02


 名前が東都大に進学して早くも一ヶ月が過ぎた。
 怒涛のサークル歓迎ラッシュにしばらくの間は辟易していたが、結局どのサークルにも所属しないまま勧誘期間が終わる。

(飲みサーとかテニサーとか、そんな暇ないっての)

 後者のテニスサークルも目的は完全に飲み会と出会いという雰囲気だった。
 彼――もとい彼女は内申稼ぎのために中学高校とサッカー部に所属してはいたものの、基本的には一人で過ごす方が気が楽なタイプだ。それに元々、大学は勉強とアルバイトに勤しむつもりでいるのだから、サークルなんて入る気もない。

(返済不要の奨学金もらってるけど、一応苦学生だし)

 名前の母親はシングルマザーだ。経済面で彼女には頼れない。
 この一ヶ月で一人暮らしにも大学生活にも(ついでに女としての生活にも)だいぶ慣れた名前は、そろそろアルバイトを探すつもりでいた。

(喫茶店、ファミレス、書店……割りがいいのは肉体労働だけどこの体じゃ……)

 キャンパス内のカフェで求人雑誌を睨みつけるが、ページを捲れどいまいちパッとするものがない。
 ため息をついてコーヒーを口に運んだところで、またあの男が視界に入った。

(あー、えーと、総代の)

 名前は覚えていないが、金髪に青い目の色黒の男だ。今日もおそろしく顔がいい。
 隣にいる友人と思しき黒髪の男もまた顔がいいし、二人とも人目を引く長身である。

(モテそうだな、羨ましい。私なんてこんなことになって……うっ辛い)

 自分だって男のままなら、と現状を嘆く。
 こんなんじゃ彼女も作れない。むしろ作るべきは彼氏なのだろうか?いやそれはまだちょっと抵抗が、でも健全な大学生が禁欲生活ってのもな――と取り留めのないことを考えていた。

 コーヒーが空になったタイミングで求人雑誌を持って席を立つと、名前は隣のテーブルに座っている女子学生が青い顔で俯いているのに気づいた。

「……大丈夫?」

 小声で問いかけると、彼女が顔を上げる。やはりその顔に血の気はない。

「あ……痛み止め、忘れちゃって……」

 そう言いながら彼女が押さえているのは下腹部だった。なるほど。名前もこの一ヶ月の間に一度経験したが、生理痛というものはなかなかに辛い。過去の彼女たちに向けて「めんどくさいとか思ってごめん」と半泣きで謝罪してしまったほどには辛かった。

「私、持ってるよ」
「え……」

 トートバッグを漁り、ポーチから取り出したそれを一回分差し出す。

「よかったらどうぞ」
「え、あ、ありがとう……」
「どういたしまして」

 備えあれば憂いなしだ。いいことをして気分がよくなった名前は、ヨシ、と一つ頷いてその場を離れた。




***




(なんだろ……今日の私は神様にでも試されているのだろうか)

 つい現実逃避してしまいたくなるほど、今日の名前は一日中ありとあらゆるトラブルに遭遇した。
 元カレに付きまとわれているっぽい女子学生を友人ヅラして助けてみたり、パンプスのヒールが折れたらしい女子学生の応急処置を手伝ったり。相手が女だとつい助けたくなるのはもはや習性だろうか。

 大学からの帰り道では迷子の幼女を交番まで連れて行き、先ほどは横断歩道で立ち往生していた大荷物の老婆の荷物持ちをしながら手を引いてあげたところだ。

(偉すぎる〜。表彰されたい)

 誰か評価してくれ、と本気で祈ったところで、名前は視界に入った光景に思わず青褪めた。

(……嘘だろ!?)

 もうすぐ自宅マンションだというところで、車道を横断しながらヒックヒックと泣いている少女を発見してしまったのだ。
 場所は片側二車線のそこそこ広い道路。中央分離帯の隙間を通り抜けてこちらに向かって歩く少女に、近くの交差点を左折したばかりのトラックが迫る。

(―――見えてないのか!)

 こんな時、反射神経がよすぎる自分が嫌になる。

 バッと車道に駆け込んだ名前が、少女を抱えて中央分離帯まで一気に飛び込む。
 そして仰向けに受け身を取って転がったところで、状況に気付いたトラックが急ブレーキをかけて止まった。

「……ったぁー」
「ふ、ふぇっ」

 突然のことに、腕の中の少女がいよいよ泣き出してしまった。名前はとりあえず、胸元に抱いた小さな頭をヨシヨシと撫でる。

「あーよしよし。あのね、何があったか知らないけど車道は通り抜けちゃダメだから。危ないから、マジで。ね」
「だ、大丈夫ですか!?」
「あー無事ですー」

 駆け寄ってくるトラックのドライバーに無事を知らせてから、名前は少女とともに歩道まで移動した。
 そして近くの交番から駆け付けた警察官にドライバーと少女を任せ、経緯を説明してからその場を離れる。現れた警察官に、不良の習性でついビクッとしてしまったのは内緒である。

(……痛い)

 飛び込んだ時に軽く捻ったらしい右足首が痛む。まぁもうマンション近いし、とヒョコヒョコ歩いていた名前に背後から声がかかった。

「足、大丈夫か?」

 その声に振り向いた名前は、そこにいた人物を見て思わず瞠目した。

「あ、総代」
「え?」

 声をかけてきたのは今日もドン引きするほど顔のいい男だった。隣にはいつも一緒の黒髪の男もいる。

「いや、入学式で総代してたから」
「あー、ああ。まぁしてたけど……じゃなくて、足」
「あ、大丈夫大丈夫。家近いし」

 ていうか見てたの?と聞くと、トラックが急ブレーキをかけたところで異変に気づいたのだと彼は答えた。

「病院に行った方がいいんじゃないか?」

 黒髪の男がそう提案してくるが、名前はケンカが日常茶飯事だった頃も病院になんて行ったことがない。

「いや家すぐそこだし、帰って湿布貼るからいいよ」

 そう答えれば二人は顔を見合わせた。次に口を開いたのは総代の方だ。

「じゃあ、肩貸そうか?」
「いやそんな高い肩貸されても」
「おぶってもいいし」
「痛みより羞恥が勝つ」

 わがままな奴だな、という顔をされても困る。

「あーいいや、やっぱ肩貸して」

 結局肩に手を回すには身長差がありすぎたので、二人の間に立ってそれぞれの肩に手を置き、片足でピョンピョンと跳びながら自宅を目指すことにした。圧倒的な身長差が地味に悔しい。

「ていうか、苗字さんってすごいよな」
「ん?」
「今日カフェで隣の子に薬あげてただろ?あと絡まれてる女の子助けるのも見たし」

 そう言って感心したような表情を浮かべているのは黒髪の諸伏という男だ。

「壊れたパンプスを直すのも手伝ってたな」

 それに続いたのは逆隣を歩く総代の男、こちらは降谷というらしい。二人して周りをよく見てるな。

「あーそれはたまたま。今日はやたら周りでトラブルが多くて」
「にしてもすごいよ」

 お、と目を瞬かせる。やっぱり褒められるのはいい。誰かに褒められたかった名前は内心でにんまりした。

「女の子が困ってるの見ると放っとけないんだよね」
「イケメンか」
「わかる?」

 モテてたんだぜ? とは言えないのが悔しいところだ。

「君らもモテそう。こうやって初対面で肩貸してくれてるし」

 褒めてくれた彼らは、名前の中ですっかりいい奴認定されていた。名前の言葉に照れくさそうに目尻を赤くしている2人に、初心か、とこっそりツッコむ。

「あ、ここでいいよ。マンションあれだし」

 自宅が見えてきたところで両手を肩から手を離し、二人に向き直った。

「そうか、気をつけろよ」
「じゃあなー」
「はい、ありがとー」

 手を振りながら去っていく二人に、名前もまたひらひらと手を振り返す。

(なんだ、いい奴らじゃん)

 呪われろとか思って悪かったな。こっそり反省しながら自室を目指す名前だった。


prevnext

back