02


「お邪魔します」
「どうぞ。あー、そこのソファにでも座って」

ありがとうございます、とナマエが素直に座るのを見ながら、諸伏は軽く部屋を片付ける。横目で様子を窺うと、彼女は部屋を見回すでもなく伏し目がちに大人しく座っていた。

混じり気のない黒く長い髪に、豊かな睫毛に縁取られた形のいい目、主張控えめな赤い唇。前髪は目にかからないギリギリのところで自然に流されていて、アーモンド型の目の印象を引き立てている。まぁつまり、どこをどう見てもただの美人だということだ。

とても自分を一瞬で死の恐怖に陥れた人物とは思えないが、男の家で全く警戒する様子のない彼女を見れば、先ほどの出来事も夢ではなかったのだろうと思う。

そして諸伏がそんな危険な彼女を自宅に招いたのには、訳があった。

「ああ、これだ」

本棚から取り出した一冊の本をナマエに渡すと、彼女はそれを受け取って小首を傾げた。

「これは?」

どうやら文字が読めないらしい。諸伏は表紙に書かれた英字の中央を指差して、そこに書かれたカタカナを読み上げる。

「ハンターハンター。人気の漫画だよ」

それは日本の少年少女たちが、一度は夢中になっただろう少年漫画だ。

「これに、ゾルディック家という暗殺一家が登場する」
「……へえ?」

ようやく興味を示したらしい彼女が、漫画をパラパラとめくって「あ、キルア」と呟いた。

「主人公はゴン=フリークス。キルア=ゾルディックはその親友だ」
「フリークス……ああ、ジンさんの息子かな」

確かに似てる、と呟きながらも彼女に驚いた様子は見受けられない。本当に驚いていないのか、感情を隠すのが上手いのかは諸伏にはわからなかった。
ただし彼女が本当に想像通りの人物だとしたら、その真意を読み取れなかったとしても不思議ではない。

「ゾルディック家の所在地はパドキア共和国のククルーマウンテン。当主はシルバで、ペットの名前はミケ。……合ってるか?」

少年時代からもう何度も読み返した漫画だ。すっかり暗記してしまった情報を並べれば、顔を上げたナマエが小さな微笑みを見せた。

「まあ……隠してませんから」

はじめは漫画のキャラクター名を名乗るおかしな女だと思おうとした。しかし警視庁公安部所属の潜入捜査官として日々鍛えてきた自分が、全く歯が立たないと思わされた人物だ。むしろ本物でなくては困る。色々な意味で。

諸伏は再び立ち上がって本棚に向かい、中身を確認しながらさらに二冊を取り出した。

「ナマエ=ゾルディックというキャラクターも作中に二回登場する。まぁ、どっちも本人は出てこないんだけど」

初出のシーンを見せてやれば、彼女が身を乗り出してそれを覗き込む。そこには会話するイルミとヒソカ、それから髪の長い女性と思われるシルエットが描かれていた。

「イルミだ。ここにはなんて書いてあるんですか?」

諸伏はイルミとヒソカの会話を読み上げる。
そのシーンはヒソカがイルミに向かって「君、お姉さんもいるんだって?♥」と問いかけるところから始まり、イルミが姉について端的に答えるというものだった。

イルミは姉と自分が年子だということと、10代でライセンスを取得したプロの財宝ハンターで、実家には滅多に帰ってこないということをヒソカに説明する。
「姉さんと戦いたいの?ヒソカみたいな男は嫌いだろうから、多分捕まえられないと思うけど」と話すイルミに、ヒソカは「……◆」で返していた。

ふふ、と笑うナマエに、諸伏は次の一冊を開いて見せる。

「あ、今度はミルキだ」

でっぷりとした体躯でスナック菓子を汚くむさぼる男の姿に、ナマエの頬がまた少し緩む。
紙面ではコフーコフーと独特の呼吸を繰り返しながら、苛立っている様子のミルキがパソコンのモニターを睨みつけている。

(そうだ、このセリフは……)

読み上げるのに少し躊躇する。しかし白黒で描かれた弟の姿をじっと見つめるナマエに、今更止められるはずもなく。

「………"最近コスプレイヤーの質が落ちたな…脱げばいいってもんじゃないんだよ。チッ、姉貴がいれば一回二千万でなんでも着てくれるのに"」

思わず声のボリュームが落ちてしまったが、一応弟のセリフだからかナマエが不快に思う様子はなかった。安心した。

その後、ハンターハンターについて簡単な説明を終えた諸伏は、そこに登場する人物や地域はどれもここには存在しないと告げた。
ナマエが全く別の世界に来てしまった可能性を示すと、彼女もそれは考えていたようで驚かない。
自分の生活能力によほどの自信があるのか、無戸籍の一文無しということについても「なんとかなるでしょう」と楽観的だ。

ちなみにイルミと年子だという彼女は、25歳の諸伏と同い年だった。

「作中で二年以上の時間が経過してるはずだけど…君にとってのイルミが24歳だってことは、君がいたのは結構前半の方なのかな。ヨークシンで旅団が暴れたのは知ってるか?」
「居合わせたわけではないですが、クロロから除念師を知らないかと連絡はありました」

クロロと知り合いなんだ…とまた一つ新たな事実を知る。

作中でも「ナマエ=ゾルディック」の存在は謎だらけで、いつ登場するのか、はたまたその存在こそ新たな伏線なのかと様々な考察が繰り広げられている。
そんな謎多き存在が目の前にいると思うと、諸伏はどこか浮ついた気持ちになった。

「グリードアイランドは?」
「プレイしましたよ」
「お、そうなんだ」

さらに聞くとキメラ=アントの存在は知らないらしい。なるほど、その辺りの時間軸か、と諸伏は納得する。

「ああ、そうだ。同い年だし敬語はいらないよ。むしろオレの方が憧れの存在に会ったっていう感じで恐れ多いし」

浮ついた気持ちのままそう言ってしまってから、諸伏は(気安かったか?)と我に返った。どうか怒らせていませんように、と恐る恐る彼女の様子を窺えば、ナマエは特に表情を変えないまま「そう?ありがとう」と軽く返す。再び安心した。

「色々とありがとう、スコッチ。情報料、すぐには払えないけど必ず用意するから」
「いや、いいよそれは。それより生活していけるのか?」

通貨も違うし、ゾルディックといえば一人殺して何億、あるいは数十億というレベルの恐ろしい資産家だ。生活レベルも自分とは雲泥の差だろう。右も左もわからない世界でどう生きていくつもりなのか。

「それは本当になんとかなるの。…ああ、そうだ」
「ん?」
「ここでの身分証明には、どういうものが必要なの?」

確かに、そういった最低限の知識くらいは備えておくべきだろう。そう思った諸伏は身分証明書の種類や生活に使うだろうおもなサービスなど、思いつく限りの情報を与えた。

「ふうん…なるほど、ありがとう。じゃあ私は行くね」
「えっ?」

彼女はあっさり立ち上がる。どうやらナマエにとって自分はもう用済みらしい。そのまま振り返りもせず玄関に向かうナマエに、諸伏は焦った。

(いや、いやいやいや、ダメだろこのまま行かせたら)

本物のナマエ=ゾルディックだとわかった以上、警察官として彼女を見過ごすわけにはいかない。彼女は暗殺者だ。放っておけば依頼が入り次第人を殺すに違いない。
たとえ実力で到底敵わない相手だとしても、せめてここに留まらせなくては。

「待ってくれ、ナマエ。……その、えっと、君さえよければここで一緒に暮らさないか」

呼び止めた諸伏に、ナマエが足を止めて振り返る。

「事情をわかってる人間がいた方が何かと楽だろ?オレも君の一ファンとして助けになりたいし」

じっとこちらを見ていたナマエだったが、やがて表情を変えずに口を開いた。

「…体はよく鍛えられているけど、筋肉のつき方が綺麗すぎる。実戦で自然と鍛えられたというより、トレーニングによるところが大きそう」
「え?」
「軍人というよりは……警察官かな?」
「!」

彼女はふわりと無害そうな微笑みを浮かべて、小さな子供に言い聞かせるような優しい口調で続けた。

「スコッチ。あなたに理由をあげるね」
「……理由?」

ずっと見ていたくなるほど穏やかな表情なのに、諸伏の背筋には自然と冷や汗が伝う。
これは、多分やばい。

「引き留めようとしたけど、敵いませんでした。そう言い訳ができるように……追えない理由を」

その言葉を脳が理解するより早く、諸伏は意識を失った。


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