06


「えっ、あの子辞めちゃったんですか?」

 閉店後の店内に名前の声が響く。
 先日降谷と諸伏が来た時に名前が客のちょっかいから助けた同僚。彼女が客からのセクハラに耐えかねて店を辞めてしまったらしい。高時給なのですぐに人は入ってくるが、やはり普通の女の子にとっては過酷な労働環境のようだ。

(私は時給さえ下がらなければそれでいいけど……他の子にはきついか)

 自分のような特殊な人間はそういないだろう。以前降谷にもらった労働環境改善要望書のテンプレートが火を噴く時が来てしまったのかもしれない、と名前はぼんやり考えた。




***




 その日、名前は大学附属の図書館に来ていた。
 大学自体はすでに夏休みに突入しているが、彼女の場合は冷房代の節約とバイトまでの時間潰しを兼ねている。
 来る前に降谷と諸伏にメールしてみたが、未だ返信はない。彼らは彼らで夏休みを満喫しているのだろう。

「ふぁ」

 気の抜けるようなあくびが一つ。
 勉強道具を広げて真面目にそれに向かっていた名前だったが、図書館のちょうどいい室温も相まって瞼がゆるゆると落ちてきてしまう。来る前に食事を取ったこともあって眠気に抗えそうにない。

(ちょっとだけ……)

 頬杖をついて耐えていた頭部を、テーブルの上で組んだ腕に乗せる。そうすれば名前の意識はあっという間に沈んでいった。




***




「……ん」

 意識が浮上して、睫毛をふるりと揺らした名前が薄く瞼を開ける。

(今、何時だろう)

 そばにあったスマートフォンを手繰り寄せ、薄目のままディスプレイを確認する。そろそろバイト先に向かう時間だ。どうやらたっぷり寝てしまったらしい。

「…ふぁ……」

 あくびを漏らしながらゆっくりと顔をあげて、名前は正面に座る人物に気付いた。

「……あれ?降谷くんだ」

 テーブルを挟んだ向かい側で、長い脚を組んだ男が本を読んでいる。ごく普通の体勢なのだが、彼の顔がいいせいかおそろしく様になっていた。

「ああ、起きたか」
「ずっといたの?」
「いち……少し前に来たんだ」

 いち?と首を傾げながら、「ふうん」と返す。
 再び頬をテーブルにぺたりとつければ、ひんやりとした感触が気持ちいい。

「まだ寝るのか」
「んーん」
「疲れてるのか?」
「んー」

 昨日もバイトか、という質問にはその体勢のまま小さく頷いた。

「ラストまでバイトして、ファミレスで店の子の相談聞いてたら終電ギリギリでさぁ……それから家帰って勉強してたから……」
「相変わらず女子に優しいな」
「うん……」
「店も相変わらず問題ありか」
「…んん……」

 問題がないとは言えなかった。

「辞めた方がいいんじゃないか?その店。君が被害を受けないとも限らないだろう」
「ん……私は、大丈夫だけど」

 いくら筋力が落ちたとはいっても、得物さえあれば十分ケンカできるから。とは言わないが。

「そんなにこだわるような店か?」
「時給がいいんだよねぇ……」

 名前に辞める意思がないのを悟ったのか、降谷が小さくため息をつく。

「……仕送りはないんだったか」
「そうそう、うちシングルだから厳しーの。だから時給大事なのー」
「そうか、わかった」

 ん?と名前は顔を上げる。今の返答に何か違和感があった気がしたが、視線の先の降谷はいつも通りだ。「そういえば」と彼が話し出す。

「時間は大丈夫なのか」
「……あっ」




***




 雲一つない空の下、名前は目の前に広がる光景に目を輝かせていた。

「……うわ、すご」

 風に乗って鼻孔に届くのは潮の香りだ。

「苗字さん、めっちゃ感動してるじゃん。ウケる〜」

 ウケてくれたのは花火大会の時にもいた女子だ。名前はこの日、また同じメンバーに強めの押しで誘われて海に来ていた。

「じゃあうちら着替えてくるけど苗字さんは?」
「あー私は大丈夫」
「そうー?」

 海の家の更衣室に向かった女子たちを見送ったところで、パラソルの設置を終えた男たちが名前に群がってきた。それぞれの表情にはわかりやすく絶望が滲んでいる。

「えっ苗字さん水着にならないの?」
「マジで?」
「嘘だと言って?」

 その勢いに押された名前が後ずさると、それを見ていた諸伏が少し離れたところから手招きしてくれた。助かった、と思わず小走りで駆け寄る。

「ありがとう。あのノリ怖い」
「はは」

 笑う諸伏と、隣の降谷はすでに水着姿だ。二人とも無駄のない筋肉がついていて、均整のとれた体つきと整った顔立ちが相まっておそろしく目立っている。

「泳がないのか?」

 降谷はそう言いながら首を傾げた。彼は波打ち際で遊ぶというより沖まで本気で泳いでいくタイプだろう。

「いや、泳ぐよ」
「え?でも」

 諸伏が言いかけたところで名前がバッとTシャツをめくり上げる。

「ちょぁーっ!?」

 諸伏の悲鳴じみた声にも構わずそのまま脱ぎ去り、続いてミニスカートも下ろせば、あっという間に水着姿の完成だ。フリルも何もないシンプルな黒いビキニは完全に安さだけで選んだものだった。

「……ん?諸伏くん?」

 彼は「ま、間に合わなかった」と呟きながら、両手で顔を押さえてしゃがみ込んでしまっている。隣の降谷は直立不動だがいつもより目が見開かれているのがわかった。

 名前は初めから更衣室は使わないつもりで自宅から水着を着込んできていた。いくら下心がないとはいえ、密室で女性の裸を見るのはさすがに罪悪感がすごいのだ。

「……どうせ最後は脱ぐじゃん?」

 脱ぎ方の違いじゃん?とフォローするも、じっとりとした目で睨まれてしばらくの間居心地が悪かった。




***




 その後、案の定降谷と諸伏は競うように沖へと泳いでいった。
 海なし県出身で海での遊び方を知らない名前は、最初こそそれに付き合ったものの体力の差で途中棄権した。

「つ、疲れた……」

 女子用のパラソルに戻ってきた名前が、自分のボストンを枕のようにして倒れ込む。
 海を見ると、見える範囲に降谷と諸伏の姿はない。一体どこまで泳いでいったのか。

 視線を巡らせれば、固まって自撮りしている女子たちと、砂に埋まって遊ぶ男たちの姿が見える。
 海に来るのが初めてというわけではないが、こういうリア充な遊び方は名前には未知の世界だった。

 枕にしていたボストンからスマートフォンを取り出すと、一件の新着通知がある。

(あ、母……お母さんだ)

 それは大学生活の様子を窺う内容のメールだった。夏休みも帰省せずバイトと勉強に明け暮れる予定の名前に、頑張って、応援してると綴られている。

「……」

 彼女の望みは名前がいい会社に入って、普通の会社員として平穏かつ不自由なく生きていくことだ。
 しかも女になってしまったせいか、その望みに「早めの結婚」が追加されていることを最近知った。なんとも気が重い。

 ボストンから頭を落とし、シートにごろりと仰向けに寝転ぶ。

「……なんて格好してるんだ」
「あ」

 上向けた視線がこちらを覗き込む降谷とかち合い、名前は目を瞬かせた。

「海はもういいの?」
「安全第一。適度な休憩が必要だからな」
「そっか」

 相変わらず真面目か。聞くと、諸伏は海の家に昼食を買いに行っているらしい。他のメンバーたちもそれぞれ好き勝手に飲み食いするつもりのようだ。

「いつまでその体勢でいるつもりだ?」

 仰向けのままの名前を、眉を顰めた降谷がどこか気まずそうに見ている。

「あ、ごめん」

 邪魔だよね、と体を起こせば降谷もその隣に腰を下ろした。

「諸伏くん何買ってくるって?」
「多分焼きそばかな」
「ふは、夏の焼きそば率の高さ」
「安定だな」
「食べたらまた泳ごうかな」

 穏やかな海を眺めながら名前が言うと、「食後30分は泳がない方がいい」と降谷が返す。いや、真面目か。


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