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「えっ、テニス?」
首を傾げる名前の前で拳を握り締めているのは、かの鈴木財閥のご令嬢である園子だ。
「そう!安室さんすっごく上手いんだから!」
「へえー」
まあ彼ならなんでもできそうだな、と初めてのバッティングセンターで140km/hを軽々打った降谷の姿を思い出す。
今日もいつも通りポアロのカウンターでコーヒーとケーキを楽しんでいた名前だったが、その後来店した園子たちの誘いでテーブル席に移動していた。
まだ話したのも数回だというのに、女子高生のコミュニケーション能力の高さには驚かされるばかりだ。
「以前安室さんにコーチしてもらった時、殺人事件が起きてそれどころじゃなくなっちゃって」
「そうそう、だからまたリベンジしたいと思ってるのよ」
「え、殺……?」
今さらっととんでもない単語が聞こえた気がする。
「名前さんも安室さんのテニス姿見たいでしょ?」
ニヤニヤしながら言う園子に、ああこの子も安室が好意を抱いていると勘違いしているクチか、と名前は心の中で遠い目をした。
そうだね、ととりあえず同意しておく。
「名前さんも運動神経よさそうだよね」
そう言って会話に入ってきたのはコナンだ。
「そうなの?コナンくん」
「うん!こないだ引ったくり犯を」
「あーそうなの!運動は得意な方で!」
名前は慌ててコナンの言葉を遮った。
あの時は子供たちもいたし咄嗟に行動してしまったが、引ったくり犯に立ち向かったなんて知られたらカウンターの中にいる男になんて思われるか。
「じゃあぜひ行きましょうよ!」
「うっ」
蘭の裏のない笑顔に思わず怯む。
「で、でも来週だよね?来週は私、用事があって」
「えー?安室さんとのテニスより大事な用事って何よ!」
そもそもまだその安室の予定も聞いていないのでは?と思いつつ、名前は正直に答える。
「お見合いバスツアー、申し込んであるの」
その言葉に女子高生と男子小学生が固まった。おっと、三十路間近の女の婚活事情に引いただろうか。
「……何それ?初めて聞いたわ」
「当日集まったメンバーで普通にバスツアー楽しむだけだよ。あちこち観光した後は温泉旅館とかに泊まって……」
「泊まり!?」
園子が目を丸くして叫び、蘭はボッと赤面する。コナンも目が点になっている。
「え、そんなに驚くようなことじゃ」
「名前さん」
ひょえっ、と思わず変な声が漏れた。背後から186cmの圧を感じる。
「……はい」
ゆっくり振り向くと、トレンチにコーヒーのおかわりを乗せた安室がとてもいい笑顔を浮かべて立っていた。
今さらだが座っているところに立たれると凄まじい迫力だ。
「すみません。お話聞こえてしまいました」
「い、いえ……」
持ってきたコーヒーが名前の前に置かれる。
園子たちが固唾をのんで見守っているのが雰囲気でわかった。
「名前さんはテニス行かないんですか?僕、来週の土曜日はちょうどシフト入ってないんですけど…」
そう言って眉尻を下げる安室だが、素の彼を知る名前からするとおそろしくわざとらしい。だって土曜日いつもいるじゃん…。
「でも、」
「名前さんと行けたら嬉しいんですが…」
「…えーっと」
「……無理ですかね?」
あざとく小首を傾げるな、とツッコみたいのをグッと堪え、名前は拳をギリギリと握り締めた。
「…名前さん?」
「………む」
「む?」
「…………無理じゃ、ないです」
たっぷり間を空けて答えた名前に、安室がパッと表情を明るくする。
結局自分はこの男には敵わない。それを改めて実感した名前だった。
***
そして約束の土曜日。名前は安室の車で伊豆高原にある鈴木財閥の別荘を訪れていた。自然豊かで空気も美味しいが、一度殺人事件の現場になった場所だと思うと複雑だ。
「…ったく、なんで俺がせっかくの週末にこんなところまで……」
「すみません毛利さん。長時間の運転お疲れ様です」
ブツブツ呟く毛利に名前が頭を下げると、彼は人が変わったようにキリッとして「とんでもない!」と姿勢を正してみせた。
女性に弱いと蘭から聞いてはいたが、どうも本当らしい。
別荘に荷物を置いた面々は、早速テニスウェアに着替えて外に出る。するとなぜか安室にテニスを教わりたがっていた園子ではなく、名前が安室とペアを組まされてしまった。
「いーのよいーのよ、私は後で!」
そう言ってニヤニヤ笑う園子に思わず半目になってしまったのは致し方ないだろう。
「じゃあやりましょうか、名前さん」
「はーい」
「えっ、いきなりラリーから?」
ネットを挟んでコートに立った二人に、コナンが目を瞬かせる。
「まずはフォームとか、グリップの握り方から確認するんじゃ」
「あー、私が実践から入りたいタイプだから」
「フォームも後で修正するから大丈夫だよ、コナンくん」
名前と安室にそう言われ、コナンは「そうなんだ」と引き下がった。
初心者がいきなり打ち合うのはラケットがすっぽ抜ける危険性もあるが、その辺りは名前のバッティングやゴルフを見てきた彼だ。心配はしていないのだろう。
「いきますよ」
「お願いしまーす」
ポーンと山なりに打ってきた安室に、名前も同じように返す。フォームは相変わらず適当だ。
「フォーム、後で直しましょうね」
「えっ、そんなひどいですか?」
「それでも打てるのがさすがです」
「えへへ」
「ちょっと強くしましょうか」
「どんと来いです」
それまでふんわり打たれていたボールが、少しだけ速さを増して直線に近づく。
名前の手元を狙って打ってくれるので、名前も危なげなくそれを打ち返した。
「とりゃっ」
グリップを両手で握って思いっきり打ってみるが、安室に難なく拾われる。
「調子が出てきましたね」
「打倒安室さんです」
「はは、怖いな」
「そのすました顔に届け…!」
「よし、迎え撃ちましょう」
ラリーは途切れず、しばらくの間パコーンと気持ちのいいインパクト音が続いた。
蘭とのラリーを中断して二人を見ていた園子が、「思ってたのと違うわ…」と呟く。安室が名前の腰に手を添えてフォームを教えたり、名前の手の上からグリップを握り込んだり…と乙女な妄想をしていた園子だが、目線の先の二人は間違ってもそんな雰囲気にはなりそうになかった。
***
別荘でそのまま一泊していく毛利たちを残し、翌日ポアロのシフトが入っている安室と、その車に乗ってきた名前はそのまま東京へと戻る。
「久々にちゃんと運動しました」
「僕もです」
明日ちゃんと働けるかな、と運転席の安室が笑う。
「え、安室さんが筋肉痛なんて想像できない」
「はは、実は僕も」
「ですよね」
むしろ心配すべきは名前だ。明日は予定もないし家でゆっくりしよう、となんとなく考えたところで、ふぁっとあくびが出る。
「眠いですか?名前さん」
「いや、大丈夫です」
「朝早かったですし、寝てもいいですよ」
眠気が加速するからその優しい声やめてほしい、と勝手なことを考える名前。彼の声からはマイナスイオンが出ている気がする。もしくは1/fゆらぎだろうか。
「さすがにドライバーの隣で寝られません」
「我慢してる姿を見る方が気になります」
ぐっ、と名前が言葉に詰まる。そもそも口で彼に勝ったことはないんだった、と早々に白旗を上げた。
「……じゃ、ちょっとだけ」
「着いたら起こしますね」
「ちょっとって言ってるじゃん…」
本当にこの男は、と恨めしそうに隣を見るが、優しく微笑む横顔が見えて反論を諦めた。
素直に甘えることにして目を閉じると、疲れもあってか自然と体の力が抜けていく。
(……あー、すぐ寝れそう)
走行中の心地よい揺れと低いロータリーサウンドも、名前を深い眠りへと誘い込む。
「…おやすみ、降谷くん……」
「え」
そのまま寝入ってしまった名前は、自分がうっかり彼の名を呼んでしまったことも、呼ばれた彼が安室らしからぬ表情で小さく笑っていたことも、気付くことはなかった。
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