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「はぁ……マジか……」

 名前は自宅マンションで一人、夕食代わりの大豆バーをかじりながら膝を抱えて項垂れていた。

 大学三年生の夏は、サマーインターンなどで就活を意識し始める者も多い時期だ。それは名前も同様で、彼女はメガバンクである東都銀行などが開催するインターンシップに積極的に参加していた。
 そのせいでバイトのシフトが狂い、「成人したらまたここでお酒を飲もう」と約束していた花火大会も流れてしまったわけだが、それはまあ置いといて。

「二人とも、警察かぁ……」

 就活の話が一切出ない降谷と諸伏を不思議に思い聞いてみたところ、なんと二人揃って警察官志望だと言うではないか。これには名前もわかりやすく固まってしまった。

 彼女がそんな反応をしてしまった理由は、なにも元不良だからというだけではない。

(……会えなくならないといいな)

 抱えた膝に頬をつけて、名前は深いため息をついた。




***




 翌春の早期選考に呼んでもらえるよう、メガバンクのインターンシップや営業合宿への参加を繰り返していれば、あっという間に秋が通りすぎて冬が来た。
 この期間中は事情を知る降谷や諸伏からの誘いもなく、彼女はただひたすら就職活動とバイトに没頭していた。

 そして春。目論見通りメガバンク三行の早期選考に呼ばれた名前は、念願叶って第一志望である東都銀行からの内定を獲得した。

「よっ……しゃぁー!」

 内定通知の電話を切り、名前は両拳を高く掲げて叫ぶ。

「おめでとう、苗字さん」
「おめでとう!東都銀行か、すごいなー」

 その場にいた降谷と諸伏が拍手で祝福してくれる。

 6月第一週の今日。三人がいるのは諸伏の住むマンションだ。後は選考結果を待つだけだった名前を誘い、諸伏が手料理を振る舞ってくれている。

「うう、嬉しい…!美味しいご飯に嬉しい報告……努力は実る……」

 スマートフォンを握り締める名前の目尻からは、万感こもった嬉し涙が伝っていた。

「よく頑張ったな」

 努力を間近で見ていた降谷も嬉しそうだ。

「ありがとう、ありがとう二人とも……」

 そう言って名前は諸伏お手製のおつまみを口いっぱいに頬張る。

「ていうか諸伏くん料理上手いね?」
「ありがと。ゼロは料理はからっきしなんだ」
「うるさい」

 二人がビールを口に運ぶ横で、名前は料理をつまみながらウーロン茶を飲んでいる。
 以前行ったゴルフ場でグラス半分飲んで真っ赤になって以来、二人からの飲酒許可は下りていなかった。

「料理はできないんだ。降谷くんなんでもできそうなのにね、意外」
「別に……やろうと思えば」
「ゼロ、オレがベースやってるからって高校の時にギター覚えたんだ。料理だってやればすぐにマスターするよ」

 へー、と名前が目を丸くする。

「ふふ、本当に諸伏くんのこと大好きだよね、降谷くん」

 にやりと笑った名前に降谷が眉を顰めながらも目尻を赤くした。照れているらしい。

「いいなぁ、そういう関係。微笑ましい」
「何目線だ」
「苗字さんは高校時代の友達とかは?」

 ピタリ、と名前の動きが止まった。

「苗字さん?」
「……ん?……うん、うん、友達だよね、えーと」

 意味もなくグラスの汗を指で拭いながら言葉を探す。こんなに動揺してたら何かあるのはバレバレじゃないか、と自分で自分を叱咤しながら、それらしい言い訳を並び立てた。

「……今みたいな感じで基本的に一人だったから、大学に入ってまで連絡取り合うような子はいないなぁ」
「ふーん」

 だから、と続ける。

「二人といられて嬉しいよ」

 上手く笑えたかはわからない。情けなく眉が下がってしまっているような気もする。それでもその言葉に二人が嬉しそうに笑ってくれたから、名前は満足だった。




***




 大学最後の夏。
 一年生の時と同じ高台の神社で、三人は花火を眺めていた。

「じゃあ、乾杯!」

 降谷と諸伏が缶ビールを、名前がそれを少しだけ分けてもらった紙コップを掲げて乾杯する。成人したらここでお酒を飲もう、という約束がこれでようやく達成された。
 ちなみに今回は着付けてくれる人がいないので名前は私服だし、それに合わせる形で二人も私服だ。

「うぁ、ビールも美味しいー」
「弱いのに味はわかるってなんなの」
「厄介だな」

 ちび、とビールに口をつけて喜ぶ名前に二人がツッコむ。

「人がせっかく感動してるのに野暮な男たちだな」

 半目で睨む名前をスルーして二人はグビグビと豪快に喉を鳴らした。

 分けてもらったビールはごく少量だが、名前は早々に顔や喉が熱くなり、視界がぼんやりと滲むのを感じた。それでも不快感はなく、むしろふわふわとして気分がいい。

「……あー、最後の夏かぁ」

 ぽつりと呟いた名前に二人の視線が向く。

「どうした? 感傷的になった?」

 からかうように諸伏が顔を覗き込むが、その通りだった。
 打ち上がる花火も、会場より少し涼しい空気感もあの時のままだ。なのにここに三人で来られるのはきっとこれが最後なんだろうと思うと、感傷的にもなる。

「……ないなぁ」

 小さな呟きが花火の音にかき消され、二人が「ん?」と耳を近づけてきた。

「離れたく、ないなぁ」

 今度はしっかり二人に届いたらしい。目を丸くした二人が名前を覗き込んだ。

「苗字さん?」
「どうした?」

 酒のせいか、どうも胸が苦しい。喉がぎゅっと詰まるような気がして、名前の声が情けなく震えた。

「会えなくなったら、やだぁ」

 緩んだ涙腺からぼたぼたと涙が溢れ出して膝を濡らす。それを見た二人がぎょっとして慌て出した。

「お、おい」
「今回は泣き上戸!?」

 男二人、ハンカチなんて気の利いたものは持ち合わせていない。おろおろとする二人をよそに、名前は「会えなくなったらやだ」と繰り返した。

「会えなくなるって? 卒業のこと?」
「ちがうー」
「じゃあなんなんだ?」

 酒で真っ赤に染まった顔で、名前がヒックヒックとしゃくり上げる。

「ふたりとも、警察になるって、いうから」

 それの何がダメなんだ?と二人は頭を捻った。しかし酔っ払いの答えは要領を得ず、いまいち理由がわからない。

「あっ、電話。ごめんゼロ、頼んだ」
「は!? おいヒロ!」

 そそくさと戦線離脱した諸伏の背中を降谷が睨みつける。一体これをどうしろと言うんだ。
 一度大きくため息をついてから、降谷はげんなりした表情で名前を見る。真っ赤に染まった彼女の頬が涙で濡れている。

「……なあ、何がそんなに悲しいんだ?」

 もうお手上げだ、というように降谷が聞くと、名前は小さく「一人になりたくない」と呟いた。
 彼女の中では二人が警察官になることと一人になることがイコールになっているのだろうか。

「一人になんてしない。警察官になったからって、会えなくなったりしない」

 言い聞かせるように話すが、名前はふるふると首を振った。それに合わせてキラキラと散る雫を見て、降谷は思わずその頬に両手を添えていた。
 手が濡れるのも構わず顔を上げさせて、視線を合わせる。

「……約束するから、泣き止んでくれ」

 約束、と名前の赤い唇が繰り返す。

「ああ、約束だ。絶対に一人にしない。……警察官になったら君に伝えたいこともあるし、会えなくなったら困る」
「伝えたいこと?」
「ああ」
「今じゃ、だめなの?」

 その質問に降谷は小さく吹き出し、「酔っ払いに言ってもな」と笑う。

「じゃ、酔いがさめたら」
「そんなに聞きたいか」
「うん」
「でもなぁ」

 もったいぶる降谷に名前が口を尖らせると、降谷はまた可笑しそうに笑った。

「だって、知性と清潔感と将来性があって高給取り……なんだろ?」

 どこか聞き覚えのあるそれに、名前はキュッと眉根を寄せる。

「……なんだっけ、それ」
「まさか覚えてないのか」

 信じられない、という顔で見られて名前はきょとんとした表情を浮かべた。それを見た降谷がまたプッと吹き出す。

「まあいいか、僕の自己満足だ」

 そう言いながら降谷が手を離す頃には、名前の涙も止まっていた。
 そして二人の様子を途中から見ていた諸伏がにやけ顔で現場に突入し、「ゼロ、今のって!?」と降谷をつつき回す。

 じゃれ合う二人を眺めながら、名前はぼんやりと「なんかよくわからないけどめちゃくちゃ泣いた気がする。明日には忘れてたい」と願ったが、もちろん全部覚えていた。絶望した。


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