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床に蹲ってどれだけ経っただろうか。
おもむろに上体を起こした名前は、先程同様バチンッと頬をはたいた。

「痛い!よし!切り替えた」

気合いを入れるように口に出す。その表情にもう暗さはなかった。

(あいにく体は22歳でも中身は30オーバーなので。ベテランに片足突っ込んだ公安捜査官なので!)

階級だって、今は警部補だろうが中身は警視だ。ここまでエリート街道を突っ走ってきたキャリア様だ。いつまでもナヨナヨしてられるか。名前は誰に向けるでもなく心の中で威嚇した。

それから気持ちを落ち着けるように深呼吸をして、昨夜聞いたばかりの零の話を思い出す。

「伊達航、諸伏景光、松田陣平、萩原研二…だったかな」

確かめるように名前を挙げたのは、零が大切に思っていた同期の仲間たちだ。

この時代の彼らは生きている。未来ではすでに死んでしまっていた零の大切な人たちが、まだ生きているのだ。
そして幸か不幸か、名前はその知識を得た状態で過去へとやって来てしまった。

「零くんを幸せにするって、教会で誓ったしな……」

指輪のない左手に視線を落とす。今はまだ形すらなくても、あの時彼に誓った気持ちは本物だ。
彼の幸せがこれから奪われてしまうと知っているのに、見て見ぬふりはできなかった。




***




「…とはいっても、状況は芳しくないなぁ」

ローテーブルの上に並んでいるのは、預金通帳と財布だ。
警察大学校での研修中も給料は出ていたはずだが、キャリアといえど卒配直後の警察官なんて貧乏もいいところだった。

(大学でも貯金するほどのバイトはできなかったしな……)

返済不要の奨学金を得て進学した名前は、在学中の生活費をバイト代で賄っていた。当時貯金するほどの余裕はなく、わりと苦学生だった自覚はある。
卒業研究で六法全書のフランス語訳なんてことをやったのも、元手が少なく済むからだ。

(そういえばこの頃、足あったっけ?)

ふと思い立って玄関収納の上を見に行くと、そこには小さな鍵が一つ。

「うわ、チャリ…」

(ですよね…車買うのもう少し先だもんね…)

名前は先行き不安すぎて項垂れた。

彼らを助けるために暗躍したくても、変装には大量の衣装や化粧品が必要だし、車やバイクといった足がないのも非常に困る。

彼らが警察学校に着校するのは来年の話だ。そしてその年の11月に萩原の件がある。まだ一年以上猶予があるのが不幸中の幸いか。

(とりあえずは真面目に働いて職場の信頼を得て、いざという時身軽に動ける状況を整える。あと金を貯める)

それから、なるべく早い段階で彼らに接触を図りたい。
思うような対策が打てなかった時、こちらの忠告を素直に受け入れてもらえるくらいの信頼関係は築いておかなくては。

「……がんばろ、零くんの幸せのために」

自分の寂しさは今は忘れろ。欲張るな。

呪文のように唱えながら、名前はテーブルに突っ伏した。




***




翌日登庁した名前は、とにかくがむしゃらに働いた。

警察大学校を出た後、本来であればまず警視庁に配属となるところを警察庁にストレート配属となった名前だ。しかも国際犯罪を扱うエリート揃いの外事課となれば、当然色眼鏡で見る者もいる。ここで真面目っぷりをアピールしなくては。

書類仕事は慣れてるし、先輩たちの性格も把握してるから対人関係も問題ない。
資料室や保管庫の配置も長らく変わっていないので、パシられても一瞬で目的の物を見つけられる。

「苗字さんって気だるげな感じの美人さんだから、こんなにテキパキ働く人だとは思わなかったぁ。あはは」

そう言って笑う女性は、かつて名前に変装の基礎を叩き込んでくれた先輩だ。

(顔や手足にホクロがないし、顔立ちは整ってるのに目立つ特徴がないから変装に向いてるって言ってくれたんだよなあ)

「恐縮です」
「すぐにでも現場出られそうだねぇ」
「機会をいただけるなら」

せっかくこれまでの経験というアドバンテージがあるんだ。現場に出てどんどん目立っていこう。完全に強くてニューゲーム気分の名前だった。



その日の帰り、名前は100円ショップで片っ端から化粧品を買い込んだ。

家に帰ると腕にアイシャドウをスウォッチして色味を確かめ、使える物と使えない物を選り分けていく。使えない物は砕いて混ぜて別の色を作り、再びケースにプレスする。ワセリンと混ぜて質感を変えるのも一つの手だ。

口紅も潰して練って別の色を作ったり、クリームチークとして活用したりと使い道は色々ある。

「久しぶりだなあ…この感じ」

金に物を言わせてデパコスや舞台用化粧品を買い揃えられるようになってからは、無縁だった行動だ。
たまにはこんな風に試行錯誤するのも悪くない。

そうやって一通り揃えてから、試しにメイクを施してみる。

「いや…うーん…悪くはないんだけど……」

仕上がりはしっかり“別人”だが、どうにも納得がいかない。一般人相手なら通用するだろうが、優秀な青年たちを騙せるかどうか。しかもその内一人は将来のゼロだ。

名前はため息を吐いてテーブルに頬杖をつき、考え込んだ。

(…そもそもカバーで彼らに近づいて信頼を得たとして、そのカバーを伊達くんの事故まで6年も使うのはリスクが高い)

長く使えば使うほど、カバーというのはバレるリスクが高まるものだ。
ベルモットのように変装マスクを使うわけではないし、24時間365日メイクしっぱなしというわけにもいかない。うっかり水でも被れば大変なことになる。だからこそ名前はこれまで短期潜入を得意としてきたのだ。

(これはやっぱり…あれしかないかなぁ)

名前の脳裏には、公安に属する人間としてはかなりグレーな方法が浮かんでいた。


―――先輩警察官として、素顔で彼らに接触する。


あれこれ考えても、結局これが一番確実なのだ。
手っ取り早く信頼関係を築きやすいし、例えば同じ言葉でも、先輩からの言葉の方が彼らに響くということもあるだろう。

(さすがに警察官のカバーを作る勇気はないから、警察官として接触するなら変装はできない)

ただし外では偽名を名乗るのが公安捜査官の鉄則だ。公安という所属を隠して偽名を名乗り、素顔のままで彼らと接触する。これがベストのように名前には思えた。

「零くんに偽名で呼ばれるの嫌だなぁ…」

「名前さん」と笑いかける零が脳裏に浮かぶ。だめだ、欲張るな。新婚からバツイチに突き落とされたかのような落差が、まだまだ彼女を蝕んでいた。


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