19
組織において、今後ナマエが便宜的にギムレットと呼ばれることが、半ば強引に決定した。
その後、彼女のいる空間には望み通り三種類の毒ガスが順番に噴霧されたが、そのどれも彼女に効くことはなかった。
そして24時間の実験を受け終えたナマエは大量の薬瓶を持って帰宅したが、当然ながら伊達巻きは全て諸伏の胃に収まっていて、彼女は連絡なしに不在にしたことを猛省するのだった。
「ギムレット、お疲れ様です」
声をかけてきたバーボンを、ナマエは一瞥する。
組織の製薬・製毒技術の高さに目をつけたナマエは、報酬になり得る薬や毒がある場合に限って仕事の依頼を受ける取引を交わした。
そしてそのパートナーとなるのは、専らこの男。バーボンだ。
「……お疲れ様です」
彼の情報収集能力とナマエの突破力でバランスは取れているのかもしれないが、彼女にはある悩みがあった。
「相変わらず恐ろしい速さですね。三十人以上いたはずなんですが……。得体が知れなさすぎて、いっそ気持ち悪いですね」
これである。
ふふ、と人の好さそうな微笑みを浮かべたまま毒を吐かれ、ナマエの口元が引き攣った。
もっともその口元はマスクで隠れているし、目元まで覆う大きなフードで顔はほとんど見えていないのだが。
赤くなってしまう顔を隠すための苦肉の策だったはずが、今は引き攣る顔を隠すための必需品と化していた。
(これ、絶対嫌われてる……)
研究所ではもう少し当たりが柔らかかった気がしたが、あれは他の幹部がいたからだろうか。
もちろん二人になってからも最初のうちは普通だった。しかし回数を重ねるうちにどんどん毒が出るようになり、最近のナマエは常に針の筵のような気分でいる。
「それにその存在感の薄さ、どうにかなりません?いることを忘れそうになります」
「……はあ、すみません」
"絶"をしたからといって透明人間になるわけではない。ナマエを認識している状態での"絶"なら、存在感を希薄に感じる程度だ。
あえてそうすることでバーボンに自分の印象が残りにくくしているのだが、彼にはそれも気に食わないらしい。
(嫌いな人間の気配なんて、普通感じたくないものじゃないの?よくわかんないな)
とはいえ、彼女に"絶"を解くつもりはない。極力顔や声が彼の記憶に残らないようにして、その怒りが自然と風化するのを待つつもりでいる。
(……そんな次元の話じゃないような気もしてきたけど)
「聞いてます?」
「え」
「考え事とはいいご身分ですね。ジンじゃないのが不満ですか?」
なんでジン?と声に出しかけて、そういえば研究所でジンとペラペラ話しているのを見ていたんだったな、と思い至る。
自分ともペラペラ話して欲しいのだろうか?いや確実にそれはないな。ただの嫌味だ。
「別にそういうつもりじゃ…」
「まあいいです。僕はデータの受け渡し場所に向かいますので、これで」
白い手袋をした手でUSBメモリを見せた彼が、そのまま背を向ける。
振り向きもせずに立ち去っていくのをしばらく眺めてから、ナマエはマスクの中で細く長いため息をついた。
***
くるくるとパスタをフォークに巻きながら、ナマエはまた小さくため息をつく。
バーボンとの仕事で心にダメージを受けた翌日は、ポアロで一人の時間を楽しむというのが彼女のルーティンと化していた。
ポアロは以前、松田と一緒に来た喫茶店だ。
初めてバーボンに毒を吐かれた日に、ちょうどモーニングの時間帯だったこの店にふらっと入ったのがルーティンの始まりだった。
(ヒロのご飯も美味しいんだけど…)
組織との取引は、現職の警察官である諸伏には話せない。
仕事を受けるのもたまになので、彼も夜の散歩が増えた程度にしか思っていないだろう。
彼に組織の話ができない以上、ナマエは一人でストレスを解消する時間が欲しかった。ちなみにお気に入りは特製カラスミパスタだ。
「ごちそうさまでした」
「いつもありがとうございます!またのお越しをお待ちしてますね」
女性店員の明るい笑顔も癒しだ。
まさか自分が人の笑顔に癒しを求めるようになるとは、もはや末期かもしれない。
心の中でハハ、と渇いた笑みを浮かべながら歩いていると、視界の端に黒いバンが停まっているのが見えた。そしてそこに小さな女の子が連れ込まれ、すぐに車が発進する。
(誘拐かあ)
白昼堂々よくやる、とナマエはそれを気にも留めなかった。どうもこの界隈は犯罪が多い。
しかしそれを追うように現れた高校生と思しき少年に、ナマエは既視感を覚えた。
青い制服を着た彼は通りかかったタクシーを停め、バンを追うよう伝えながら乗り込む。
(どこで会ったんだっけ?)
走り去るタクシーを眺めながら首を傾げていたナマエだったが、ポアロで癒されたばかりで本来の彼女らしさを失っていたのかもしれない。彼女は無意識に、二台の車が消えた方へと地面を蹴っていた。
***
黒いバンが廃工場の敷地内に入っていくのを認めて、新一はタクシーを降りた。
手元の携帯は警察に繋がったままだ。現在地を伝えて電話を切り、少し悩んでから彼も敷地内へと足を踏み入れた。
(警察が到着する前に危害を加えられないとも限らねーしな…)
とはいえ彼は丸腰だ。慎重に歩を進め、工場の入口から中を覗き込む。
そこには手足を縛られて口にガムテープを貼られた少女と、怪しげな三人の男たちがいた。男の一人が携帯で話しているのを聞く限り、身代金目的の誘拐のようだが。
(まあ、ちょっと待てば警察も到着するし、大丈夫か)
自分の出番はないだろう、と思ったところで、男の一人が少女に煙草の火を近づけた。
(!おいおい、それは…)
今のところ当てる気はないようでヘラヘラ笑っているが、少女はすっかり怯えきっている。どうにかしてやりたいところだが、と考えを巡らせたところで、ガッと口元を抑えられて思考が途切れた。
「!」
シー、と言い聞かせるような呼気が耳元をくすぐり、新一は横目でそちらを見た。
(あっ)
それは一年前、父親と行った宝石店で目にした女性だった。確か名前はナマエだったか。
「静かに、じっとしてて」と小さな呟きが聞こえた後、体が解放される。ハッとした新一が振り向くが、そこにもう彼女の姿はない。
そして視線を工場の中に戻して、彼は目を見張った。
「……え?」
そこには、三人の男が音もなく倒れ伏している。そして少女の姿がない。一体どこに。
「はい、これでいい?」
背後から聞こえた声に再び振り向くと、いつの間に戻ったのかナマエがまたそこにいた。
しかもその腕の中には目を白黒させている少女がいる。手足の拘束もガムテープも外されているようだ。一体いつの間に。
「え?あの、」
「警察ももう来るんでしょ?じゃあ後はお願いね」
少女を新一に渡し、そのまま背を向けてしまうのを見て新一は咄嗟に引き留めた。
「あ、あの、ナマエさん!」
振り向いたナマエが、新一の顔をよく見てから「あれ?」と首を傾げる。
「一番くじの子かと思ったけど…違ったね。君は?」
(一番くじ?)
「あ、俺は工藤新一といいます。以前宝石店で男性が倒れた時に見かけて」
「ああ、あの時店にいたんだ」
「はい。あなたは一体、」
何者なんだと問いかけようとしたところで、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「ふふ、時間切れ。じゃあね、新一くん」
再び背を向けて、ナマエがその場を立ち去っていく。新一はもう一度名を呼んだが、今度は振り向かなかった。
それはなんとも短い邂逅だった。
(ダークヒーローか)
ふと父親の言葉が思い出されて、新一はもしかしたらあの言葉は的を射ていたのかもしれない、とぼんやり考える。
殺し屋というよりは、こっちの方がしっくりきそうだ。
一方のナマエは人目につかないようビルからビルへと跳躍しながら、くしゃりと前髪を握り締めた。
「暗殺者がヒーロー気取り?何考えてんだろ…全く」
どうにもらしくないことをしてしまった。暗殺から離れてしばらく経つからだろうか。
「本当、似合わない」
自嘲気味の呟きは、雲一つない晴天に吸い込まれて消えた。
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