09
バイトを増やすことを告げた時の二人の顔は、ちょっと思い出したくないくらい怖かった。
それでも、いくら高時給の家庭教師とはいえ生活費でギリギリだ。貯金もできない。その辺りで攻めれば、最終的にはなんとか納得してくれた。セクハラの心配が少ない書店バイトというのも大きかっただろう。
クリスマスはバイト、年末年始は帰省、春休みもバイト……と色気のない生活をしていれば、あっという間に二年生になった。
今年は家庭教師として受け持っている三人が受験する年ということもあり、より一層忙しい。花火も海も断った名前は次第にグループに誘われることも減り、交友関係という意味ではすっかり枯れ切っていた。
(……あ)
大学構内のカフェで論文の添削をしていた名前は、視線の先に降谷と諸伏を見つけた。
彼らとはメールもするし、会えば話もする。予定が合えば遊ぶこともあるが、バイトを増やしたことでそれらの機会はどれも激減した。これが男女の友情のあるべき姿なのだろう、と名前はなんとなく思っている。
ちなみに去年名前の前で泣いた彼女が降谷に告白したかどうかは知らない。降谷から彼女ができたという報告もないので、まあそういうことなのだろう。
こちらに気付いた諸伏が手を振ってくれたので、名前も振り返す。諸伏が隣の降谷をつつき、降谷も軽く手を上げてきた。それにもまた手を振って、視線を手元の論文に戻す。
(うーん、問題提起と課題設定はいいが結論が弱い。もう少し具体例を深堀りしましょう、と)
赤いボールペンを使い、余白に訂正指示やアドバイスを記入していく。
「お疲れ」
声とともに目の前にカップが置かれ、名前はパッと顔を上げた。
「諸伏くん。ビックリした」
目の前に諸伏が座り、その隣には降谷が座った。
「ちゃんと先生してるじゃん」
「そろそろAO入試の出願時期か」
うん、と名前は頷く。東都大法学部のAO入試は難易度が高い。この生徒はTOEFLや英検の成績がパッとしないので論文を提出させることにしていた。
「おかげでいつも論文のこと考えてる」
「はは、先生の鑑だ」
諸伏が差し出してくれたカップをお礼を言って受け取り、湯気の上るコーヒーを飲む。温かいそれに体の力がふっと抜けた。
「受け持ってる子たちの受験が終わったらさ、三人でどっか行かない?日帰りでもいいし」
諸伏の提案に、名前は目を瞬かせる。
「いいな。レンタカーでも借りよう」
「オレ、ゴルフやってみたい」
「ドライブがてらちょっと遠めのカントリークラブまで行ってみるか」
「最近のゴルフ場ってすごいんだろ?食べ放題とか」
「ナイターも気になる」
「そうするとホテル併設の……」
テンポよく会話する二人を眺めながら、名前は目尻がゆるっと下がるのを感じた。やっぱりこの感じ、居心地がいい。
(当たり前のように人数に入れてくれるところ、嬉しいな)
また一口コーヒーを飲んで、ふう、と息を吐きながら会話に混ざる。
「受験終わったらって、まだ半年くらい先だけど」
「ちょうど暖かくなるからいいじゃん」
「三月だと寒いか?ゴールデンウィークにはかぶらないようにしたいな」
早速日程を詰め始めた男たちに、名前はぽつりと呟く。
「それまで誰にも彼氏彼女ができなかったらね」
さすがに彼女持ちと旅行する勇気はない。
名前の呟きに二人は会話を止め、きょとんとした表情を浮かべてこちらを見た。
「……ま、大丈夫だろ」
降谷の言葉に、隣の諸伏もウンと頷く。それもどうなんだ?と思いつつ、名前は小さく吹き出した。
***
まだ寒さの残る春の始まり。
受験シーズンが終わるとともに、名前の家庭教師生活も終わった。彼女が受け持っていた三人は無事東都大に合格し、彼女も晴れてお役御免だ。
(人の成長を見守るっていいなぁ)
もしかしたら教師なんて道もあったのかもしれない。なんて考えつつ、名前は久しぶりに長めの入浴を楽しんでいた。
体を横たえれば伸びた髪が白濁したお湯に広がり、長湯で額がじわりと汗をかく。
(書店だけじゃ足りないし、またバイト増やそう)
そこに、浴室に持ち込まなかったスマートフォンが脱衣所でブーブーとバイブ音を響かせた。
さっと体を流して出ると、諸伏から旅行当日についてのメールが届いていた。
「そっか、もう来週か」
二人のファンへの罪悪感はあるが、大学の外で会うのはかなり久しぶりだし許してほしいところだ。
「楽しみだなー」
思わずフンフンと鼻歌が出るほど、名前の気分は高揚していた。
***
レンタカーに乗り、降谷の運転で向かった先はホテルや温泉が併設された豪華なカントリークラブだった。
広大な敷地には三種類のゴルフコースがあり、大自然に囲まれた明媚な眺めが楽しめる。
「……ねえ、これ本当にあの金額でいいの?本当に大丈夫?」
「教授からもらったクーポンでかなり安くなった」
「総代様様だよなー」
「教授からクーポンっていいの?現金じゃないからいいの…?」
「いいのいいの、気にしない気にしない」
「楽しまないと損だぞ」
呆然とした様子の名前を置いて、男たちは堂々と敷地に入っていってしまう。
「……ハッ!待って!」
名前は荷物を持って慌ててそれを追いかけた。
そしてホテルに荷物を置き、ゴルフ場で受付を済ませる。全員初心者だが、のんびり回りたいということでキャディの随伴はなしにしてもらった。
「どーん!」
カッと鋭い音とともに、ゴルフボールが真っ直ぐ飛んでいく。
「いきなり打った」
「いきなり打ったな」
素振りなしのティーショットを降谷と諸伏が半目で見つめている。
「苗字さん、初心者だよな?なんであんなめちゃくちゃなフォームで当たるんだ?」
「しかも結構飛んだな」
ふぅ、とかいてもいない汗を拭って名前は満足げだ。
「長物、得意なの」
スポーツで使ったことはないが。
「ちょっとよくわからない」
降谷の目が冷たい。
「適当なフォームだと体を傷めるぞ」
「だってフォーム知らないし」
「来る前に動画で覚えてきた」
さすがすぎないか、この男。
名前のティーショットを終えた後という微妙なタイミングだが、降谷のレクチャーで全員一度フォームを確認することにした。
「肩と、腰がこう」
降谷の手が名前のフォームを矯正していく。
「あーなるほど、安定する」
グリップやスイング、体の捻り方も確認して、ようやくプレーを再開した。
結論から言うと、一位降谷、二位諸伏、そして三位が名前だった。
「なんで!」
得意の長物で惨敗し、名前は項垂れた。
***
「乾杯ー」
ホテル内のレストランで、三人がチンッと触れ合わせたのはシャンパングラスだ。
「初めての飲酒だ」
「全員成人してるしな」
「あ、オレは誕生日に一回飲んだ。ビール」
男だった頃、名前は不良とつるみながらも内申を気にして飲酒や喫煙を一切してこなかったので、これが正真正銘初めての飲酒となる。
「ふわー、いいにおい」
飲む前から上機嫌な名前を、二人は微笑ましそうに見つめていた。
「……ちょっと、その目やめて。飲みにくい」
じっとりと二人を睨みつけながら、シャンパンをちびちびと口に運ぶ。美味しいーと顔を綻ばせる名前を、やっぱり二人は微笑ましげに見ていた。
「この後どうする?オレ色々ゲーム持ってきたけど」
「どっちかの部屋に集まるか」
部屋は二部屋押さえてあり、降谷と諸伏がツインの部屋に、名前がシングルに泊まる予定だ。
「UNOやろうUNO」
「あー懐かしいな」
「オレ、ウノって言い忘れたことない」
「どんな自慢だ」
「苗字さんは何やりた―――…って」
「え?」
二人が名前に目線を移して、そして固まる。
「弱っ!?」
グラス半分の酒を飲んだ時点で、名前は首まで紅潮させてほわほわと笑っていた。
UNOはできなかった。
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