11
二人での暮らしが始まってもうすぐ一年が経とうという初冬の時期。
諸伏は目の前に座るナマエの姿に、奥歯をギリリと噛み締めて耐えていた。
(………く…ッ)
彼女がテーブルに差し出しているのは二枚のチケットだ。散歩中に商店街でもらってきたらしい。
「…やっぱり、ダメだよね」
そう言って肩を落とすナマエに効果音をつけるとしたら「シュン」だろうか。
長い睫毛が影を作り、形のいい眉が力なく垂れ下がっている。
(あ、ダメだ……かわいい)
諸伏はあっさり耐えるのを諦めた。
「そんなに行きたいのか?」
そう問いかけると、ナマエはゆっくり顔を上げてから視線を合わせ、「うん」と小さく頷いた。
「一人で行くのは、ちょっと恥ずかしくて…」
困ったように言うナマエの目元は照れのせいか少し赤い。そうなるのも無理はない。チケットにデカデカと印字されているのは「HUNTER×HUNTER展」の文字だった。
杯戸ショッピングモールの特設会場で、原画やネーム、等身大パネルなどの展示が行われるらしい。もちろん物販もある。
コンビニに一番くじが登場した頃に劇場版が公開されていたらしく、公開終了後も未だ続く盛り上がりを受けて開催されるそうだ。
「うーん……」
ナマエからの"お願い"はこれが初めてだった。
彼女の事情を知る唯一の人間として一緒に行ってやりたい気持ちはもちろんあるが、残念ながら自分は潜伏中の身。そう易々と外出はできない。
(いや、まあ、ヒゲを剃って眼鏡を掛ければ……それで帽子でもかぶれば行けないこともないか?)
悩む諸伏に「報酬も上乗せするし」と不安げに付け加えるナマエ。
「いや、それはいいんだけど」
与えられた報酬は全てタンス預金中なので余裕はある。それに彼女と一緒にいれば身の危険を感じる心配もない。
ただ未だ潜入中の幼馴染のことを思えば、生きていることが外部に漏れるのだけは避けたいところだった。
「……ごめん、無理言って。やっぱり、」
「待った」
「え?」
あれこれと考えていたのに、名残り惜しそうに自分の方へチケットを引き寄せる彼女の姿を見たら咄嗟に声が出た。
(何してんだオレ……いや、でもなあ)
一瞬躊躇ってから、開き直って「よし」と微笑んでみせる。
「髪切ったり染めたりしたいから、週末まで時間もらえないか?それ土曜日からだろ」
「うん」
「一回ちゃんと変装してみて、それで大丈夫そうだったら行こう」
そう言うと、ナマエの表情がぱあっと明るくなる。
「本当?」
「ああ、やるだけやってみるよ」
「ありがとう、ヒロ!」
初めて見る満面の笑みに、うーん可愛いと諸伏は唸った。
***
そして土曜日。ナマエと諸伏は杯戸ショッピングモールを訪れていた。
「うん、ヒロいい感じ。別人みたい」
「なんか若返った気分…」
諸伏は髪を短くして明るく染め、特徴的な目元を隠すよう黒縁の眼鏡をかけている。ヒゲも綺麗さっぱり剃り落としたため、その辺によくいる大学生のような風体だ。
展示会場に向かうと、すでにそこは多くの人でごった返していた。
順路に沿って進みながら、二人で展示物を食い入るように眺める。
「これ原画だって、すごいな」
「この人は?」
「それはレオリオ。キルアの友達だよ」
「へえ、ずいぶん歳の離れた友達だね」
「オレらより年下だぞ」
ナマエがいた時間軸では確かまだ十代のはず。それを伝えるとナマエは「嘘でしょ?」と珍しく目を丸くした。
その後、等身大パネルの展示コーナーでは、ソワソワした様子のナマエをイルミの隣に誘導して撮影してやった。嬉しそうにしていたので、どうやら正解だったらしい。
奥の大型スクリーンでは公開が終了した劇場版のトレーラーが流れていて、彼女は動くキルアたちをじっと眺めていた。
会えなくなった弟の姿に感傷に浸っているのかと思いきや、「キルア変化系なんだ、いいな」と真顔で呟くので反応に困ってしまった。
物販コーナーでは、金に物を言わせてゾルディック関連のグッズを買い漁ったナマエ。彼女は自宅をどうしたいのだろうか?と諸伏が思わず遠い目をしたのは内緒である。
完全に荷物持ちとなった諸伏がそれに気付いたのは、そろそろ昼食でも食べるかという時だった。
「なんだか騒がしいな」
展示会場はそうでもないが、下のフロアからはざわめきや微かな悲鳴が聞こえてくる。諸伏は思わず眉根が寄るのを感じた。
「外で何か爆発したみたい」
事もなげに言ったナマエに「えっ?」と振り返る。彼女の耳には慌てふためく人々の声が人よりよく聞こえているらしい。
「爆発って……」
警察官として現場の状況が気になるところだが、社会的に死んだ身としては目立つ行動を取るわけにもいかない。
「気になるの?」
「そりゃ、気にはなるけど」
彼女の世界では、この程度のトラブルは日常茶飯事だったのだろう。いつも通り落ち着いた様子のナマエが、諸伏の顔色を見て首を傾げた。
「見て来てあげよっか」
「え?」
それは意外過ぎる申し出だった。
「今日付き合ってもらったから、報酬上乗せの代わりでよければ」
報酬の上乗せを固辞した諸伏だったが、例によって彼女は支払うつもりでいたらしい。
それの代わりに現場の様子を見て来てくれるというのなら、諸伏にとっては願ってもない話だった。
「ありがとう。頼めるか」
相変わらず余裕そうな表情で微笑んだナマエが、一つ頷いて人混みに姿を消す。どうやって現場に向かうのかはわからないが、動けない自分は彼女からの連絡を待つほかない。
連絡に備えようとスマートフォンを取り出したところで、それがタイミングよく着信を告げた。
「早っ」
慌てて通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし」
『大観覧車の制御盤が爆発したんだって。ゴンドラが止まらなくなって、今観覧車に乗ってた客を警察官が避難させてる』
彼女は簡潔に状況を説明した。ピンポイントで制御盤が爆発したとなると、人為的なものと見て間違いないだろう。
「もう警察が到着してるんだな、よかった」
『ゴンドラの中にももう一つ爆弾があるみたい。今警察官が一人乗り込んでった』
「えっ」
通報を受けて現着したなら、おそらく刑事部の人間だろう。それが爆処を待たずゴンドラに乗り込んだ? 何を考えているんだ。
『松田って人だって』
伝えられた名前に、諸伏は息を呑んだ。
松田―――松田陣平。爆弾が設置されたゴンドラに躊躇わず乗り込める「松田」という男を、諸伏は他に知らなかった。
『……知り合い?』
「ああ、オレが思う通りの奴なら、警察学校時代の同期だよ」
『ふうん』
なぜ松田が現場にいるのかはわからないが、あの男なら爆弾にも容易に対処できるだろう。
諸伏がホッと息をつきかけたところで、ナマエの声色が変わった。
『ちょっと待って』
移動しているのか、風を切る音が短く鳴る。
少しして、電話越しに大声で叫んでいる女性の声が聞こえてきた。何を言っているのかまではわからない。しかしその悲痛な響きはどう考えてもただごとじゃない。
『ヒロ』
「どうした?」
聞こえる声はナマエにしては珍しく、少しだけ硬い。
『松田って人、死ぬ気みたい』
「………え?」
『もう時間はなさそう。どうする?』
彼女が何を言っているのか、いまいちわからなかった。それでも松田が命を懸けているらしいということだけはわかって、背筋に冷たいものが這うのを感じる。
「…どうって……」
『ヒロはどうしたい?』
どうしたいって、何を。
(どうにか、してくれるのか?)
完全に停止してしまった思考を無理矢理働かせて、諸伏は再び口を開いた。
「……オレにできることなら、なんでもする」
あいつを――松田を、助けてくれ。
そう言い切った諸伏の耳に微かな笑い声が届く。
『今夜はカニクリームコロッケね』
見返りとして最近お気に入りのメニューをリクエストして、彼女は電話を切った。
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