18


『ハァイ、バーボン。今すぐ来れるかしら』

ジンが面白いものを見せてくれるそうよ。

そうベルモットに誘われて向かったのは、組織が所有する研究所の一つだった。
入口の電子ロックを指示通りのパスコードで解除し、奥の階段で地下へと下りる。広々とした研究室に到着すると、そこにいたベルモットに声をかけた。

「ジンが僕にまで声をかけるなんて、何があったんですか?」
「あれよ」

彼女が顎の動きで指し示した方向を見ると、研究者と見られる男とジン、それから少し離れたところにウォッカが立っている。
そして彼らの向こうには―――

「……え?」

全面ガラス張りの箱状の空間には、ポツンと一つの椅子が置かれている。
そしてその肘掛けに金属の手枷で腕を固定され、肩から脇腹にかけてクロスするようにベルトで括りつけられているのは一人の女性だった。
頭部には大きな布袋がかけられ、まるで処刑を待つ死刑囚のような様相だ。

「ずいぶんと胸糞の悪い光景ですね。これは一体何を?」
「実験よ」
「実験?」

ベルモット自身、眉根を寄せてそれを見つめている。彼女にとっても楽しいものではないのだろう。

「組織が開発する新薬の性能実験に加えて、あの体の"耐久性"を調べてるの」
「…それのどこが面白いことなのか、理解に苦しみますが」

言葉通りの面白いことを期待していたわけではないが、こんな惨いものを見せられるとは思わなかった。
ベルモットはため息をつき、「言ったのはジンよ」と返す。

「彼、ずっと上機嫌なの。あなたにまで見せつけたいなんて、よっぽどお気に入りなのね」
「お気に入り、ですか」
「ええ。でもあなたも気にしていたし、ちょうどいいじゃない」

何が言いたいのかわからず、バーボンは無言で先を促した。

「あれが"彼女"よ」

その言葉に目を見開くと同時に、バチバチッと大きな音が鳴り響く。
ハッとしてそちらに視線を向けると、椅子に括りつけられた"彼女"の体から青白い光が迸るのがわかった。どうやら強力な電気を浴びせられているらしい。

固定されて動かせない上体に反し、黒いワンピースから覗く白い脚がビクリと震える。力の入った足先が床から浮き、指先がぎゅっと握り込まれるのがここからでもよく見えた。断続的に体がビクビク震えるのに合わせて、足先もまた小さく跳ねる。
それは彼女の置かれた状況さえ考えなければ、いっそ扇情的な光景ですらあった。

幼馴染を殺した女が、今自分の目の前で拷問めいた実験を受けている。バーボンはそれを、ただ言葉もなく見つめていた。




***




ナマエがジンに連れられてやってきたのは、前回と同じバーだった。

「年始はやっぱり仕事もお休みですか?」
「その俗っぽい言い方をやめろ」

そう言って彼が口に運ぶのはショットグラスに注がれたウイスキーだ。ナマエの手元にも、前回同様ギムレットの入ったカクテルグラスがある。

「仕事に俗とか俗じゃないとかあります?仕事は仕事ですよ」
「フン…暗殺もか」
「もちろん、ただの仕事です」

むしろ、ゾルディックほどビジネスライクに暗殺を請け負う存在は他にないのでは。
ナマエは手元のグラスを一気に呷って空にし、再びギムレットを注文した。酔えない上に酒の種類に興味はないので、先ほどからずっとギムレット一択だ。

「快楽殺人者なら、そろそろ禁断症状でも出てるかと思ったが」
「残念ながら仕事以外では殺しませんよ、基本的には」
「クク……基本的には、か」

意に沿わないことがあればその限りではない、と暗に伝えたつもりだったが、彼は正確に読み取ったらしい。
これで勧誘がなくなればいいのにとナマエは思うが、正直期待はできないだろう。彼らのしつこさはもう十分にわかっていた。

「あんまりしつこくして怒らせたら…とか考えません?普通」
「あいにく恐怖とかいう感情には疎くてな」

でしょうね、と嘆息して、新しく作られたギムレットを口に運ぶ。

(あ)

気付いた時には遅かった。無臭だからわかなかったというのは言い訳だ。

(盛られた)

バーテンもグルか。
グラスを持つ手から力が抜け、床に落ちたグラスがガシャンと耳障りな音を立てる。

(睡眠薬……ま、いいか)

ぐらりと体が傾いたのを、隣の男が思いのほか優しく抱き留めるのを感じて、ナマエは瞼を閉じた。




***




目が覚めた時、そこは走行中の車の後部座席だった。手足が手錠と鉄製の鎖で厳重に拘束され、ご丁寧にもシートベルトが装着されている。

「さっきの、なんていう薬ですか?」
「!」

運転席のジンが動揺したのがわかる。

「……おい…象でも三日は起きない濃度のはずだが」
「へえ、それはすごい」

その三日で何をするつもりだったのか。
バキバキと大きな音を立てて、鎖と手錠を破壊する。運転席からは大きめの舌打ちが聞こえた。

「化け物か」
「その化け物を怒らせなくてよかったですね」
「あ?」

シートベルトを外し、シート越しにジンを抱き締めるようにして身を乗り出す。両手の爪を尖らせて、手のひらを彼の胸元に当てた。

「睡眠薬だったので放っときましたけど……致死性があれば、あなたも殺してました」

ジンは黙ったまま運転を続けるが、ナマエの手のひらには彼の鼓動が速まったのが伝わってきた。
くす、と小さく笑って続ける。

「譲歩してあげてもいいですよ」
「……譲歩だ?」
「仕事内容と報酬をこちらで指定させてください」
「…チッ、言ってみろ」

ものすごく嫌そうに促すジンに、ナマエは要望を伝えた。

「報酬はさっきの薬をありったけ。そうしたら、24時間私の体で好きに実験させてあげます」

幼い頃から耐毒訓練を受けてきたナマエは、大抵の毒に耐性がある。
そのナマエに効く薬があるというのは、それが毒でなくとも脅威だ。薬を手に入れて早々に耐性をつけておきたい。

伝えた内容をどう捉えたのか、ジンが沈黙する。
ナマエは胸元に添えた手に少し力を籠めた。

「生きたまま心臓を抜き取ってあげたら、少しは怖いと思ってくれます?」

囁くようなその言葉に、ジンはまた荒々しく舌を打った。




***




「おい、どうだ」

手元の操作盤で電気を止めたジンが、女性に問いかける。
答えられるわけがないだろう、とバーボンが眉を寄せて見つめていると、女性の手元からバキッという場違いな音が鳴った。
続けざまにもう一度鳴り、手枷の残骸が床に落ちる。
胸元のベルトもブチブチとむしり取って、女性がぺたりと床に立ち上がった。

『そりゃ、痛いですよ』

布袋とスピーカーを隔てて聞こえてきたのは、ギリギリ聞き取れる程度に不明瞭な声だった。

『筋肉が硬直して体も跳ねますし。まあ、でも大丈夫です』
「ハッ、化け物が」
『嬉しそうに言わないでくれます?せっかくの服がゴワゴワですよ』
「んなもん、いくらでも買ってやる」
『そういう問題じゃないんですけど…』

はあ、とくぐもったため息が聞こえる。

『そもそも投薬実験のつもりで来たのに、耐久テストってどういうことですか』
「お前の体に注射針が通らないのが悪い」
『目隠しされたら普通自衛しますよ。言ってくれればちゃんと"絶"…刺さりますから』
「どれだけ毒が欲しいんだ、お前は」

ククッと笑うジンは確かに上機嫌だ。
光が可視化するほどの電気を浴びた女性は、驚くことになんのダメージも受けていないように見える。しかも注射針が通らないとはどういうことだ。
目の前でテンポよく交わされる信じがたい内容の会話に、バーボンはただ立ち尽くしていた。

『ここなら耐性のない毒もあると思って……あれ?』
「あ?」
『人、増えました?』

そう言って首を傾げた女性に、バーボンがピクリと反応する。
振り向いたジンもようやく彼の存在に気付いたのか、「ああ、幹部の一人だ」と答えた。視線で促され、バーボンが前へ進み出る。

『仲間に紹介って…やめてくださいよ。入るつもりはありませんからね』
「コードネームはギムレットでどうだ」
『やめてくださいってば』

軽口を叩き合う二人を横目に、バーボンは操作盤に二つあるマイクのもう一方を起動した。

「こんにちは」

その瞬間、女性の肩がピクッと跳ねる。

「一度ご一緒したこともありますが、こうして話すのは初めてですね」

彼女は布袋の端を持ち、ちゃんとかぶっているか確認するようにきゅっと下げた。

「僕はバーボン。よろしくお願いします」
『………バーボン』

ジンと話す時とは違う、ずいぶんとか細い声だ。警戒されているのだろうか。

「ええ。貴方は、えーと…ギムレット、でいいんでしょうか」

まずは気安い印象を与えた方がいいだろうと軽い調子で問いかけると、彼女は逡巡するように沈黙する。
ワンピースをぎゅっと握り締める動作が、先ほどまで電気ショックに耐えていた人物とは思えないほど頼りない。

『……どう呼んでも構いませんけど、組織には入りませんから』

聞こえてきたのは、突き放すような言葉だった。

(…この女が、ヒロを)

女の立ち姿を見つめながら、バーボンは操作盤に置いた手を固く握り締める。

彼は知らない。
布袋の下でこれ以上ないほど顔を紅潮させた彼女が、緊張のあまり「ナマエです」の一言が言えず諦めたことを。


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