03


この世界に来て一ヶ月ほど。
ナマエはクラシカルな黒い車に乗り込もうとしている長髪の男を見つけると、音もなくその背後に立った。

「こんばんは」
「!」

男が咄嗟に振り向こうとするのを、肩に添えた手の力だけで押さえる。

「てめぇ……」
「先日は急に現れて、急に消えてすみませんでした」
「あ、アンタ、この前の!?」

運転席側からサングラスの男が回り込もうとしているのを見て、「動いたら殺しますよ」とだけ言う。男は何もできずに固まった。

「…てめぇ、何者だ」
「暗殺を生業にしています。先の件は不可抗力なので…別にあなた達がターゲットだったわけではありません」

よければどうぞ、と背後から名刺を差し出すと、男が舌打ちと共にそれを受け取った。
「ナマエ」と覚えたてのカタカナで印字されているそれには、これまた買いたてのスマートフォンの番号が添えられている。
こちらでは別の意味で有名らしいゾルディックの姓は、名刺には印字されていない。

「報酬が折り合えば引き受けます」
「…俺達のことはどこで知った」
「何も知りません。特有の気配がある方々にお配りしています」

男がまた一つ、舌打ちを零す。

「お二人のお名前は?」
「……ジン。あいつはウォッカだ」
「あ、兄貴…」

存外素直に名乗った男に、サングラスの男が動揺したように呟いた。

(カイトみたいな髪して性格は正反対だし、名前はジン……これまた正反対)

人知れず、心の中で可笑しそうに笑う。

「ジンとウォッカですね、覚えました」

では、失礼します。そう言ってゆっくり体を離し、背を向けて悠々と歩き出す。背後でまた舌打ちが聞こえたが、引き留められも追われもしない。荒々しいように見えて賢明な男だ。

(さて、報酬は折り合うかな)

問題はそこだった。すでに数件の依頼が舞い込んだナマエだったが、どこも10歳の弟に任せるような依頼よりさらに安い金額しか提示してこない。ゼロの数が絶対的に違う。
祖父や父と同じく割りに合わない仕事はしない主義のナマエは、数百万程度のはした金では動かない。

(暗殺者には暮らしにくい世界だ)

こうして名刺を配ってはいるが、この世界での暗殺稼業は厳しいかもしれない――と半ば諦め気味のナマエだった。




***




『はぁ?もう一度言ってみろ』
「報酬が安すぎてお話になりません」

数日後、早速電話してきたジンからの依頼も案の定あっさり決裂した。
一言一句違わず繰り返したナマエに、もはや聞き慣れてしまった舌打ちが聞こえる。

『これでも破格の待遇だ』
「それでですか?子供のお小遣いにもなりませんよ。周りにその程度の殺し屋しかいないか、よほど易しい仕事しかないかのどちらかですね」
『…言ってくれるじゃねぇか』

ジンが低い声で呟くのを、ナマエは自宅マンションのソファに寝転がりながら聞いていた。
もう切っていいかな、とぼんやり考えていると、ジンが思い出したように言う。

『一つ、面倒な仕事を回してやる』

この男はどうしてこんなに上からなんだろう。疑問に思いながらも大人しく先を促せば、ジンは殺しではなく拷問の仕事だと告げた。
報酬は先ほど断ったばかりの暗殺依頼と同額。どうしても吐かせたい情報があるらしく、相手をうっかり殺すわけにもいかず苦戦しているのだという。もちろんプライドの高そうな彼は「苦戦している」とは言わなかったが。

額と内容は、相変わらず子供のお稽古用レベルだ。ミルキですら五歳になる前にはこなしていただろう、とナマエは小さく溜息をついた。

「…わかりました。今から向かいます」

場所を聞いて通話を終える。
報酬は折り合わないが、暗殺でないならそこまでこだわらない。一度仕事風景を見せて、次回以降の報酬アップを狙うのも手だろう。といっても、この相手がいきなり億超えの提示をしてくれるとは思えないが。

ナマエは寝転んでいた体を起こすと、服を着替えてマンションを後にした。




***




「こんにちは、ナマエです」
「…ベルモットよ」

見覚えのあるブロンドの女性に案内されて向かったのは、前回邂逅した時とは比べ物にならないほど清潔で新しいビルだ。
その地下には研究所のような白一色の空間が広がっており、等間隔にいくつものドアが並んでいる。
ベルモットは一つのドアの前で立ち止まり、「ここよ」と短く言った。

「ジンから聞いているとは思うけど、死なせたらアウト。生きたまま対象の在りかを聞き出してちょうだい」
「わかりました」
「手ぶらでいいのかしら」

何も持たずに入室しようとしたナマエに、ベルモットが訝しげに問いかける。

「ええ、道具は必要ありません」

小さく微笑んでドアを開けたナマエは、中の惨状に思わず眉を顰めた。
部屋の中に唯一置かれた椅子には男が括り付けられていて、すでに衣類は原型がわからないほどにボロボロ、全身の至るところから出血している。試行錯誤したのか天井にまで血痕が及んでいるようだ。

「…下手くそ」

思わず漏れた言葉は、監視カメラで様子を窺っているはずのジンにも届いただろう。
ナマエはフーッフーッと荒い呼吸を繰り返す男を見つめ、ふわりと優しく微笑んだ。

「続きを担当します、ナマエといいます。なるべく早く終わらせましょうね」

長い髪を一つにまとめ、男に近づく。

「苦痛は短時間で済むのが一番です。長く続けばそれだけお互い消耗しますし、痛みにも慣れてしまいますから」

ちょっとお借りしますね、とナマエは椅子の肘置きに固定された男の指先を持ち上げる。爪はすでに全て剥がされているようだ。
それを確認したナマエは、ブドウでも潰すかのような気軽さで小指の先をプチンと圧し潰した。

「―――――ッッッ!!」

男が固定された体をビクンと跳ねさせる。

「ッあ゛ああああぁ」

壮絶な痛みに悲鳴を上げる姿を気にも留めず、続いて薬指の先をプチンと潰す。

「ぎッ、い、ぃぃいい」
「血を流させるのも消耗させるだけなので、刃物は使いません」

それはまるで、監視カメラ越しに拷問のいろはを教えているかのような語り口だった。
プチン、プチンと順に潰しながら、ナマエは講釈する。

「指を使うのは効果的ですね、十本で終わりだと勝手に期待してくれますから。でも爪を剥ぐのは安直すぎて経験済みの可能性もあります」

十本目を潰す頃には、男は声一つ上げなくなっていた。
その両手は指先だけが機械でプレスされたかのように薄く平たい。

「ふふ、お疲れさまです」

ナマエが楽しげに笑いかけるが、男は力なく項垂れたまま反応しない。
彼女は別に、拷問を楽しんでいるわけでもなんでもない。ただ、恐怖心の煽り方を知っているだけだった。

「じゃあ……」

ナマエの手が再び男の指先を滑ると、弛緩していた体がビクリと硬直した。

「次は、ここです」

小指の第三間接を、クルミでも割るかのようにパキンと砕く。
声もなく全身をビクビクと痙攣させた男は、ナマエの指先が薬指に移る直前で口を開いた。




***




入室時と変わらない状態で出てきたナマエに、ベルモットは厚く膨らんだ封筒を手渡した。
それを受け取った彼女が「わ、現金なんだ」と目を瞬かせて、それから礼儀正しく頭を下げて立ち去っていく。
その背中が見えなくなるまで見送って、ベルモットは知らずに詰めていた息を吐き出した。

監視カメラの映像はすべて録画されていて、"あの方"の元にも送られる。
慎重居士の"あの方"のことだ。危険すぎる彼女を内に囲っておくべく、組織のネームドとして勧誘することだろう。確かにあれだけの化け物が野放しになっている現状には空恐ろしいものがある。

(できれば、すんなり入ってほしいところね……)

穏やかそうな女性に見えて、あれでジンをも手玉に取る圧倒的な強者だ。あんなのと争いたくはない。
ベルモットは取り出した煙草に火をつけ、体の震えを誤魔化すように紫煙を燻らせた。


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