21
ローテーブルにコーヒーを置くと、降谷は「ありがとう」とそれを手に取った。
ローテーブルの下には大きめのラグが敷いてあり、彼はその上に置いたクッションに胡坐をかいている。
こうして見るとわりと大学生の頃のままというか、安室透という男がいかに降谷零のイメージに重ならないよう作られた男だったかがわかる。
名前は降谷とL字になる位置に座り、コーヒーカップを包み込んで冷えた手のひらを温めた。
「びっくりしたよ…いきなり来るんだもん」
「ああ、悪い」
「こっちは一生会えないのを覚悟してたのに……」
ブツブツ呟く名前に、降谷が小さく笑った。
「なんだ、会えない方がよかったか?」
「そういう話じゃないじゃん」
じっとり睨みつける名前を見てまた笑う。
「……安室透はもう終わり?」
「そうなるな」
「じゃあ、「大きな仕事」も片付いたんだ」
「ああ。なんだ、コナンくんから聞いたのか」
うん、と頷く。
「だから、また会えなくなるなって……」
呟くように言った言葉を、降谷は否定しなかった。今日は最後のお別れでも言いに来たのだろうか。
「で、今日は何しに来たの?」
「君に結婚を前提とした交際を申し込みに」
「ふうん」
そっか、と呟いてカップの中身を見つめる。コーヒーの熱がじわじわと手に移っていくのがわかる。温かいそれを口に運んで、はぁ、と息を吐いた。
(ん?)
バッと降谷に顔を向けると、彼はテーブルに肘を置いて名前の様子をじっと眺めていた。
それと数秒見つめ合って、名前はおもむろにカップを置くと「トイレ」と立ち上がる。ちょっと一人になって整理しよう。
「うわっ」
グイッと左手を引かれた感覚があって、あっという間に視界が反転した。
咄嗟に目を瞑った名前がおそるおそる瞼を上げると、目の前にあったのは天井を背にした整った顔で。
「えっ、ちょっ……」
―――押し倒されてる。
その近さに慌てて自由な右手を突っ張るが、鍛えられた体はびくともしない。降谷はそんな名前をじっと見つめた。
「ふ、降谷くん…?」
「知性と清潔感と将来性があって高給取りだったか。適任だと思わないか?」
それは以前も聞いた言葉だった。この状況も相まって、今度は名前もすぐに思い出す。大学一年生の花火大会で、名前を囲む男たちに適当に答えた「彼氏の条件」だ。
「ちょっと待って、条件一つ忘れてる」
コナンに話した一番大切な条件は、彼もカウンター越しに聞いていたはず。
「それは君の母親のタブーであって君のじゃない」
「うっ」
バレてる。確かに、警察官をタブー視しているのはあくまで母親だ。
「……ていうか、どうしたの?そんな急に」
「急じゃない」
え?と疑問符を飛ばすと、降谷の目が真剣な色を帯びる。
「僕は大学の頃から君が好きだ」
灰青色の瞳にじっと見つめられて、名前は一瞬呼吸を忘れた。
「……う、うそ」
「嘘じゃない。ずっとこうしたいと思ってた」
細められた目に「ひっ」と怯えた声が漏れる。
「君は?僕が嫌いか?」
「嫌いじゃないけど…!」
「その辺の男と結婚するより、よっぽど好条件だと思わないか?」
「おもっ……いやいやいや待って待って流されてる!これ流されてる!」
涙目で叫ぶ名前に降谷が呆れたような表情を浮かべる。そこは流されとけよ、とでも言いたげだ。
「ふ、降谷くん余裕ありすぎ、こわい!」
こっちはペーパードライバーだぞ手加減しろ!と心の中で叫ぶ。と、降谷が掴んだままだった名前の左手を自分の胸元に導いた。
「……大丈夫。ちゃんと緊張してる」
ふっと柔らかく笑う降谷の顔と、左手に伝わる早めの心音に名前は気絶しそうになる。どうしよう、全然大丈夫じゃない。
「名前」
「ひぇっ」
突然の呼び捨てに名前はビクッと肩を揺らした。
「君に恋愛する気がないのはわかってる」
でも、と続ける。
「安室透はもういない。ただの友人同士じゃ、今後こうやって会うこともできない。あの時泣いた君と同じで、僕だって君と会えなくなるのは嫌なんだ」
そう言う降谷の眉尻がわずかに下がる。そこを突かれると名前も弱かった。
「う……でも…」
それでも名前にとって降谷は大切な友達だ。
結婚というノルマのためならそこに気持ちがないことなんてなんとも思わなかった名前だが、降谷が相手となると話が違う。
不誠実なことはしたくないし、傷つけたくない。彼に呆れられるのも嫌われるのも嫌だ。こんなこと、他のどんな相手にも思わなかった。
「なるほど」
降谷の声が少し低くなる。
「君は僕と友人のままでいることに固執しているようだが……つまり今までの関係さえ保てれば、僕が他の誰かとどうなっても構わないわけだ」
その意味を飲み込んで、名前はグッと言葉に詰まった。
一方の降谷からは、名前の瞳が切なげに揺れているのがよく見える。彼女はきっと、自分が今どんな顔をしているのかわかっていないのだろう。恋愛がわからないだって?ならその顔はなんだ。
―――もう一押しだな。
潜入が終わったら彼女に思いを告げるというのは、指令を伝えられた時から決めていたことだ。今さら逃がすはずもない。
油断すると顔を出しそうになる獰猛な獣を腹の中に押さえ込んで、降谷は名前に優しく微笑んでみせた。
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