13


 名前の父親は公安の捜査官だった。

 結婚後少しして警察官を辞めたと母に話した彼は、それからずっと普通のサラリーマンとして過ごしていた。そのため死んでから正体を知った母親は荒れに荒れた。

 公安でも妻にだけ所属を知らせる者もいるようで、職務内容さえ明かさなければある程度は本人の裁量に任されているらしい。そんな中で、名前の父親は何一つ明かさないタイプだった。
 周囲とも警察官を辞めたと告げてから関係を断っていたようだし、死因すら明かされなかったので長期の潜入任務にでも就いていたのかもしれない。
 正直、名前的には少年心に「父カッケー」だったのだが、母はそうもいかない。

 嘘まみれの夫を恨んだ彼女は、一人息子にはごく普通で安全な人生を望んだ。子供の頃から、とにかく警察官にだけはなるなと口酸っぱく言われた記憶がある。
 息子がいい大学に行き、いい会社に入り、そこそこの給料をもらいながら不自由なく生活する。それが彼女の望みだ。
 女になってからはそこに「早めの結婚」という条件が加わったが、それだってごく普通のサラリーマン相手が前提である。

 そして名前はそれを叶えるつもりでいる。自分には特に夢もやりたいこともない。それなら世界で一番信頼する人に裏切られた可哀想な彼女の、ささやかな願いを叶えてあげたいと思ったのだ。

「やっぱり、会えなくなっちゃったな」

 東都大を主席で卒業するほど優秀な降谷が、エリート揃いの公安に配属されること自体は何も不自然じゃない。
 ただ、もう降谷に会うことは叶わないのだと思うと寂しかった。

「約束、してくれたのになぁ」

 呟いた声が涙声だったのには、気づかないふりをした。

 そしてその翌年には、諸伏からの連絡も途絶えたのだった。




***




 最後に諸伏からメールが来てから4年が経ち、名前は28歳になっていた。

 あれから彼女は仕事に邁進しつつ、先輩からの誘いに乗ってはヤケクソのように婚活パーティーや街コンに参加した。母親が大量に釣書を押し付けてくるのでお見合いだって何度もした。
 にもかかわらず、彼女はまだ未婚だった。

(おかしいな、これだと厄年が4年続いてる計算になるんだけど?)

 遠い目をする彼女の手元では、スマートフォンの画面が男性からのお断りメールを映し出していた。

(なんでだろう。私ってそんなに地雷なのかな……)

 おそろしいことに、名前を気に入ってガンガン攻めてきた相手でも少しすると怯えたように断ってくるのだ。しかもお断りまでのペースが年々早まっているような気もする。

 なおかつ断りの文面までなぜか皆似通っていて、毎回「もっと相応しい相手がいると思います」とか言ってくる。本当にそんな相手がいるなら今すぐ連れてきてくれと名前は思う。

「なんか、神様が結婚するなって言ってるみたい」

 自分で言いながらも馬鹿馬鹿しいと思えないのが怖いところだ。

 未だに男相手の恋愛がよくわからないままの名前は、面倒な恋愛は省いてさっさと結婚し、親からのノルマを達成してしまいたいと思っていた。
 女になってすでに10年。さすがに男らしさも抜けたし、女子力も高い方だと思うのに。

(現実はままならないなぁ)

 深くため息をついて、届いたばかりの新しいメールを確認する。待ち合わせ相手がマンションの下に着いたらしい。
 すでに準備を済ませていた名前はバッグを持ってマンションを出て、目の前に停まっていたスポーツカーに乗り込んだ。




***




 運転席に座っていた男に連れられて到着したのはホテルのスイートルームだ。
 広々とした空間には煌びやかな調度品が品よく配置されている。

「お相手は?」
「ああ、もうすぐ来るよ」

 男はそう言ってにこりと笑った。

 名前の服装はシックな長袖ワンピース一枚で、首元には目の前の男に贈られた一粒ダイヤのネックレスが輝いている。髪も男の希望で全体を緩く巻いていた。

 スイートルームには応接セットも備わっており、名前はそのソファに座るよう指示された。
 するとタイミングよくドアがノックされ、男がノックの主を室内に招き入れる。
 入ってきた人物に名前が自然な動作で視線を向けて――そして固まった。

「……え」

 そしてそれは相手も同じだったらしい。
 垂れ目がちな灰青色の瞳をわずかに見開いて、彼は名前を凝視していた。

「ん?知り合いか?」

 その様子に男が目を瞬かせたのを見て、来客者は瞬時に表情を変える。

「いえ、失礼。お綺麗な方でしたので、つい見惚れてしまいました」

(……ん?誰!?)

 おそろしく整った容貌は確かに見慣れたものだったが、彼が浮かべた柔和な笑みは初めて見るものだ。

「はは、そうか。えーと、バーボンでいいんだったか?さすがにジンは直接来ないよな」
「ええ、受け渡しは僕が。それから外ではコードネームではなく、安室とお呼びください」
「安室?」
「はい、安室透といいます」

 握手を交わす男達の会話を聞きながら、名前は驚きの表情を引っ込めた。

(偽名……やっぱり公安の仕事かな)

 さすがにこんな規格外の男前がこの世に二人もいるとは思えない。
 偽名だとかコードネームだとかどう見ても仕事中のようだから、自分も初対面を装った方がいいだろうと名前は考えた。

「ああ、お前も名乗っておけ」

 男に言われ、ソファから立ち上がる。

「初めまして、苗字名前です」

 そう言って手を差し出すと、彼は完璧な笑みを浮かべてそれに応えた。

「安室透です。……名前さんですね、よろしくお願いします」

 降谷の顔で、降谷からもされたことのない名前呼びをされるのはなんとも不思議な感じだ。
 男は安室をソファに案内すると、自身は名前と並んで座った。

 二人は会話を交わしながらファイルやフラッシュメモリの受け渡しをしているようだが、名前は目線を落としてそれらの情報を視界に入れないよう努めた。どう見てもアングラな取引だ。関わりたくない。

「よし、これで全てだな」
「ええ、確かに」
「これで今後うちの後ろ楯はそちらに任せていいんだよな?」
「そう聞いています」

 そうか、よかった、と男は安堵した様子だ。

「ただお宅には怖い噂も多いからな、保険は多めにかけておきたい」
「保険ですか」
「ああ、これだよ」

 そう言って男がポンと手を乗せたのは名前の肩だ。

「……え?」
「いい女だろ?東都大法学部卒の才女でな、体の具合もいい」

(えっおい何言ってくれてんの?)

「手付金代わりに好きにしていいから、ちゃーんと便宜図ってくれよ、安室くん」

 そう言う男は、「悪いな、名前」と名前の頬にキスを一つ落として部屋を出ていってしまった。
 名前は頬を拭うことも忘れて唖然とする。クズな男だと知ってはいたが、まさかこれほどとは。

 広い空間に安室と二人で取り残された名前は、安室に「名前さん」と呼ばれてようやく視線を正面に戻した。

「あ、はい」

 目線の先の安室はどこか困ったような笑顔を浮かべている。
 名前はそこでようやく、頬をワンピースの袖でごしごしと拭った。

「彼にはなんと聞かされてこの場に?」
「新しい事業を興すために投資家と会うが、不安なので金融の専門家としてその場に同席してくれないかと」
「彼との関係は?」
「彼の方が一年先輩ですが、お互い同じ大学のOBで……」
「で?」

 続きを促す声が少し低くなった気がする。

「……元彼、です」

 へえ、と自然な相槌を打った安室の手元でミシリという音が鳴った。それ今手に入れたばかりのメモリでは。

「随分とひどい元彼ですね」
「ええ、それに気付いて別れました」
「では今回も言葉通りの用件ではないと気付いていたのでは?」
「そうですね」

 名前は嘆息して続ける。

「ただ彼の性格上、私がダメなら他の女性に声をかけるだろうと思ったので」

 何も知らない女性が餌食になるよりは、多少なり腕に覚えのある名前の方が被害も少なく済むだろうと思ったのだ。
 まさかこんな怪力男に差し出されるとは思いもしなかったが。

「……お優しいんですね」

 そう言う安室は終始微笑みを浮かべていて、素人の名前では感情を読み取れそうにない。

「女性限定です」

 とりあえずそう答えて苦笑してみせると、彼もまた困ったように眉尻を下げて笑い、雰囲気が少し和らいだ。

「……さて、いつまでもこんなところに閉じ込めてはおけませんね。送ります」

 立ち上がった安室に続いてドアに向かった名前だったが、小走りに彼を追い抜いて手のひらで制す。

「大丈夫です。一人で帰れます」
「しかし」
「お忙しいでしょうし、ホテルを出ればタクシーくらい拾えますから」

 そう言って笑いかけるが、彼の眉根がわずかに寄った。

(密室で二人きりなのに降谷くんに戻らないってことは、今も誰かの目があるか、もう私に降谷零として会う気がないか……)

 どちらにせよ、一般人の名前があまり関わるわけにはいかないだろう。
 気を抜くと滲み出そうになる寂しさをぐっと押し留めて、名前は安室の胸倉を掴んだ。

「え?」

 それを引くと、彼は特に抵抗せず長身を屈める。名前はその耳元に唇を寄せて、彼にしか聞こえないよう小さく呟いた。

「……今は公安なんでしょう?仕事の邪魔をするつもりはないから安心して」

 その言葉に安室がハッと顔を起こす。
 久しぶりに見えた素の顔に小さく笑って、名前は慎重に言葉を選んだ。

「死んだ父もそうだったので、なんとなくわかるんです。では」

 ぺこっと会釈し、豪奢な部屋を後にする。

 突然の邂逅だったが、元気そうな姿を見て安心した。これでまた彼と会うことはないのだろう。名前は歩きながら鼻をすすった。


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