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「今日は時間が押していますから、少し急ぎでお願いできますか」
スマートフォンで時間を確認しながら淡々というバーボンに、ナマエは「了解」と短く返す。急げと言うなら急いであげよう。
「一分で終わらせます」
そう思って告げた言葉だったが、なぜか彼からは舌打ちが聞こえる。
(え、ただ無茶ぶりしただけ?)
ナマエはマスクの下で口元を引き攣らせながら地面を蹴った。
"絶"をしたままのため、バーボンからは暗闇に消えたように見えたことだろう。
トットッと軽快な足取りでビルの外壁を駆け上がり、屋上へ到達する。
屋上のドアに取り付けられたセキュリティシステムを無効化して侵入し、あとはひたすら全フロアの人間を昏倒させていく。
こちらの人間は気配を絶つのが下手なので、"円"をせずとも居場所を知るのは簡単だ。
背後を取って頸動脈に手刀を叩き込むか、すれ違いざまに胴体を殴りつけるだけで意識は容易に刈り取れる。ただし力加減を誤ると簡単に死んでしまうので、そこに慣れるまでは殺すより大変だった。
一階まで降りてきて、正面入口のセキュリティを解除する。
バーボンのもとへ戻って「終わりました」と声をかければ、彼がため息をつくのがわかった。
「まさか本当に一分で終わらせるとは……感心より呆れが勝りますね」
「それ、褒めてます?」
「なわけないでしょう。気味悪がってるんですよ」
わかってはいたが褒めてはくれないらしい。
「ここからは僕一人で十分なので、お帰りいただいて大丈夫です」
手袋を着けながら言うバーボンは取り付く島もない。
時間的にもそろそろ空が白み始める頃だ。なるほど、これからビルに侵入しようという彼が急ぐのも無理はない。
ナマエは彼に「お先に失礼します」とだけ声をかけ、その場を離れた。
ナマエの仕事が早すぎるせいか、バーボンが冷たすぎるせいか、二人で仕事をしても会っている時間は正味十分にも満たない。
その短時間に彼から受けるストレスと、彼に会えたという喜び。そのバランスの取り方が未だに見当もつかない程度には、ナマエの恋愛偏差値に変動はなかった。
***
フードを取ってマスクを外し、散歩気分で人通りの少ない早朝の街を歩く。
東の空はすでに白み始めていて、薄明るくなった辺りには冬のキンとした空気が漂っていた。
(バーボン、もう終わったかな)
一人残してきた彼の姿を思い浮かべる。
彼の仕事ぶりを侮っているわけではない。気になるのは彼のオーバーワークぶりだ。
探り屋として一人で動くことも多い彼は、ナマエとの仕事以外にも忙しくしているのだろう。
本人はなんてことのない顔をしているが、いつもどこか疲れているのがナマエにはわかっていた。
(でも心配したら怒られそう……)
心配なんかしたら、それこそ余計なお世話だと言わんばかりに嫌味が飛んできそうだ。
顔色が悪い時に何度か栄養ドリンクを差し入れたことはあるが、実は怒られないかと内心ビクビクである。
こういう時相談できる相手がほしいが、相手が相手なだけに誰にも言えないというのが初心者には辛いところだった。
(ポアロのモーニングにもまだ早すぎるし、一回帰ろうかな)
ストレスはポアロのコーヒーで癒すに限る。
モーニングの時間まで自宅で時間を潰そうと足に力を籠めたところで、ナマエはそれに気付いた。
彼女のいる歩道に向かって猛スピードで突っ込んでくる一台の車。
人よりいいナマエの動体視力が、運転席で眠るドライバーの姿を捉えていた。―――居眠り運転だ。
馬鹿正直に付き合ってやる必要はないと避けようとしたナマエだったが、背後の脇道から二人の男が出てきているのも気配でわかっている。
避けたら男たちに車が突っ込むし、かといって力任せに車を受け止めれば衝撃で車は大破し、中のドライバーは無事では済まないだろう。"纏"をしているナマエは電信柱より硬いのだ。
瞬きより短い時間で思考を巡らせたナマエは、突っ込んでくる車に両手を差し出した。
そしてそれが車体に触れる刹那、ほんの僅かに後方に跳躍する。そして着地しながら衝撃を殺し、両手で車を食い止めた。それでもなお進もうとする車に、手で押さえている部分がベコッと凹む。
「……なっ!?」
「え!?」
背後から男たちの驚く気配がする。
「あんた、大丈夫か!」
「私は大丈夫。早く車を止めてください」
柔軟に受け止めたせいでドライバーにあまり衝撃が伝わらず、眠りこけた男によって未だアクセルが踏み込まれ続けていた。
「チッ、わかった!」
背後から飛び出した男が運転席のドアを開ける。
「だ、伊達さん!」
「お前はその人を!」
「はっ、はい!わかりました!」
車はそれからすぐに動きを止めた。手を離したナマエがその場を離れようとすると、細身の男が慌てたように声をかけてくる。
「あの、大丈夫ですか!?お怪我とか…」
「大丈夫です。頑丈なので」
「ええ…!?」
「それより急いでいるので、もう行きます」
その言葉にさらに慌てた男が、懐を探るために視線を落とした。
「あの、僕警察官で、お話を―――あれ?」
警察手帳を手に取って視線を上げた時、すでにそこにナマエの姿はない。
「えっ、あれ?」
キョロキョロと辺りを見回すが見つけられず、高木は「伊達さん!」とバディに駆け寄るのだった。
***
「ただいま」
朝日が昇ったばかりの早朝。
帰宅したナマエに、朝食の仕込みをしていた諸伏が「おかえり」と返した。
「散歩か?相変わらず薄着だなー」
見てるだけで寒い、と笑う諸伏だったが、彼女の様子に首を傾げる。
「ナマエ?」
「……え?」
「どうした?ボーっとして」
リビングに入ったところで上着も脱がず佇んでいるナマエに、諸伏は思わず近づいた。
「何かあったのか?」
「んー……」
ようやく動き出したナマエが、緩慢な動作で上着を脱ぐ。
そのままソファにぽすんと腰掛けて、彼女は先ほどあったことを諸伏に話した。
「居眠り運転の車を?ナマエが?」
「うん……やっぱり変だよね。自分でもそう思う」
「あっ、いや、変っていうか…」
ううん、とナマエが首を振る。
「自覚はあるの。いつもなら自分が避けて終わり……それで車が誰に突っ込もうが、誰が死のうが気にならないはずなのに。……暗殺者がヒーロー気取りなんて笑えないよね」
「ナマエ」
諸伏はソファの前に跪いて、俯きがちに話すナマエを見上げた。
「ナマエが戸惑うのもわかる。今までの生き方とはまるで違うことをしたんだから」
「……うん」
「でもナマエのおかげで車のドライバーも、歩道の二人も助かった。オレはそれをすごいと思うし、嬉しいよ」
「嬉しい?」
首を傾げるナマエに、諸伏は頷く。
「うん。ナマエがそうやって周りに優しくしたり、守ったりする姿を見るのが嬉しいんだ。オレも松田もナマエに命を救われてるし、オレにとってナマエはとっくにヒーローだよ」
ヒーロー、と音もなく繰り返して、ナマエはゆっくりと目を伏せた。
そしてまたゆっくりと瞼を上げて、諸伏の目をじっと見つめる。静けさを湛えた黒い瞳は澄んでいるようにも、底なし沼のようにも見えた。
「…ヒロは私のこと、ちょっと誤解してると思う」
「誤解?」
「気まぐれに人を助けようが、本質は変わらない」
感情の読めない瞳で見つめられて、諸伏は息を呑んだ。
「私ね、今ジンと取引をしているの」
報酬次第で組織の仕事を手伝ってる。
短く告げた彼女だったが、その内容は諸伏を絶望させるには十分な昏さを孕んでいた。
「好きな人も組織の幹部。コードネームは……ヒロには言えないけど」
そう言ってふわりと微笑むナマエは、いつも通りの穏やかな彼女だ。
言葉の意味さえ考えなければ、思わず笑い返したくなるような温かみすらある。
「生き方を変えたいと思ってるわけじゃないし、やっぱりこれが私なんだと思う。……話、聞いてくれてありがとう」
ソファから立ち上がった彼女が、自室に向かう。そしてその途中で「ああ」と振り返った。
「ヒロのことは言わないから、安心してね」
柔らかく微笑んで、彼女がドアの向こうへと消える。
しばらくそのままの体勢でいた諸伏だったが、やがて長いため息をついて前髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「あ゙―――」
事態は深刻だ。彼女は思ったより深いところで組織と繋がっているらしい。
ただ、ゾルディックとしてビジネスに徹する彼女が組織の思想に傾倒する心配はない。
問題は"好きな人"の存在だ。初めて人を好きになった彼女が、その気持ちにどう突き動かされるかまでは予測がつかない。
―――ナマエがもし、組織の味方をしたら。
そんな"もしも"、考えたくもなかった。
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