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それからしばらくの間、彼女がしたことといえば「働く」「鍛える」それだけだ。
現場に出れば「現場慣れしてる?」「ベテラン感がやばい」と絶賛され、任される案件もどんどん増えた。
昔実際にこなしたことのある案件なら、覚えている情報の裏取りだけで仕事が終わることもある。ズルしてる感がすごい。
先輩からは変装の基礎を習ったが、目の前で実際に変装してみせたことで「諜報に天賦の才がある」とまで言わしめた。
一年目にして単独の潜入任務まで与えられ、指令内容は監視のみだったにもかかわらず結果として摘発まで持っていったことで完全に一目置かれたようだ。
何年もかけて鍛えた肉体は一年目の未熟な体に逆戻りしてしまったので、これも鍛え直した。
橋の欄干で腹筋とまではいかないものの、節約のためジムには行けない。もっぱら自重トレーニングと体幹トレーニング、朝晩の外ランが中心だ。
体術にはキュラソーから教わったものを取り入れられるよう、彼女の動きを思い出しながら一人でひたすら反復訓練をした。誰にも師事することなく自らこれを身につけた彼女は本当にすごいと思う。格というか、つくりが違う。
ちなみに彼らとは早めに接触しておきたいと思っていた名前だが、今所在がわかっているのは出身大学を知っている零だけだ。さすがに大学を張るようなストーカーじみたことはできない。
彼らが警察学校に着校するのを、ただひたすら待つ日々だった。
***
そして時は流れ、春がやってきた。
キャリア組である名前は無事警部に昇進。年齢もすでに23歳だ。
(やっと!やっとここまできた!)
接触目標である彼らも、この春から警察学校の入校者だ。やっと接触を図ることができる。
(この8ヶ月で、零くんのいない生活にもすっかり慣れてしまった…)
人間、なけりゃないでなんとかなるものだ。仕事やトレーニングに没頭していれば、零を思い出して鬱々することも減った。
それでもたまには「欲張るな、欲張るな」と呪文を唱えて耐えることもあるが、そこはもう三十路越えの女である。メソメソする自分を気持ち悪いと一歩引いた目で見られるくらいの余裕は出てきた。
どこか晴れやかな気持ちで本庁に着いた名前は、バイクを降りてヘルメットを外す。
そう、ここまで無駄遣いもせず仕事に邁進してきた名前は、ついに念願の足も手に入れていたのだ。
ヤマハのZX1200Zスーパーテネレ。未来で彼女が乗っていたバイクの旧モデルだ。
(一度なくなった物を手にするのがこんなにも嬉しいとは)
感慨深げにシートをポンポンと叩いて、名前は今日も正義を全うすべく本庁へと向かった。
***
ある土曜日の夜、仕事を終えた名前がスーツ姿のまま向かうのは、彼らが着校した警察学校周辺だ。
この一週間、彼女はこの辺りのコンビニやバー、ファミレスなどをうろつきながら接触のタイミングを窺っていた。
警察学校には着校後一ヶ月は外出禁止でそれ以降も完全許可制…なんてところもあるが、零の話だとわりと頻繁に外出していたようだし、ここはそこまで厳しくはなさそうだ。
しかも彼らのところは外出時のスーツ着用義務もなく、ジャケットさえ着ていればよかったらしい。比較的外出のハードルは低いだろう。
(ジャケット着用の若い男性…今日も結構いるな)
さすが警察学校周辺エリア。周りを見渡すと入校者とおぼしき人間がそこかしこに見受けられる。
彼らの名前しか知らない名前は、周囲の会話に耳をそばだてながら歩いていた。
「おっ、諸伏!お前も出てたのか」
(…!)
もろふし。零の幼馴染と同じ苗字だ。クラスに何人もいるような平凡な苗字ではないだろう。
そっとそちらを窺うと、猫目の爽やかな青年が話しかけられて足を止めていた。
彼らは少し言葉を交わすと別れ、諸伏と呼ばれた青年は近くのコンビニに入っていく。名前も少し間を置いてそれに続いた。
コンビニに入ると、彼は日用品のコーナーで足を止めていた。名前はどうやって接触しようか思考を巡らせたが、こういう時にタイミングよく犯罪が起こるのが魔都東京である。
奥のトイレから出てきた男が、辺りにさりげなく視線を走らせながら諸伏のボトムスのバックポケット―――そこに入っている財布に目をやるのを、名前は視界の端に捉えた。すぐに別の棚をぐるりと迂回して男の死角から接近する。
そして男が諸伏の背後を通り過ぎざま、音もなく財布を抜き取ったところでパシリとその手を掴み、遠慮なく捻り上げた。
「うぅっ!?」
男が思わず取り零した財布を、別の手でキャッチする。
「えっ?」
男の呻き声に振り返った諸伏は、腕を捻り上げられて体勢を崩す男とその腕を掴む名前、そして彼女の手に収められた自身の財布を視界に入れて、大きな目をパチパチと瞬かせた。
「はい、これ」
左手で男の手を捻り上げたまま、右手に持っていた財布を差し出す。諸伏はそれを戸惑いがちに受け取ると、「どうも」と反射的にお礼を言った。
名前は空いた右手で110番通報を済ませ、レジに立っていた恰幅のいい店員に男を引き渡した。
「あ、あの!」
パトカーが来る前に離れようとコンビニを出た名前を、諸伏が追いかけてくる。
「オレ、財布を盗られそうになってたんですよね? ありがとうございました」
「どういたしまして」
名前は人好きのする笑みを浮かべて礼を受け入れる。
「でもバックポケットに財布は危ないからやめた方がいいよ」
「ですよね……うっかりしてました」
諸伏はバツが悪そうに頭を掻いた。魔都東京ではいかなる時も自衛が必須だ。
「この辺でジャケット着てるってことは、君も警察学校の?」
「あ、はい。諸伏っていいます」
「そう。私は、」
「ヒロ!」
考えておいた偽名を名乗ろうとしたところで、遮るように彼を呼ぶ声がする。
(……え?)
会えなくなって何ヶ月経とうが、その声を忘れられるわけがない。
「ゼロ!」
「出るなら言えよ。僕も買いたい物あったのに」
「そうなの?ごめんごめん」
元々ベビーフェイスの彼は、最後に見た時と驚くほど変わらない。相変わらず柔らかそうな金髪で、見慣れた褐色の肌をしていて、精悍な顔立ちで。それでも、今は年相応に豊かな表情を浮かべていて。
(…零くん……)
努めて平静を装いながらも、名前の頭の中はぐちゃぐちゃだ。どうしよう。今何してるんだっけ。
「?そちらの方は?」
「ああ、さっき財布を盗られそうになってるところを助けてもらったんだ」
「はあ?大丈夫だったのか?」
「怪我はないよ。ホントにあっという間だったんだ」
二人の視線が自分に向いている。「今オレが名乗ったとこ」と諸伏が状況を説明しているのが、どこか遠くに聞こえる。
「コイツが迷惑かけたみたいで、すみません。僕は降谷といいます」
知ってる。知ってるよ。私も数か月前まで降谷だった。
そんなこと言えるはずもなく、名乗りを待つ彼らに向けて口を開く。
「……苗字、名前です」
(おいバカか私は。偽名はどうした)
ああもうだめだ。完全にやらかした。これでよく公安が務まるな。名前は浮かべた微笑みの裏で、ひそかに絶望していた。
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