてもいいか?」

その言葉に名前は思わず静止して、たっぷり時間をかけてから「え?」と聞き返した。

「前に名前さんが言ってくれただろ、組織の件が全部片付いたらって。それで実は、先月伊達にメールを返したんだ。そこから伊達が他の奴らに伝えてくれて、集まろうっていう話になって。…本当はそれも昨日話そうと思ったんだけど、名前さん途中で寝たから」

言いながら、零が頭を掻く。

「…外で大っぴらに会うわけにはいかないが、家ならまぁ、いいかなと」

「ダメかな?」と窺うようにこちらを見る零に、名前は自分の眉尻が力なく垂れ下がるのを感じた。
彼らが生きている。

「……もちろん、いいよ」

彼らに、会える。


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