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降谷と安室として再会してからしばらくの間、名前は若干ビクビクして過ごしていた。
いかにも怪しい取引の渦中にいたのだ。口止めされたり、情報をばらまいていないか探られたり、そんなことが起こるのではないかと彼女は危惧していた。
しかし拍子抜けするほど何もなく、気付けばまた日常の繰り返しへと戻っていく。
もしかしたら尾行やハッキングなど知らない間にされていたのかもしれないが、元々特にやましいことはない。こちらに気取られないようにやってくれるならいくらでもどうぞという感じだ。
(……また、お断り)
抱き枕をむぎゅっと抱き締めながら、スマートフォンを力なくシーツに落とす。
婚活の惨敗ぶりも相変わらずだった。
しかも、相手と連絡先を交換してからお断りされるまでの期間がさらに短くなったような気がする。嫌なペースアップだ。
(神様、どんだけ私のこと嫌いなんだ?)
そういえば大学時代、家庭教師のバイトを紹介してくれた降谷を神様と呼んだことがあった。
本当に自分は神様に縁がない、と思わずため息が漏れる。
そんな日常を繰り返しながら、名前は29歳になった。
***
ある金曜日。
仕事を終えて帰宅した名前が、いつも通りマンションのエントランスに備え付けられた郵便受けを開く。そしてそこに入っていた郵便物を無造作に掴み、そのままエレベーターに乗り込んで自室へと向かう。
部屋に入ってから郵便物を一つ一つ確認していると、一通のハガキが目を引いた。
「……米花町の喫茶店?」
それは喫茶店のダイレクトメール、いわゆるDMだった。
しかしここから米花町まで電車で30分ほど離れているし、なんでわざわざこんなところまで?と首を傾げる。
どうやらその店は明日から新作ケーキの提供を始めるらしく、このDMを持参すれば土日に限りコーヒーとケーキが半額になると書かれていた。
「は、半額!?」
それは頑張りすぎでは?と思いつつ、貧乏レーダーが敏感に反応してしまう。
(……この一回だけ、行ってみようかな)
銀行員となって収入が安定した今も、苦学生時代の感覚が抜けない名前だった。
***
そして翌日の土曜日。車を持たない名前は、電車で米花町を訪れていた。
(あ、ここだ)
喫茶ポアロ。DMに書いてあった通りの店名だ。見上げると上階の窓には毛利探偵事務所の文字がある。
(毛利探偵ってあの有名な?事務所ここだったんだ)
へー、と心の中で頷きつつ、喫茶店のドアを引く。カランとドアベルの音が鳴り、「いらっしゃいませ」と爽やかな声が彼女を迎え入れた。
(………ん?)
その爽やかな声に聞き覚えがありすぎた名前は、目の前に現れたネイビーのエプロンからゆっくりと視線を上に上げる。
「あっ、名前さん」
来てくれたんですね、とこれまた爽やかな笑顔を浮かべている男に、名前は目をひん剥いた。
「……えっ?」
(えっ、えーっ!?なんでー!?喫茶店店員になってるー!?)
「ご案内しますね、カウンター席でよろしいですか?」
にこやかに、かつさりげなく名前の手を引くのは間違いなく安室透だ。少なくとも降谷零ではない。
しかしホテルで会った時より数段明るく爽やかなのはどういうことだろう。安室透にも種類があるの?
(こ、これも公安の仕事……?)
でなければ東都大主席入学で主席卒業、なおかつ警察学校でトップの成績を残した男がこんなところでエプロン着けてニコニコ笑っているわけがない。
名前は案内されたカウンター席に座りながら、目を白黒させていた。
(状況が全然把握できない……)
「名前さんも新作のケーキでいいですか?」
そしてこの男、さっきから普通に名前を呼んでくる。安室透とは知り合いでいてもいいということだろうか。
「あの……安室さん?」
「はい?」
その笑顔が完璧すぎて、名前には彼が何を考えているのかわからなかった。
「…いえ、なんでもないです……」
聞きたいことを色々諦めた名前に、安室は「そうですか」とにこやかに返す。
「それで、ご注文はどうされますか?」
「あっ、ケーキとコーヒー、お願いします」
そう言いながらDMを差し出すと素早い動きでスッと引き抜かれる。見せるだけじゃなく回収するタイプのヤツだったのか、と思わず目で追うが、安室は器用にもそれを手のひらに隠して「かしこまりました」とカウンターの中に戻ってしまった。
(いや、なんだ今の?)
ちょっと誰か一から説明してくれないかな、と疑問符を飛ばしながら、名前は大人しくケーキとコーヒーを待った。
***
結論から言うと、提供されたケーキとコーヒーは今までの人生でダントツに美味しかった。
しかもそのケーキを考案したのも作ったのも安室だというから驚きだ。そしてその彼は今、カウンターの中でパスタを作っている。
(料理、できるようになったんだ)
からっきし、と諸伏に言われていた彼が喫茶店のメニューを考案するまでになるとは。感慨深い。
名前はコーヒーを口に運びながら、フライパンを持つ安室が手際よくパスタソースを絡める様子を眺めていた。
「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
空になったカップを置いたところでそう声をかけてくれたのは、若い女性店員だった。確か先程、安室に「梓さん」と呼ばれていたはずだ。
「ありがとうございます。お願いします」
そう答えれば、すぐにおかわりを持って来てくれる。そしてその彼女が、カウンター越しに身を乗り出して小声で囁いてきた。
「…あの、安室さんとはお知り合いで?」
「あ、はい。去年初めてお会いして……」
つられて名前も小声で答えれば、梓はさらに声を潜めた。
「もしかして、彼女さんだったり…?」
「え?いや、違いますよ」
「でも、安室さんがわざわざ手を引いてエスコートするなんて、年配の方以外で初めて見ましたよ」
そうなんですか…?と小声で問いかけると、「ええ…」と神妙な面持ちで返してくる。というか先ほどからお互いにずっと小声だが、彼のスペックなら全部聞こえていそうな気がする。
「じゃあ、私もババアと思われたのかも」
そう言いながらちらっとキッチンを窺えば、そっぽを向いた彼の肩が小刻みに震えているのが見えた。ほらな。
「何言ってるんですか…!まだお若いですよね?」
「いや、もうすぐ三十路です」
「えっ」
小声を忘れた梓が素で驚いた声を出す。
「全然見えないです!」
「え、嬉しー」
いいな、この店。毎週通おう。
ひそかにそう決意した名前だったが、彼女がそう決めるまでもなく、それから毎週金曜日にポアロからのDMが欠かさず届くのだった。
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