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「名前さん。もうすぐ上がりなので、よかったら今日も送っていきますよ」

 その日、いつものようにカウンター越しの名前に話しかけた安室だったが、すぐに「あっ」と困ったように頭を掻いた。

「どうしたんですか?」
「そういえば…僕、今車ないの忘れてました」
「えっ」

 話を聞くと、どうやら先日のサミット会場爆破事件の前後で車が大破してしまったらしい。擦り傷だらけでポアロに出ていたのは名前も知っているが、それも関係しているのだろうか。

「大破」
「ええ、見るも無残に」

 苦笑している安室だが、話している内容は喫茶店アルバイターの域を超えている。車と同様に命を張っていただろう彼を想像して、名前は背中に冷や汗が流れるのを感じた。

「だ、代車は?」
「短期間なので借りてないんです。ポアロは歩いて来れますし、それ以外では知り合いに車を出してもらったりして」
「へえ……」

 あ、そうだ。と何かを思いついたらしい安室が手を打った。

「名前さん、いつも電車ですよね?」
「そうですけど」
「僕も同じ方面に用があるので、ご一緒してもいいですか」

 きょとんとした表情を浮かべた名前だったが、なるほどと納得した。ここから名前の自宅に向かうのと、霞が関に向かうのでは確かに方向が同じだ。

「いいですよ、一緒に行きましょうか」

 彼と電車なんて、何年ぶりだろうか。名前は懐かしさに頬が緩むのを感じた。




***




(ここまで完全再現しなくてもいいのに…)

 そう心の中でため息をついて、名前は自分に壁ドンをする体勢になっている男を見上げる。

 電車に乗り込んだ時はまだよかったが、いつかのように次の駅で突然満員に近い状態になったのだ。若い声で一気に騒がしくなったので、また部活の大会でもやっていたのだろう。

「どうしました?」

 笑顔でこちらを見下ろす男の顔には余裕がある。「見ないでくれ」と照れていたあの頃の初々しさはもう見当たらない。

(大人になったなぁ……)

 これを思うのももう何度目だろうか。感心しつつも、実はちょっと寂しいとも思う。

「名前さん?」

 相変わらず鼻毛一本出ていないし肌ツヤもいい、と見つめていた名前に、ふと安室の顔が近づいてきた。

「わっ」

 咄嗟にその口元をパチンと押さえる。安室はそれに痛がる様子もなく、にこりと笑った。

「ちゃんと警戒してくれているようでよかったです」
「ひっ、そのまま喋らないで……」

 手のひらに当たったままの唇が動き、くすぐったい。安室は面白がるように笑いながら顔を離した。

「…からかわないでください」

 じっとり睨みつける名前に「心外だな」と苦笑する安室。

「名前さんが心配なだけですよ」
「どうだか……」

 カムバック若かりし降谷くん。名前はわりと本気でそう思った。




***




 その翌週、ポアロのカウンターに座る名前の隣には珍しくコナンの姿があった。

 以前はそうでもなかったが、コナンと安室は最近仲がいい。二人でコソコソ話している姿もたまに見るし、私立探偵と少年探偵という共通点で気が合うのかもしれない。
 子供は好きでも嫌いでもない名前だが、理知的なコナンは彼女にとっても話しやすく好ましい存在だ。

「そういえば名前さん」

 オレンジジュースを飲みながら話しかけてくるコナンに、名前は「なに?」と聞き返す。

「ずっと聞いてみたかったんだけど」
「うん」

 頷いて促すと、彼は少し言いにくそうにしてから再び口を開いた。

「名前さんの結婚相手の条件って?」
「ん? 警察官以外」

 パリン

 カウンターの向こうから、ガラスの割れる音と「失礼しました」という声が聞こえる。相変わらずの握力だな。

「え……そうなの?」
「あんまり細かいところはこだわらないけど、そこは大前提かな」
「どうして?」

 当然の疑問に、名前は眉尻を下げて笑った。

「うち死んだ父親が警察官で、死んでから公安の捜査官だったってわかったの。そしたら何も知らなかった母親が荒れに荒れてさぁ、それから我が家で警察官がタブーになっちゃって」
「そうなんだ……」

 名前はふと、割れたグラスの片付けをしている安室に視線を向ける。

(いや、降谷くんならちゃんと結婚できると思うよ。イケメンだし要領いいし、大丈夫大丈夫)

 と、脳内で無駄にフォローしてみる。
 制約の多い公安捜査官にとって結婚のハードルは高いだろうが、彼ならきっと上手くやるだろう。

「あっ、ごめん。今日職場の人と約束があるの。私そろそろ行くね」
「う、うん」

 そう言ってパッと立ち上がった名前が、早々に会計を済ませて店を出る。
 いつも通り和やかな雰囲気が漂うポアロだったが、コナンの座るカウンターに限っては気まずい沈黙が支配していた。

「あの、安室さん、大丈夫…?」
「何がだい?」
「いや、だって、安室さんって名前さんのこと…」
「君は本当に詮索好きだね」

 コナンには笑顔の安室が血の涙を流しているように見えたという―――

 ていうか裏で手を回して名前さんの縁談全部潰してるのって安室さんだよね?とは、怖くて聞けないコナンだった。




***




「あっ、ボールが!」

 その日、米花百貨店に向かっていた名前は、左側の米花公園から聞こえた子供の声にそちらを見た。
 そしてサッカーボールが勢いよく飛んでくるのに気付いて足を止める。
 名前の後方に落ちようとしていたそれをハイヒールを履いたままの踵でトラップし、頭上を通って前方に落ちてきたところをノーバウンドで蹴り返す。

 ふわりと山なりに飛んだボールは、駆け寄ってきた少女の腕の中にポスっと落ちた。

「わっ、すごーい!」

 感動の声を上げた少女は少年探偵団のメンバーだ。
 続々と追いついてきた見慣れた少年少女が、口々に歓声を上げる。

「名前お姉さんじゃないですか!」
「すげーな姉ちゃん!魔法みたいだったぞ!」

 照れた名前がえへへと頬を掻いた。

「名前さん、すごいね!サッカーもできるんだ」

 コナンに褒められ、名前は何も考えずに答える。

「一応、中高とサッカー部だったからね」
「へー、女の人でサッカー部って珍しいね」
「あっまあね、うちの地元では結構さかんで」

 おっと危ない。名前は心の中で冷や汗をかいた。

「今日は随分とお洒落してるのね」

 そう言って名前の服装を見る茶髪の少女は、確か灰原とかいったか。彼女の言う通り、名前が着ているのはどう見ても普段着ではないツイードのワンピーススーツだった。

「今日は杯戸町に新しくできたホテルの竣工式なの。うちの銀行からも大口の融資をしてるから、一応担当者として招かれてて。ちょうどいいネックレスがなかったから、これから百貨店寄って買ってくところ」
「へー」
「休日まで大変ね」

 話してから小学生には難しかったかと思い至ったが、コナンも灰原も特に疑問に思う様子はない。いや、すごいな?



 少年少女と別れた名前は百貨店で無難なネックレスを購入し、駅へと戻って隣町の杯戸町に向かう。
 そして目的地であるホテルで竣工式の受付と、施工主への挨拶を済ませた。

 会場内に視線を走らせると、代議士などテレビで見たことのある顔もちらほら見かける。かなり大きいホテルとあって、竣工式も盛大に行われるようだ。

 と、名前が意識を保っていられたのはそこまでだった。

(―――え?)

 突然聞こえた轟音と全身を襲った衝撃。それから感じたことのない熱さに、名前の意識はブツリと途切れた。


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