04


「お疲れ様でしたー」

 店内に残る店長や副店長に声をかけて店を出る。来る時に降っていた雨は止んだようで、辺りには湿った香りが漂っていた。

(あー早く帰らないと勉強する時間が)

 名前の働く喫茶店の閉店時間は21時だ。ラストまで働いてから自宅で勉強をしようと思うと、なかなかの過密スケジュールになる。
 しかも東都大は東大の代わりなだけあってレベルが高い。バイトと勉強を両立しようと思うと泣き言は言っていられなかった。駅に向かう足取りも自然と急ぎ足になる。

「すいません、こんばんはー」

 早足で歩く名前の左側から男が覗き込んでくる。名前は無視して歩き続けるが、男はペースを合わせてついてきた。

「急いでる?ちょっとだけ話そうよ」
「………」
「連絡先だけでもいいし」
「………」
「あ、変なスカウトじゃないよ?お姉さん可愛いなーと思って」

 ねーねー、と男はしつこい。
 この辺りで、急ぐ名前の思考に不穏なものが立ち込め始めた。

「なぁ、ちょっと待ってって」

 男が名前の左手を掴んだところで、右手に持っていた傘の柄を順手に握り直して振る。傘がビュンッと空を切る音が鋭く鳴った。

「…………、えっ?」

 顔の横スレスレでピタッと静止した傘に、男が目を見開いて唇を震わせた。

「……急いでるから、失せろや」

 地を這うような声に、ヒッと息を呑んだ男が手を離して走り去る。
 はぁ、とため息をついた名前は、そこでようやく周囲の注目を集めてしまっていることに気づいた。

(やばっ)

 へらっと愛想笑いを一つ溢して、小走りで駅に向かう。

(私は苗字名前、私は苗字名前)

 女になってすでに4ヶ月。たまに崩れる言葉遣いも、苛立つと喧嘩腰になってしまう癖も早く直さなくては。
 電車に飛び乗った名前は、スマートフォンでレディース向け通販サイトを眺めながら自己暗示を繰り返した。




***




「……え、花火大会?」

 何度か話したことのある女子学生たちに囲まれたかと思えば、思わぬ誘いを受けて名前は目を瞬かせた。

「そうそう!一緒に行かない?」
「苗字さんと仲良くなりたくてー」
「人数集めて男女で行く予定だから絶対楽しいよー!」

 口々に話す女子たちに、名前は口元をひくりと引き攣らせる。

(いや、余裕だな?こちとらバイトと勉強でヒーヒー言ってるってのに)

 さすが東都大、学生のレベルが高い。もしくは経済的に恵まれていてバイトをする必要がないのだろうか。それも羨ましい。

「あー、私は……」
「よかったら浴衣も貸すよ!」
「私着付けできるし!ヘアセットできる子もいるし!」

 その押しの強さに、名前は少し悩んでから「ちょっと待ってて」とスマートフォンを取り出した。
 運良くと言うべきか悪くと言うべきか、その日バイトのシフトは入っていない。

「バイトはないんだけど……でも今月金欠だしなぁ」
「えっ、苗字さん来るなら男子が絶対奢ってくれるって」
「そうそう、うちら苗字さん誘ってきてってあいつらから頼まれたんだもん」
「え、マジで?」

 奢り…奢りか…とついつい貧乏レーダーが反応してしまう。
 それに普段から女に弱いのを自覚している名前が、彼女たちの勢いに勝てるはずもなかった。

「うーん……わかった、行くよ」
「ほんと!?」
「やったー!」

 きゃいきゃいと騒ぐ女性陣を名前は疲れたような顔で見つめる。

「あ、それでぇ……」

 そのうちの一人が言いにくそうに切り出した。上目遣いのその表情は名前に何かを期待しているようにも見える。

「なに?」
「あのね……降谷くんと諸伏くんも来れないか、苗字さんから声かけてみてくれないかなぁ?」
「苗字さん、二人と仲いいもんねー」
「ねー」

 頬を赤らめながら笑い合う女性陣。
 君ら絶対それが本題だよね?と思わずチベスナ顔になった名前だった。




***




 花火大会当日。名前は女子たちに連れられて、会場近くに住んでいる子のマンションへとやってきていた。

「女子って大変だね……」
「なにそれウケる」

 ウケられながら、名前は着付けられた浴衣が想像以上に動きにくいことに驚いていた。女子はこんなカッコで歩けるのか、すごいな、と心の中で感心すらする。髪もアップにしてもらい、すっかり夏祭り仕様だ。

(にしても)

 名前の視線の先では、女子たちが堂々と着替えを行っている。女になってしばらく経つ名前は、それになんの感動も覚えなくなってしまった自分に絶望していた。

(ついに男として枯れた……)

 かといって男相手にムラムラするはずもなく、これは本格的に人として枯れるフラグでは?と焦燥感さえ湧いてくる。

「さて、行こ行こー」
「あ、苗字さんの下駄これね」
「ありがとー」

 差し出された下駄を履き、ここから徒歩数分だという会場を目指す。
 他のメンバーとの待ち合わせ場所に着くと、そこにはすでに十数人の男女が集まっていた。

「うわ、こんなにいるの?」
「どうせ途中で別行動だよー」
「あっ、やばっ、降谷くんやばっ」
「ひぃっ尊いっ」
「諸伏くんのあの色気なに!?」

 つられて視線を向けると、そこには彼女たちのリクエストで仕方なく浴衣を着たと思われる降谷と諸伏がいた。
 二人ともシンプルで渋めの色合いの浴衣だが、それが逆に整った容姿を引き立てている。相変わらず二人揃っておそろしく顔がいいし、背もダントツで高いのでかなり目立つ。

 彼らを眺めながらひぃひぃ言っている女子たちを、名前は半目で眺めていた。

「あ」

 諸伏が名前に気付き、にこにこと笑顔で手を振ってくる。

「……えーっと」
「いいよいいよ行って!でも後で分けて」
「う、うん…?」

 女子たちに見送られながら二人のもとに駆け寄る名前。分けてとは。

「苗字さん」
「二人ともこんばんはー」
「あぁ、こんばんは」

 パンプスではなく下駄なので、いつも以上に身長差を感じる。思わず見上げながらため息をついた。

「……なるほど、これが本当のイケメンか」
「? 何言ってるんだ?」
「苗字さん、浴衣似合ってるよ」
「ありがとう。でも動きにくくてストレス溜まる」
「身も蓋もないな」
「ふふ」

 三人で談笑していると、全員揃ったようでぞろぞろと会場に入る。
 花火が打ち上がるまでまだ時間があるが、食べ物系の屋台はどれも長蛇の列ができているようだ。

「苗字さーん、なんか食べたいのあるー?」

 屋台の列に向かうらしい男子たちから声がかかったので、名前は遠慮なく「焼きそばとたこ焼きと牛串!」と答えておいた。

「容赦ないな」
「奢りに弱くって」

 てへ、とわざとらしく笑ってみるがツッコミはなかった。

「降谷くんたちは?並ばないの?」
「花火が上がり始めれば屋台周辺が空くはずだからな。それまで待つよ」

 いや、合理的か。どうやら彼らにゆっくり花火を楽しもうという気持ちはないらしい。

「あ、私あそこの射的やってくる」

 返事を待たずに小走りで屋台に向かう。遠目に見えた景品に見覚えがあったのだ。

(……って、やっぱり違うか)

 某携帯ゲーム機かと思いきや、やっぱり東都大同様に名前をもじった別物だった。
 まぁいいか、と金を払って銃とコルク弾を受け取る。

(確かレバーを引いた後で詰めた方がいいんだったかな)

 弾を詰め、台に身を乗り出してゲーム機を狙う名前。

「あっ」

 一見単純な遊びだが、これが結構難しい。よく狙っても弾がホップしたり手前で落ちたりと、弾の個体差も激しそうだ。
 もらった弾もあと一発。これは無理かな、と諦めかけたところで、名前の右手に褐色の肌が重なった。

「うわっ」
「よく狙って」

 名前の隣に寄り添うようにして現れたのは降谷だ。

「コルクは表面に凹凸があるから飛び方が不均一なんだ。だからあまり端を狙いすぎると外しやすい。かといって正面からは勢いが足りず倒しにくいから、やや右上を狙って回転させながら倒すといい。……そう、この辺り」

 話しながら銃口の向きを調整し、言い終わると同時に名前の人差し指ごと引き金を引いた。
 パン、と軽い音を立てて飛び出したコルク弾が、ゲーム機の右上を正確に撃ち抜いてそれをぐらりと揺らす。落ちろ、と祈る間もなく、斜め後方に倒れこんだゲーム機がコトンと落ちた。

「……すごい!すごいじゃん降谷くん!」

 名前がそのままの体勢で隣を向いて笑いかけると、その近さにぎょっとした降谷がバッと体を離した。

「あ、ああ……」
「やったー!めっちゃ嬉しい」

 店主からゲーム機を受け取り、ゆるゆると頬を緩ませる名前。なんとたったの300円で目玉景品をゲットしてしまった。

「ありがとね!」
「……どういたしまして」

 照れたように頬を掻いた降谷の背後で、本日一発目の花火が上がった。


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