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臭い息を吐きながら近づいてくる顔を手のひらで止めると、男が不満げな声を漏らした。

「……あのね、いいかい。ジンからは「好きにしろ」と言われてるんだ。抵抗しても後でお叱りを受けるのは君なんだよ?」

怖いだろう?と言い聞かせるように優しく囁かれる。
それを聞いたナマエが手のひらをどけると、男はそれでいいと言わんばかりに彼女の首筋に顔をうずめた。

(…好きにしろって、それ私にも言ってるんじゃないの?)

ジンのことだ。ここでナマエが男の指を折っても、腕を千切っても、あるいは頭を潰してしまったとしても大きめの舌打ち一つで諦めてくれるだろう。

(でも……)

そうすれば、彼女と一緒に来たバーボンのメンツは丸潰れだ。ネームドの幹部にもかかわらずパートナー一人御しきれないと揶揄され、ジンからは「ざまぁみろ」とでも嘲笑われることだろう。
ジンはバーボンのことをよく思っていないらしいし、もしかしたらその展開こそが彼の望みなのかもしれない。

(そうなるとなおさら手が出せないな)

本当はワンピースを肩からずり下ろしにかかっているこの手を今すぐにでもへし折りたい。もしくは小さな針でも具現化して、"隠"で隠してから爪と肉の間に刺し込みたい。

「往生際が悪いな」

え、と男の様子を窺うと、どうやらナマエが無意識のうちに男の胸を手で押していたらしい。危ない。気を付けないと知らない間に殺してしまいそうだ。
手から力を抜くと、それを強く引かれてソファに押し倒された。

「大丈夫。優しくするからね……」

鼻息荒く、男の顔が降ってくる。
咄嗟に顔を背けて避けるが、男はそれでも構わないようで首筋や鎖骨に唇を押し付けられた。

(きもちわる……)

ナマエはなんとか殺意を抑えようと思考を巡らせる。そうだ、この男のことをミケだと思うのはどうだろう。ミケ、小さくなったね。

(いや無理無理)

そもそもミケはすり寄っても来ないし、撫でられて喜ぶこともない。従順すぎて逆に感情を表に出さない健気すぎる生き物だ。こんな醜い生き物と重ねるなんてミケに失礼すぎる。

男の手がタイトスカートをずり上げるように進み、太ももを撫でまわし始めた。

(あーあー、じゃああれだ。面白い見た目のやつ)

次に思い浮かべたのは採掘作業で秘境に入った時に出会った魔獣だ。体長と同じくらいの長さの舌を持っていて、あの大きな舌で全身をべろりと舐め上げられた時は鳥肌が立ったっけ。

(あ、いやダメだ)

そうだ咄嗟のことに思わず舌を捩じ切って、それから全身を細かく引き裂いてしまったんだった。殺意を抑えようとして殺意を思い出してどうする。

男の手のひらがさらに上へと上がってくるのを感じて、その不快感に思わず「う」と小さく声が漏れた。

ふと、コンコン、とノックの音が聞こえて男が跳ね起きる。

「なっ、なんだ!」

ドアが開くと、そこに立っていたのはバーボンだった。

「お楽しみのところすみません。実はジンから招集がかかりまして…。残念ですが、僕たちはこれで失礼します」
「…そんな……!」

呆然とした様子の男を後目に、つかつかと入室してきたバーボンがナマエの手をグイッと引いて体を起こさせる。

「帰りますよ」

欲しい情報は手に入ったのだろう。ナマエは彼に手を引かれながら、服の乱れを直す間もなく邸宅を後にした。




***




静まり返った夜道を歩くナマエの視線の先には、バーボンの背中がある。
彼女の手を掴んだまま早足で進む彼に逆らわないようにしながら、ナマエは小走りでその後を追いかけていた。

用は済んだのだし、きっと彼は自分の車に向かっているのだろう。
自宅から歩きで来たナマエはそろそろ別れなければ。そう思って声をかけようとしたところで、それより先にバーボンが足を止めた。
振り向いた彼にいつもの笑みはない。

「…服くらい直したらどうです」

(ええ…?)

直す暇も与えてくれなかったのはそちらでは、と思いつつ、ナマエは掴まれていない方の手でワンピースの乱れを直した。

「ノックする前に、少し様子を窺わせてもらいました」
「……はあ」
「どうして全く抵抗しなかったんです?」

月明かりに照らされた灰青色の瞳が、訝しげに細められる。

「どうしてって、そういう役割だったんでしょう?」

機嫌を取れと言ったのも、助けを求めるなと言ったのもバーボンだ。それから、男の相手をしろと言い残してその場を離れたのも。

「あなたは組織の人間じゃない。そんな指示、聞かずに逃げるなり殺すなりできたはずです」
「それは考えましたけど…。でもそうしたらあなたが不利になるだけだし」
「はあ?」

正直に答えたナマエに、バーボンが形のいい眉を跳ね上げた。

「僕のために耐えたとでも言うんですか?冗談も大概にしてください」

どうやら逆鱗に触れたようだ、とナマエが口を噤む。

「パートナーのために恥辱にも耐えるとは、とても殊勝な心掛けですが」

彼は吐き捨てるように続けた。

「つまりあなたにとって僕は、守ってあげなければ何もできない格下の存在でしかないということだ」
「……そんなこと」
「ないとでも?そうでもなければ、あなたほどの人があんな屈辱に耐えるいわれはないでしょう」

どうやらバーボンは、ナマエが彼をナメているか、あるいはまた恩を着せているとでも思っているらしい。これにはさすがの彼女もムッとした。

「そりゃ私だって、初めてがアレは嫌でしたけど」
「え?」
「それでも組んだ以上はパートナーの顔に泥を塗らないようにって、そう考えるのはおかしなことですか?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんですか」
「初めてって……」

引っかかったのはそこなのか。
先ほどまでの鋭い顔つきが嘘のように、バーボンはどこか呆けた表情を浮かべている。

「経験ありませんけど、いけません?」
「え?いえ……」

幼少時代から暗殺者として生きてきたナマエは、恋愛なんてしたこともない。ハンターとして家の外に出るのだって、依頼は必ず受けるという条件でようやく許されたレベルだ。
今までそれを気にしたこともなかったが、そんなぽかんとした表情を浮かべられたら、まるで悪いことだと言われているような気にもなる。

しばらくの間呆気に取られていたバーボンが、やがて項垂れるようにして長いため息を吐いた。

「……ギムレット」
「はい?」
「すみませんでした」

え?とナマエが目を瞬かせる。頭を上げて再び目線を合わせたバーボンは、申し訳なさそうに眉尻を下げていた。

「あなたに酷なことを」
「え、いや、別にそこまでは思ってないですけど」
「いえ、でも元々は最後まで止めるつもりもなかったわけですし」

そうなんだ。それは確かに酷だな、とナマエは納得した。
多分今自分の口元は引き攣っていることだろう。暗くてよかった。

どうやら彼はナマエが早々にあの男を退けるか、それでなくとも"こういう仕事"に慣れているのなら問題ないと思っていたようだ。
なのに、抵抗しないくせに嫌そうな顔を隠そうともしないナマエを見て思わず割って入ったらしい。

「まあ…お互い仕事なので。気にしないでください」

ナマエは取り決めた報酬以上にジンからぶんどってやろうと決めて、とりあえずこの場はこれで収めようとバーボンに笑いかける。
じゃあ、と足を一歩引くが、掴まれたままの手が外れない。

「え?」
「…わかりました。今日のところはもう遅いですし、せめて送らせてください」

一体どんな心境の変化だ。今日よりもっと遅い時間でも送られたことなんてない。
しかもいくら彼でも、潜伏中の諸伏がいるマンションに近付けるわけにはいかなかった。

「大丈夫です。歩いて帰れます」
「おや、せっかくの厚意を無下にするつもりですか?」

反省してるのか刺々しいのかどっちかにしてほしい。

結局断り切れずに彼の愛車に乗り込んだナマエは、マンションから少し離れた場所まで送ってもらうことにした。
もちろん自宅を知らせないことにも一悶着あり、この人好きだけど面倒臭い―――とナマエが思ったのは言うまでもない。


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