23
12月24日。
その日、ナマエは朝から組織の所有する研究所にいた。
「じゃあ、次はもう少し量を増やすわよ」
「了解」
「にしても本当になんの変化もないのね…。信じられないわ」
「うん、この薬も耐性があるみたい」
彼女に投与されているのは組織が開発する新薬だ。
開発チームの責任者であるシェリーが彼女の臨床試験を担当していたが、どうもこの薬すら彼女には効かないようだった。
「一月に試したっていう毒ガスも、三種類とも効かなかったのよね」
「耐性のない成分なら普通に効くはずだけど…運がよかったかな」
「今のところ効いたのは新開発の睡眠薬だけ……本当、末恐ろしいわ」
バインダーの書類をぺらりとめくりながら、シェリーがため息をつく。
ギムレットと呼ばれるこの女性で新薬の臨床試験を行うよう指示があった時は、どうなることかと思ったが。まさか死なせてしまうどころか全く効かないとは驚きである。
投与後は必ず血液検査をしているが、ビックリするほど健康体だ。
「そういえば、これが終わったらカプセルをいくつか渡すように言われてるけど」
「うん、そういう取引なの」
「取引ね……」
ギムレットのことはよく知らないが、ジンと取引をするとは只者ではない。
「あなた、コードネーム持ちだけど……本当に組織の人間なの?」
彼女からは組織の構成員特有の嫌な気配がしない。むしろ体質のことさえ除けば、ごく普通の穏やかな女性に見えた。
「ううん、違うよ」
「え?」
「報酬が折り合った時だけ仕事の依頼を受けてるの。コードネームはジンが勝手に決めただけ」
「……そう」
そんな立場が許されるなんて、彼女は一体何者なのか。
気にならないわけではなかったが、知りすぎるのも危険な気がして相槌を打つに留めた。
「シェリー、だっけ」
「ええ」
「あなたこそ、こんな場所似合わないと思うけど」
微笑みながら言われた台詞に、シェリーは咄嗟に返す言葉が出てこなかった。
一拍置いて、動揺を押し隠すように視線を逸らす。
「……そんなことないわよ」
「そう?ふふ…余計なことだったかな」
ごめんね、とギムレットはまた穏やかに笑う。得体の知れない相手のはずなのに、その表情が一瞬姉とかぶった気がしてシェリーは戸惑った。
「…採血の準備をしてくるわ」
取り繕うようにその場を離れる彼女の背中に、「よろしくね」と落ち着いたトーンの声がかかる。
その優しい声色には、まるで全てを見透かしているかのような響きがあった。
***
帰宅して夕食を取ったナマエは、入手した毒薬を仕舞おうと自室のキャビネットの引き出しを開ける。
それから少し考えて、「食後に一回一錠」くらいの軽いノリでそれを一つ飲み込んだ。
臨床試験では少量ずつの投与だったため、一つ丸ごと飲んだ場合の反応が見たかった。
(まああれだけやって効かなかったんだから、効かないんだろうな)
カプセルの入ったケースを引き出しに仕舞い、別の引き出しから諸伏へのクリスマスプレゼントを取り出す。
それを渡すためにリビングに戻ろうとして、ドアノブに手が触れる直前、ナマエは異変に気付いた。
「……あれ?」
それは最初、小さな違和感だった。
しかし次第にそれが表出するにつれて、ナマエは珍しく目を見開いた。
(何これ)
鼓動が早まり、突然強く打ち付ける。心音が耳のすぐそばで聞こえるような錯覚を覚える頃には、体からシュウシュウと湯気が上がり始めていた。
長年に渡る耐毒訓練で大抵の症状は経験してきたナマエだったが、こんな反応は初めてだ。
生じる痛みも、苦しみも耐えられる。それでも、徐々に低くなる視界だけはどうしようもない。
(え、もしかしてヤバい?)
残念ながら、自分の持つ能力でこの症状に対抗し得る手段が思いつかない。
このまま消滅するのかとぼんやり考え始めたところで、視界の低下が唐突に止まった。
「あ……」
体を見下ろすと、着ていた服がダボダボに弛んで手足を覆い隠している。
袖を無理矢理捲り上げてみれば、明らかに小さく柔らかそうな手のひらが現れた。
もはや鏡を見なくても、自分がどんな状態になっているのかは一目瞭然だ。
「ヒロー」
そのままの状態で諸伏を呼んでみれば、リビングから「んー?」と聞き返す声が聞こえる。
「ちょっと助けてー」
なんだなんだと足音が近づいてきて、ドアのすぐ向こうから「開けていいのか?」と問いかけられた。
「うん、お願い」
「わかった。ていうかナマエ、声がいつもより高―――」
ドアが開き、半端な状態でピタリと止まる。いつもよりかなり大きく見える諸伏と視線が交錯して、その目が大きく見開かれるのが見えた。
「え?」
彼から見て、今の自分は何歳くらいだろう。
そんなことを呑気に考えながら、ナマエは彼に向かって両手を伸ばした。
「抱っこ」
見開かれていたつり目がちの目元が、さらにくわっと開かれる。
「えっ、……えっ!?ナマエ!?」
「うん。こんなことになっちゃった」
このまま歩けば服がずり落ちそうだ。そう考えて抱っこを求めたのだが、諸伏はそれどころではなさそうだった。
半端な位置で止まっていたドアがバーンと開き、彼がヨロヨロと入室してくる。
「ちょっ……ええ…?何があったんだ?」
「もらいものの毒薬飲んだらこんなことに」
「そんなの飲んじゃいけません!」
ていうかもらいものの毒薬って何!と諸伏は頭を抱えた。
「少量なら大丈夫だったんだけどなあ、どんな作用だろう…」
彼の動揺を気にも留めず、ナマエはマイペースに考え込んでいる。
「今、私何歳くらいに見える?」
「え、ええー……オレ周りに子供がいないから微妙だけど、7歳とか8歳とか……小学校低学年くらいかな」
「ふーん」
あ、と思い出したように声を上げたナマエが、諸伏にそれを差し出した。
「ヒロ、メリークリスマス」
松田と一緒に選んだクリスマスプレゼントである。
諸伏は綺麗にラッピングされたそれを目を丸くして見つめてから、信じられないという表情で受け取った。
「え、ナマエがオレに…!?」
「うん。いつもありがとうね」
「うわ、マジか!めちゃくちゃ嬉しいよ、ありがとう」
「どういたしまして」
ふふ、とナマエが微笑む。
穏やかな空気が二人を包みかけて、諸伏はハッと我に返った。
「…いや、違う!」
「え?」
「嬉しいんだけど、嬉しいんだけど……!」
それどころじゃなくないか!?
プレゼントを両手で大切そうに抱えたまま、諸伏は咆哮した。
***
結局大急ぎで諸伏が子供服を注文し、それが届くまでナマエはTシャツ一枚というなんとも言えない格好で過ごすことになった。
体が縮むという思いもよらない症状にシェリーの顔が脳裏に浮かんだナマエだったが、彼女に報告するにはジンを介さなければならない。それは正直面倒臭いし、そこまでの義理はないだろうと報告は諦めた。
そして翌々日、注文していた子供服が届く頃。なんとも呆気なく、ナマエの体は元に戻ったのである。
「結局なんだったんだ…?」
「謎だね。薬に耐性をつけるにしても、これを何度も繰り返すのはちょっと面倒臭いな」
「オレの心臓も持たない」
「ふふっ、まあ縮んでも一日二日で戻るってわかったし……保留でいいかな」
ナマエはそう言って、眺めていたカプセルをケースに戻し、キャビネットの引き出しに仕舞い直す。
ジンはこれを「痕跡の残らない毒薬」だと言っていたし、体が縮むというのは組織にとってもイレギュラーな症状だろう。
それならこれは、ナマエ以外の人間にとっては正しく毒薬であるはずだ。
「ヒロは飲まないようにね」
「いや、飲まないから」
可笑しそうにクスクス笑いながら、ナマエが引き出しを閉める。
彼女を幼児化させたそれがAPTX4869と名付けられ、顔見知りの高校生探偵を、そしてシェリーをも幼児化させることになろうとは、彼女はまだ知る由もない。
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