10
三年生に上がり、名前は文科T類から法学部へと進んだ。
とはいえ名前は弁護士も大学院も目指さないため、やることはこれまでとほとんど変わらない。砂漠と揶揄されるほど忙しく枯れ切った法学部の中で、名前は今まで通り勉強とバイトに明け暮れる日々を送っていた。
ちなみに降谷と諸伏との距離感も相変わらずだ。泊まりがけのゴルフは楽しかったが、大学ではまた一定の距離を保っている。
そんな初夏。名前は一人の学生に呼び出された。
デジャブ、と思った名前だったが、今回彼女を呼び出したのは女ではなく男だった。
「え?私?」
「うん。苗字さんのこと、ずっといいなって思ってて」
これまでからかわれるように口説かれることはあったが、真面目な告白はこれが初めてだ。
相手は同じ法学部の学生で、文科T類の頃から同じだったが一緒に遊んだことはない。優しい雰囲気を纏った控えめな男だ。
「そうだったんだ……」
「返事は急がないから、考えてみてくれないかな」
「え?」
「……俺と、付き合うこと」
その言葉に名前はぱちりと目を瞬かせた。そうか、そうだよね、男女の告白ってゴールはそこだよね、と納得する。男女の付き合いから離れて二年以上経ち、彼女はすっかりペーパードライバー状態だ。
「あ、うん……考えるね」
「本当?ありがとう」
くしゃっとした笑顔を浮かべ、彼は再度お礼を言いながら連絡先を渡して立ち去っていった。文句なしに爽やかである。
なぜその場で断らなかったのか。それはひとえに名前が「そろそろ彼氏でも作った方がいいのか」と思ったからに他ならない。そうすれば降谷や諸伏との距離も自然に空くし、何より枯れ果てた自分が人間に戻るきっかけにもなる。
(この顔でいつまでも処女っていうのも変だろうし)
と、名前はわりと最低なことを考えていた。
とりあえず戻ろう、と踵を返した名前だったが、角を曲がった先に佇んでいる男を認めて瞠目した。
腕を組み、壁にもたれるようにして立っているのはおそろしく顔のいい男だ。しかしその眉間にはくっきりと皺が刻まれている。
「ふ、降谷くん」
「……悪い、聞こえた」
「あー……」
気まずそうに頭を掻く名前に、ちらっと視線を向けた降谷が問いかける。
「……付き合うのか?」
名前が答えを保留にしたことを知ってるのだから、それは当然の疑問だった。
「んー、なんていうか……」
言葉を濁しながら、名前は降谷の隣に行って同じく壁にもたれかかった。
「恋愛、よくわかんないんだよね」
「え?」
「今まで付き合ったことがないわけじゃないんだけど、ちょっと状況が変わったというか……好きとかそういうの、誰かに思える気がしなくて」
「………」
「考えるって言ったのも、なんていうか……好きになれるかもって思ったとかじゃなくて。そろそろ彼氏作った方がいいのかなーとか、そういう軽い気持ちで……」
そう話しながら、名前はどこかで抵抗する自分を感じていた。
高校時代、仲間内ではもっと他人に聞かせられないような、人を小馬鹿にしたような話だって普通にしてきた。なのになぜか、こんな不誠実な自分を降谷には知られたくないような気がする。「それ以上言うな」と止める自分がいるような気さえした。
「彼氏、ほしいのか」
「うーん、ほしいっていうか……」
上手く説明できず言い淀む名前に、降谷が隣から覗き込むようにして目を合わせた。
「僕と付き合うか?」
ぴた、と名前の動きが止まる。
その言葉を脳内で数回繰り返してようやく言葉の意味を理解した名前は、柔らかく微笑む降谷を呆然と見つめ返した。
「………えっ?いや、」
「気心も知れてるから楽だろうし、お互いに彼氏彼女ができるし、一石二鳥だろ」
「えぇ……?」
一石二鳥?えっ、そうなのかな……?と回らない頭で流されそうになった名前が、慌てて首を振る。
「いやいや、それは違う。絶対違う!」
「そうか」
ふっと小さく吹き出しながら降谷があっさり引き下がる。なるほど、これはもしかしなくても揶揄われたらしい。
「……降谷くん、性格悪いね?」
「今更か」
「楽しい?」
「わりと」
笑う降谷を見て、名前も思わず笑いがこみ上げる。それと同時に、どこかモヤモヤしていたものがスッキリしてしまったのを感じていた。
「やっぱり降谷くんよりイケメンで完璧な彼氏を作ることにした」
「それは楽しみだな」
「それは無理だろうなって顔しない」
相変わらずの自信家だ。名前が「降谷くん」と呼びかけると、隣の降谷が「ん?」と首を傾げる。
「ありがと」
笑いかけた名前に、降谷はどこか眩しそうに目を細めてから、「どういたしまして」と笑い返した。
***
そしてその年の夏。名前は二年ぶりに海に来ていた。
「よし、泳ごう!」
そう言って名前がTシャツの裾に手をかけると、一緒に来ていた降谷と諸伏がサッと背を向ける。さすがに学習能力が高い。
あっという間に服を脱ぎ去った名前の水着は、二年前に着ていたものと同じシンプルな黒ビキニだ。水着に金をかける気は相変わらずなかった。
そして取り出した日焼け止めを手足や首、腹などに塗りたくる。
「あ、どっちか背中塗ってくれない?」
二人に問いかけると、何度か見たことのある「こいつ……」という視線を向けられる。前回は女子に塗ってもらったが今回は三人での海だ。そうもいかない。
「いやわかるよ、気まずいのはわかる。でもそこをグッと堪えてさ」
「それ絶対苗字さんが言うことじゃないと思う」
ツッコミながらもため息混じりに日焼け止めを受け取ってくれるのが諸伏のいいところだ。
長い髪をまとめて持ち上げた名前の背中に、諸伏が日焼け止めを塗り込んでいく。
「髪、伸びたな」
それを見ながらしみじみと呟く降谷。
「切るタイミングがわかんなくて。トレンドはボブらしいんだけど」
そろそろ切ろうかと雑誌を色々見てみたが、最近の流行りは内巻きボブらしい。可愛いのだが、幼く見られそうで名前は二の足を踏んでいた。
「僕は長い方が好きだ」
「そう?じゃあこのまま維持する」
二人の会話を聞いていた諸伏が、手を止めずにプッと吹き出す。
「二人とも、その会話カップルみたいだな」
諸伏の一言に、降谷がカチンと固まった。
「はい、できた。……あれ?」
差し出された日焼け止めのボトルを受け取りながら、名前もまた気まずそうに唇を引き結ぶ。数ヶ月前の「付き合うか?」が思い出されてなんとも言えない気持ちになった。
(……くそぅ)
日焼け止めをパラソルの下に放り投げ、「さー泳ぐよ!」と気まずい空気を払拭するように海へと走り出す。その後を二人がついてくるのを確認して、名前は我先にと海に飛び込んだ。
「えっ、ゼロ、告白したの?」
「……いや」
一足先に沖へと泳ぎ出した彼女に、そんな会話は届かなかった。
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