08
降谷の紹介で三人の高校生を受け持つ家庭教師となった名前は、久しぶりに心の余裕を感じていた。
アルバイトの拘束時間も短くなり、自分の勉強時間がゆとりを持って確保できる。そのうえバイトの内容もやりがいがあり、毎日セクハラにため息をついていた日々が嘘のようだった。
上手くいくか不安だった家庭教師業も一ヶ月経つ頃にはすっかり慣れたし、教え子である高校生達との関係も良好である。
(いやー、降谷くん様様だ)
彼へのお礼は保留にされているが、今なら三回まわってワンとだって言える。
そんな12月頭。名前は見知らぬ学生に呼び出された。
(こういうのって、本当にあるんだ…!)
名前は心の中で感動していた。呼び出しの内容はいわゆる「あの人とどういう関係なの?」というやつだ。そしてその対象は降谷だった。
「ほ、本当に?本当にただの友達?」
「うん。別にお互い恋愛感情もないし、諸伏くん含めて仲のいい友達だよ」
「そうなんだ……よかった」
そう言って彼女はホッとしたように笑う。
「ごめんね、突然こんなこと聞いて」
「ううん、気になるよね」
「うん……そうなの。苗字さん美人だし、きっとそういうことも、」
あ、と名前が目を丸くした先で、大きな目から涙が零れ落ちた。
「ごっ、ごめんね。緊張してたから、気が緩んで」
そう言って涙を拭う手が震えている。名前はハンカチを差し出して、その華奢な背中を優しくさすった。
「あ、ありがと……」
「ううん」
涙がハンカチに吸い込まれていく様子を眺めながら、名前は心の中で嘆息した。
(そうだよなぁ……傍から見ると私たちってそんなもんなんだよな、きっと)
実際、自分が男だった頃も女友達なんていなかった。彼女か、それ以外か、その二種類だ。男女の友情なんて、本人たちは成立しているつもりでも周りからはそう見えないものなのかもしれない。
(このままじゃせっかくイケメンなのに彼女も作れないな)
名前は二人に聞かれたら確実に余計なお世話だと言われそうなことを考えつつ、そっと背中をさすり続けた。
***
名前はふと、自分に壁ドンをする体勢になっている男を見上げた。今日もおそろしく顔がいい。
「……ん?どうした?」
「いや、なんでも」
身長差を利用して鼻毛でも出てないか見てみるが、一本たりとも出ていない。悔しいが完璧だ。何もケアしてなさそうなのに肌ツヤもいい。
「……あんまり見ないでくれ」
ふいっと顔を逸らした降谷に「ごめんごめん」と笑いかける。
(こういうのも嫌なんだろうなぁ、ああいう子たちは)
二人がいるのは満員に近い電車の中だ。休日で空いているかと思いきや、部活の大会に向かうらしい高校生の集団と同乗することになり、否応なく降谷と密着しかけたところを彼の腕力で凌いでいる。
「次で降りるんだっけ」
「ああ」
今日は降谷に家庭教師のバイトを紹介してもらったお礼として、彼のリクエストである「二人でお出かけ(意訳)」ミッションをこなすための外出中だ。ちなみに諸伏にもお礼がしたいと言うと、彼がリクエストしたのは缶コーヒーだった。いい奴すぎる。
そして電車を降りた二人が向かったのは、オープンしたばかりだというバッティングセンターだった。
「ここ来てみたかったんだ」
「へー、面白そう。私バッティングセンター来たことない」
バットを握るのなんて最後にしたケンカ以来だ。我ながら不健全すぎる、と名前は心の中で苦笑した。
窓口でコインを購入し、隣同士のブースに入って機械にコインを投入する。
「球速どのくらいにすればいいの?」
「僕も初めてなんだが、とりあえず……」
小手調べと言わんばかりのトーンで降谷が選んだのは140km/hだった。えっそれ一番速いやつでは?
自分の球速を選ぶのを忘れてガン見する名前の目の前で、降谷は発射された豪速球を一発で打ち返した。スイングの風圧で名前の髪がふわっとなびく。
「マジで?」
「うん、割りといけそうだ」
灰青色の目が輝いている。この男こわい。
「私は……100km/hにしよう」
ソフトボール全国レベル、との注釈がある。とりあえずは挑戦だ。
バッターボックスに立ち、我流でバットを構える。少しして発射されたボールを目線で素早く追いかけながら、思いきりバットを振るった。
(喧嘩殺法ー!)
キンッという小気味のいい音とともに、芯を捉えたボールが真っ直ぐ前方のネットを揺らす。
「お」
「わ、これ気持ちいい!」
「やるな」
一ゲーム、コイン一枚で20球。たまにホームランを出しつつ熱中していれば、20球なんてあっという間だった。
「次は110km/hにしようかな」
「僕は変化球にしてみる」
「あ、それもいいなー」
あーだこーだ言いながら、結局一人100球は打った。体力オバケの降谷とは違い、普通の女子になってしまった名前はヘロヘロだ。
「……これ、絶対明日腕上がらない」
「明日すぐ筋肉痛が来ればいいな」
「大丈夫まだ若いから」
駅に向かう足取りも重い。平気そうな降谷を信じられないという表情で見つめながら、行きと同様に電車へと乗り込んだ。
「よかった。今度は空いてそう」
「ああ」
と思ったのも束の間、次の駅で見覚えのある高校生の集団が乗り込んできた。
(マジで!?)
なんというタイミングのよさ―――いや、悪さか。
全員が行き同様に大きなスポーツバッグを持っており、ぎゅうぎゅうと押し込まれる。それに耐えようと降谷がまた腕を突っ張ったが、さすがの彼も100球のバッティング後は万全とは言い難いようでカクンと肘が折れた。
「あっ」
「えっ」
むぎゅっと密着した体に、どちらからともなく声が漏れる。
「っ、悪い」
降谷は右肘と左手の平を突っ張って必死に距離を取ろうとしているが、いくら彼でも崩れた体勢では難しいようだ。
「ふ、降谷くん、力抜いていいよ。満員電車だし仕方ないって」
名前がフォローするように言うと、眼前の降谷が「マジかこいつ」という顔になった。イケメンの見下し顔迫力ある。
とはいえ力を入れていても体を離すには至らないようで、顔を向け合えば吐息がかかるほどの距離感だ。二人して顔を背けながら、ひたすら時が過ぎるのを待つ。
(わかってる、わかってるよ、こういうのがダメなんでしょ!?)
名前は心の中で、降谷に恋する世の女子たちに向けて謝罪した。
***
「どっと疲れた」
自宅マンションに戻った名前は、シャワーで汗を流してからベッドに倒れ込んだ。
なんにせよ、これで形式上は諸伏や降谷との間に貸し借りはない。
間近で見てしまった女の涙を思い出しながら、名前は長いため息をついた。
「……この辺が潮時ってことかな」
寂しいが仕方ない。名前はスマートフォンで求人情報を検索する。
(バイト増やせば忙しくても自然だし)
名前はそうやって、二人との距離を置くことに決めた。
友達であることには違いないが、二人との間には高く分厚い性別の壁がある。きっと、ほどほどの距離感は必要なんだろう。
(あーあ、せっかく楽しかったのにな)
男のままだったらよかったのに。でもそしたら二人に会えてないな。
どうにもならないことを考えながら、名前は目の前の画面をぼんやりと眺めていた。
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