17


 その日、珍しく長時間の残業を終えた名前は、重い足取りで駅を出た。終電とまではいかないが、夕食を取るのも億劫になる程度には遅い時間だ。

 コンビニで大豆バーでも買おう、と疲れの滲む表情でため息をつき、駅の近くのコンビニに向かう。
 そして彼女は、ちょうど店内から出てきた一人の男から目が離せなくなった。

(……あれ?)

 キャップを目深にかぶってその上からパーカーのフードまでかぶった男は、マスクをしているため顔がほとんどわからない。左足が悪いのか、どこか違和感のある歩き方で店から離れていく。

 その姿を見て、名前は抑えきれないほどの既視感に襲われていた。

(…ダメ。見なかったことにしないと)

 そう自分に言い聞かせながらも、足が彼の方を向く。ダメだ、やめろ。そう脳が警鐘を鳴らすのに、次第に小走りになる足を止められなかった。

 パーカーのポケットに突っ込んでいる男の腕を、名前がグイッと引く。
 長身の男はそれによろめきもせず、ゆっくりと後ろを振り返った。

「……あ…」

 絡んだ視線に、名前の視界がじわりと滲む。

「っ、」

 思わず名前を呼びそうになって、慌てて下唇を噛んだ。その痛みで少しだけ冷静になる。

「……すみません」

 目線を下げ、男の腕を掴んだままだった手を放す。人違いでした。そう言おうとしたところで、俯いた名前の頭にポンと大きな手のひらが乗った。

「え……」

 顔を上げた先で、つり目がちな目元が柔らかく緩むのが見える。
 思わず目を見開いた名前の頭を数回撫で、男は再び背を向けて歩き出した。

 その背中を見送りながら、名前は両手で口元を押さえて嗚咽を飲み込む。それでも、手を濡らす涙は止められそうになかった。




***




 その週の土曜日。
 いつも通りポアロでコーヒーとケーキを楽しむ名前に、カウンター越しの安室が声をかける。

「あれ、名前さん。今日はずいぶん機嫌がいいですね」

 何かいいことでもあったんですか?と問う安室に、名前はえへへと頬を緩ませた。

「こないだ、どうしてるかずっと気になってた人を見かけたんです」

 思い出すのは、ほんの一瞬だけ邂逅した彼の姿だ。

「元気そうで安心しました。ちょっと足を悪くしたみたいでしたけど」

 そう話しながら口に運ぶコーヒーは、いつもよりさらに美味しく感じる。
 安室は「そうですか」と相槌を打ちながら、上機嫌な彼女に笑いかけた。

「その彼も、きっとまた会いたがってると思いますよ」
「ふふ、男の人だなんて言ってないですよ」
「おや、そうでしたね」

 そう言って目を瞬かせる安室に名前がプッと吹き出す。わざとらしい会話だが、この気持ちを共有できる相手がいるというのがありがたかった。

「足の怪我、きっと本人は気にしてないと思いますよ」
「え?」
「胸ポケットだったら死んでた…なんて思ってるんじゃないですかね」
「? なんですか?それ」
「いえ、独り言です」

 言葉の意味をはかりかねた名前が目を細めて安室を見るが、彼はそれ以上話す気はないらしい。
 名前は疑問符を飛ばして首を傾げながら、目の前のケーキにフォークを差し込んだ。




***




 仕事を終えて同僚と職場を出た名前は、目の前の電柱にもたれる男の姿に足を止めた。
 薄暗い中でもわかる艶やかな金髪に灰青色の瞳。そして色気漂う褐色の美貌が人目を引いている。

「あ、名前さん」

 名前に気付いてにこやかに笑いかけてくるその男は、今日もおそろしく顔がいい。

「……えっ?あの、」
「時間ができたので、早めに迎えに来ちゃいました」

 シンプルな白シャツに黒いジレを合わせ、首元には品のいいループタイ。ベージュのパンツでセンスよくまとめたその男の姿に、同僚たちがざわりと色めき立った。

「え、苗字さん!?こちらのどえらいイケメンは一体…!」
「もしかして彼氏!?」
「えっでも苗字さんって婚活中、」
「あーあーあー皆さんお疲れ様でしたー!!」

 ざわめきを遮るように声を上げ、名前は安室の背を押してその場を離れる。

「……あのっ、安室さん!」

 十分距離を稼いでから話しかけると、彼は「はい?」と小首を傾げた。

「今日は現地で待ち合わせの約束では?」

 今日は安室と約束していた食事の日だ。約束では、彼が予約したレストランのあるホテルの前で待ち合わせるはずだったのに。

「時間ができたので、一緒に行きたいなと」
「でも私、着替えないと」
「ご自宅まで送りますよ」

 準備中は車で待ってますし、と微笑まれて名前は脱力した。

「名前さん」
「え?」

 自然な動きで手を取られ、思わず見上げる。

「車、こっちです」

 そのまま手を引かれて方向転換する。そして車に乗り込む直前まで、その手が離されることはなかった。




***




 安室が予約していたのは、有名ホテルにあるフレンチレストランだった。
 この時点で名前は(あの和食大好き人間が…!?)と声には出さずに驚いていた。
 しかしいざ店内に足を踏み入れてみると、これがまた安室によく似合う。彼の華やかな容姿は店のラグジュアリーな雰囲気にも見劣りせず、ひときわ目立っていた。

「…こういうお店、よく来るんですか?」

 テーブルにつき、向かい側に座る安室に問いかける。

「そう見えますか?」

 ふ、と微笑んだ彼は質問に質問で返してきた。

「はぐらかしましたね」
「いえ、そんなつもりは」

 そう言って薄く笑う彼は、いつもポアロで会う安室より落ち着いた雰囲気を纏っていて、色気が駄々洩れだ。去年ホテルで再会した時の彼に近いかもしれない。やっぱり安室透にも種類があるのだろうか。

 安室はすでにコースで予約していたようで、料理に合わせるワインだけ選ぶ。しかし彼は車だし名前は下戸だ。どうするのかと思って見ていると、彼は特に迷う素振りもなくワインを注文した。

「え、車ですよね?」
「ああ、今日は上に部屋を取っているので」

 どうやら最初から飲むつもりでいたらしい。へー、と相槌を打った名前に、彼は微笑みながらも少しだけ眉根を寄せた。

「……そこで全く警戒しないのが、あなたの怖いところですね」
「え?」
「部屋を取っているなんて言われたら、普通は連れ込まれるのかと警戒するものですよ」

 そこまで言われて、名前はようやく思い至った。

「……あー、なるほど」

 婚活を続ける中で、不穏な出来事が一度もなかったわけではない。それでも名前の場合、大概のトラブルは身一つで切り抜けられてしまうので、今一つ警戒心が足りていなかったかもしれない。

「以後、気をつけます」
「そうしてくださいね」
「安室さん相手だと余計に警戒心がなくなっちゃって」
「………」

 名前の言葉に安室の笑顔が一瞬固まる。これはもしかして、降谷だったらまた「マジかこいつ」という表情を浮かべていたところだろうか。名前は即座に反省した。




***




 名前は赤ワインベースのソースを纏った牛フィレ肉にナイフを差し込み、そのあまりの柔らかさにうっとりとため息を漏らした。そしてカットしたそれを口に運び、きめ細やかな肉質とまろやかな舌触りに「うーん」と唸る。

「はぁ……美味しいー」

 こんなに美味しい料理がこの世にあったなんて。
 一口一口感動しながら食べる名前に、目の前に座る安室が小さく吹き出す。

「本当に美味しそうに食べますね」
「だって美味しいんですよ…。いや、美味しいものは他にもありますけど、フレンチなんて食べ慣れてないので余計にそう感じて」

 まさか赤ワインソースで酔っ払っているわけではないと思うが、名前は店の雰囲気と料理にすっかり夢見心地だ。実はかなりチョロい女なのかもしれない、と自分で思う。

「そう言ってもらえると、誘った甲斐があります」
「誘ってもらえてよかったです」

 ふふ、と笑いながら、名前は安室の手元を観察する。
 大学時代、降谷が焼きそばをがっつく姿や、豪快にご飯をかきこむ姿ばかり見ていた名前は、洗練された所作でフランス料理を食べる安室が面白くてしょうがない。

(大人になったねぇ、降谷くん……)

 相変わらず何目線かわからない名前だった。


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