16


夜もすっかり更け、辺りを静寂が支配する。諸伏もすでに眠りについているらしく、彼の部屋からは物音一つ聞こえない。
風の音が微かに聞こえるだけの空間で、ナマエは小さく体を丸めていた。
彼女の腕に抱かれているのは先日手に入れたばかりのイルミのぬいぐるみだ。

目を伏せたナマエの脳裏には、何度も思い返した光景が浮かぶ。
車道を走行するトラック。路側帯の水溜まり。タイヤに踏みつけられて跳ねる泥水。彼女を庇うよう、自然な動作で前に出た男――

(うっ)

頬に熱が上るのを感じて、イルミの腹に顔をうずめる。

きっとそれはありふれた、どこでも起こり得る些細な出来事なのだろう。
しかし彼女にとって、それは特別な瞬間だったらしい。らしいというのは、彼女自身よくわかっていないからだ。

そもそも特殊な家庭環境もあり、ナマエは親をはじめ、誰かに守られた記憶がない。
それどころか哺乳瓶の頃から耐毒訓練が始まり、腰がすわる頃にはおもちゃ代わりのナイフを与えられていたらしい。初めて電気を浴びたのなんて、いつのことだったかもう思い出せない。
キルアのように6歳とまではいかないものの、8歳の誕生日には天空闘技場に無一文で放り込まれていたし、暗殺者として独り立ちしたのは10歳の時だ。

何度も死にかけたが、誰かに頼る選択肢なんてどこにもなかった。守られる自分を想像したこともない。
あの日も跳ねた泥水くらい、そのまま放っておかれても勝手に避けた。

それなのにまるで普通の女性のように守られてしまい、それに嬉しさを覚えてしまった自分が悔しくもあり、気恥ずかしくもあり……あとはまだ、よくわからない。

―――これで僕に恩でも売ったつもりですか

忌々しそうに吐き捨てる姿が思い浮かぶ。

(恩、かあ)

あの時はちょうど近くのビルの上を歩いていて、疲れた様子の彼に思わず手を貸してしまったのだが。

(見返り考えてなかったな)

これも彼女にとっては驚くべきことだった。リターンなしで動くなんて、家族以外では初めてかもしれない。

(でも怒らせた……)

恩なんて売ってないし、他意もない。
だから安心してほしいのだが、それを彼に伝えるすべもない。伝えるということはつまり彼の前に姿を表すということで、

(……うん、無理だな)

ナマエはイルミを抱え直し、頭のてっぺんまで毛布にもぐり込んだ。




***




「あっ、おい」

夏が過ぎ、秋も深まったある日。
背後からかかった声に、ナマエは自分だろうかと振り向いた。
そこに立っていたのは、黒いスーツに黒いサングラスをかけた長身の男だ。

「……あー」

見覚えがあるような、ないような。行儀悪く男を指差しながらナマエが頭を捻る。

「覚えてねーのかよ……」

サングラスを外しながらため息をついた男に、ようやくナマエも思い至った。この愛想のない童顔見たことある。

「えーっと、"松田"?」

確かヒロがそう呼んでいたはず。
急に呼び捨てにされた松田は呆れたような表情を浮かべた。

「松田陣平。陣平でいい」
「陣平ね、わかった」

じんぺー、と口の中で数回繰り返す。ナマエには松田よりこちらの方が呼びやすい。

「あの時は礼も言えなかったし、ちょうどいいわ。どっか入ろうぜ」
「え?だからお礼はいいよ」

ちゃんとカニクリームコロッケも食べたし、と伝えると松田は「またカニかよ」と半目になった。

「それに、もうすぐ一年経つし」
「……言っとくけど、別に探してたわけじゃねーぞ。見つけたら問答無用で礼言おうとは思ってたけど」

礼を言う側にしては態度がでかい。

「別にいいのに……」
「いーからいーから、飯くらい素直に奢られとけ」
「飯?」
「おー。腹減った」

確かに時間は昼時だ。平日だし、彼も今は休憩時間なのかもしれない。
ナマエが空腹を感じることはほとんどないが、そういう話になると途端に食べたくなってくるから不思議なものだ。

「わかった、行く」
「よし」

そう言うと松田は周囲に視線を巡らせて、「ここでいいか」とすぐ近くの喫茶店のドアを開けた。
ポアロというその喫茶店は、昼時ということもあって客入りもいい。明るい雰囲気の女性店員に案内されて、二人は一番奥のテーブル席に座った。

「お、ここフードメニュー多いじゃん。やった」

おしぼりで手を拭きながら、メニューを眺めた松田が目を輝かせる。彼はあれこれ悩んだ結果、結局カレーを注文し、ナマエはパスタを注文した。

「あの後大変だったんだぜ」
「ん?」
「上空で思いっきりゴンドラ爆発してんのに、俺がのこのこ歩いて現れたからよ。幽霊でも見るみてーな顔されて」
「ふふ、生きててよかったね」

まあな、と答える彼は嬉しいのかうんざりしているのかよくわからない顔をしている。

「んで、同期って誰なんだよ」
「え?」
「礼なら同期にって言ってただろ」
「ああ、会いたいの?」
「あ?あー、まあ、そういうことになるのか」

降谷も諸伏もどこで何してるかわかんねーし、やっぱ伊達か?と松田はブツブツ呟く。
どうやら大体の目星はついているらしいが、すでに諸伏の苗字を忘れているナマエはその中に「ヒロ」がいるのかどうかわからない。

「ちょっと待ってて」

スマートフォンを取り出し、常に自宅にいるはずの彼に電話をかける。
向かい側に座る松田はその様子をじっと見つめていた。

「あ、もしもし?今ね、陣平といるの」

電話の向こうで何かを落とすような音が聞こえる。それから諸伏が戸惑いがちに聞き返してきた。

「ん?うん、そう、松田。うん、それでね、陣平が"同期"にお礼を言いたいんだって」

うん、うん、と数回相槌を打ってから、松田に視線を向ける。

「無理だって」
「はあ?ちょっと貸せ」

松田がナマエからスマートフォンを奪い、「おいお前誰だ?」と通話口に問いかけた。

「チッ、切れてる」

眉根を寄せた松田が舌を打つ。
奪われる瞬間に通話を終了させたので、ディスプレイに表示されているのはただの待ち受け画面だ。

「残念だったね」
「くっそ、気持ちわりーな。モヤモヤする。このめんどくせー感じ、絶対伊達じゃねぇ」

降谷か諸伏だな。苛立たしげに呟く松田を見ながら、ナマエはヒロってどっちだったっけ、と呑気なことを考えていた。

そこに料理が運ばれてきて、ひとまず二人は腹を満たすことに集中する。
同期の正体がわからずイライラしているらしい松田は飲み物のようにカレーをかき込んでいた。

「……ゆっくり食べたら?」
「うるせーな」

あっという間に間食した松田が、今度はまだパスタを食べているナマエに矛先を向ける。

「で、あんたは何者なんだよ」

そういえば名乗っていなかったか。パスタを咀嚼しながらナマエは少し考える。
それから口の中のものをごくりと飲み込んで、「名前はナマエ=ゾルディック。こっちに来たのは二年前かな」とあっさり答えた。

松田は大きな目をさらに大きく見開いて、しばらく動きを止めた。

「……は…?…ゾル……?」

ナマエは水を一口飲み、またパスタをくるくるとフォークに巻きつける。
それを口に運びながら彼の様子を観察すると、どうやら器用にも硬直したまま考え込んでいるらしい。

ナマエは面倒だから名乗らないだけで、別に正体を隠したいわけではない。
松田は僅かながら彼女の能力に触れているし、まあいいかと思って名乗ったわけだが。

賑やかな昼時の店内で、二人の間にだけ妙な静けさが満ちる。

「……あー、っと」

癖のある髪をくしゃくしゃと掻きむしり、松田が言葉を探すようにして口を動かした。
それから少し細めた目で唯を見やり、行儀悪く指を差す。

「…ハンターハンター?」
「そうらしいね」
「念能力者……?」
「具現化系のね」
「……ゾルディック家の、長女?」
「ふふ…弟が4人と、妹が一人いるよ」

口元に手をやって微笑むナマエに、松田が指差していた手で顔を覆う。

「……………はあー!?」

手の下でどんな顔をしているのかはわからないが、すっかり混乱した様子の彼を見てナマエは可笑しそうに笑った。

しばらくして回復したらしい松田が、「じゃあ」と切り出す。

「俺がいるゴンドラまではどうやって?」
「普通に外側を上ってったけど」
「(普通じゃねーし)扉を外した方法は?」
「具現化したナイフを熱して焼き切ったの」
「……地面への着地方法は?」
「膝で衝撃を殺したよ」

あの高さで殺せんの…?とまた半目になる。しかし実際に人外じみた能力を経験してしまった彼の順応は早かった。

「プロハンターなんだっけ」
「うん」
「ハンターライセンス見せてくんねぇ?」
「別にいいよ」
「マジか!」

食事のお礼にと躊躇いなく取り出して見せたそれに、いつかの少年同様、彼もまた目を輝かせるのだった。


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