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「いいですよ」

その答えに、電話の向こうで男が数秒沈黙した。

『……あ? 今なんて言った』
「だから、受けてもいいって言ったんです」
『どういう風の吹き回しだ?』

訝しげに問うジンに小さく笑う。

「服と靴、買ってもらっちゃったので。その分は働きます」

人に借りがあるというのはなんともいえない気持ち悪さがある。今回の仕事も相変わらずカルトのおつかいレベルだが、ナマエは今回限りという条件で受けようと考えてい。

『あれは……、まあいい。やるからには失敗は許さねぇぞ』
「言われなくとも。それと、これが終わったら今度こそ勧誘はおしまいにしてくださいね。本当に面倒臭いので」
『てめぇは相変わらず一言多い女だな』
「そのままお返しします」

通話を終えて、ナマエは"絶"の状態で自宅へと急ぐ。
そして帰宅早々、手に入れたばかりのフィギュアをいそいそとテレビ台に並べ始めたナマエを、諸伏が「ほっこり」という効果音がつきそうなほど優しい笑みで見守っていたのだった。




***




探り屋バーボンに与えられた指令は、とある犯罪組織から新薬の研究データを掠め取れというものだった。

指令を受け、バーボンはいつも通り慎重に、かつ迅速に事を進めた。
手始めにバーテンダーとして組織の末端構成員に接触し、酒の力を借りつつ巧みな言葉運びで研究所の所在地を特定する。その裏を取り終えたら、次は研究所のサンプル移送車のドライバーとして、そしてその次は研究所内の清掃員として内部に潜り込んだ。

結論、研究所入口のセキュリティは大した壁ではなかった。厄介なのは研究データが保管されていると思われる最下層への侵入方法だ。
指紋認証や虹彩認証などのバイオメトリクスならまだやりようはある。しかしその組織が選んだ警備システムはなんとも原始的で、だからこそ侵入者にとってはやりづらいことこの上ないものだった。

組織は海外から呼び寄せた退役軍人を常駐させ、警備に当たらせていたのだ。それも一人や二人ではない。フロアごとにチームで見張らせているようだった。
研究所内は非常用電源も各所に備えられているため、闇に乗じてというのも現実的ではない。空調から催眠ガスでも撒き散らしたいところだが、絶えず換気されていては効果も薄いだろう。

そこで頭数を揃えてほしいとベルモットに伝えたバーボンに、彼女からはその日のうちに是と返答があった。

そして決行当日。

「……一人、ですか?」

バーボンは聞き間違いであったことを祈りながら、助手席に座るベルモットへと問い返した。

「ええ。ジンの働きかけで優秀な矛が一人用意できたわ」

頭数を揃えろという日本語はこのブロンド女には正しく伝わらなかったのだろうか。舌打ちしたくなるのを辛うじて抑え、呆れたような笑みを貼り付けた。

「いくら優秀でも、一人では無駄死にするのが関の山では?」
「あら、彼女なら大丈夫だと思うけど。本人にも一人で十分と言われたもの」

(……また、"彼女"か)

ベルモットがその実力をこうも手放しに称賛する女が、二人もいるとは思えない。おそらく以前聞いた―――スコッチを殺したという女と同一人物だろう。

「勧誘に成功したんですか」
「残念ながら今回限りだそうよ」
「おや、ずいぶんと嫌われたものですね」

"あの方"の指令でおそらくジン自ら勧誘したのだろうが、その結果はどうやら芳しくないらしい。可笑しそうに笑うバーボンを、ベルモットは片眉を上げて睨みつけた。

「あなたもそのベビーフェイスで懐柔できるかどうか、試してみたらどうかしら」
「ご冗談を。話を聞くに、相当恐ろしい方のようですし」

組織に引き入れることも、処分することもできないなんて並大抵のことじゃない。よほどの大女か、それこそ元軍人か何かだろうか。それにしてもベルモットの信頼が尋常ではないが。

「……恐ろしくないから怖いのよ」
「え?」

ため息混じりの言葉が聞き取れず聞き返すが、ベルモットは「なんでもないわ」と肩を竦めた。




***




車を隠したバーボンは、黒ずくめの服装に加えて黒いキャップをかぶり、手袋を着けて物陰で待機していた。
左耳にはベルモットに渡されたインカムを装着している。彼女からの合図で中に入る手筈だが、矛として手配された例の"彼女"がすでに中にいるのかすらわからない。

『バーボン? "彼女"からの伝言よ。「これから始めるので、三分経ったら好きなタイミングでお入りください」だそうよ』
「三分?」

耳を疑ったバーボンだが、念のためスマートフォンで現在時刻を確認する。

「三分で中の制圧ができるとでも?」
『さあ…そういうことなんじゃない?』

これから始めるとは言うものの、バーボンの位置からはビルの入口が見えているし、少なくとも彼がここで待機し始めてからそこに入っていった者はいない。
ビルの内部も真っ暗に見えるが、地下は夜間も煌々と照明が点いているはずだ。

(一体どこから、どうやって)

『バーボン、三分経ったわよ』

インカムから聞こえた声にハッとする。沈みかけた思考を振り切るように短く息を吐き、バーボンは慎重に入口へと近付いた。

(! 開いてる)

セキュリティを解除するための用意もしてあったが、まるでそれを嘲笑うかのようにドアが少しだけ開いている。周囲に視線を走らせれば、防犯カメラやセンサーも軒並みダウンしているようだ。

(いつの間に? 誰も通らなかったはずだ)

そのまま中に侵入すると、24時間稼働しているはずのセキュリティゲートも沈黙していた。
エレベーターは動いているようだが、これには元々乗るつもりはない。その先の階段の常夜灯が、まるで地下へと誘っているようにも見えた。

階段を下りると、一階とは打って変わって煌々と明かりのついたフロアに到着する。案の定というべきか、階段を下りた先にある暗証番号付きのドアも開いているようだ。
身を隠しながら廊下の先を覗き込んで、バーボンは瞠目した。

(これは……!)

死屍累々、という言葉がこれほどまでに相応しい光景があっただろうか。
通路には武装した男たちが転々と倒れ込み、その傍らには何らかの方法で切断されたらしい銃器の残骸が無造作に転がっている。
近づいて確認すると誰一人として死んではいない。しかし外傷らしい外傷もなく、銃器が使用された痕跡もない。誰もが眠るようにしてその場に倒れ伏していた。

(存在を察知される前に昏倒させてる?この人数を相手に、そんなことが可能なのか)

慎重に歩を進め、さらに下層へと向かう。下のフロアも、そのさらに下のフロアも同様の状況だった。
侵入時から右手に拳銃を携えてはいるが、このまま行けば一度も引き金に手をかけないまま最下層へ辿り着けそうな雰囲気だ。

そしてその予想通り、バーボンはなんの障害にも出くわさないまま最下層へと到着してしまった。
持ち込んだUSBメモリに新薬のデータを全てコピーし、指令通りウィルスを仕込んで元データを破壊する。
気絶した男たちを再び跨ぎながら一階へと戻ってきたところで、彼はビルの入口に佇む人影に気付いた。

「……あなたは…」

こちらに背を向けて立っているのは、髪の長い女性のようだ。
辛うじて背が高いことくらいはわかるが、月明かりが逆光になって正確な髪色すらわからない。
バーボンの声に彼女がこちらを向いたようにも見えたが、その存在感は驚くほど希薄に思える。そしてよく見ようと目を細めたところで、瞬きの間に彼女はいなくなってしまった。

(消えた?)

『バーボン。無事に終わったようね』
「! ええ……指令通りに」

仕事は終わった。この上なくスムーズに、何一つ問題を起こさず終わったのだ。それなのにこの気持ち悪さはなんだ?
バーボンは晴れたはずの靄が視界の端に留まっているような、言い表しようのない後味の悪さを感じていた。


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