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「ただいまー」

小学校から毛利探偵事務所へと帰ったコナンは、携帯を開いて届いたばかりのメールを読み上げた。

「遅くなりそうなのでポアロでご飯を食べて待っていてね……か」

メールは蘭からだった。部活だろうか。
確か今日は珍しく依頼が入ったとかで、小五郎も帰りが遅いはずだ。

(いやー、おっちゃん一人で大丈夫かねぇ……)

コナンもついていきたかったが、小学生として過ごしている以上、平日の昼間は身動きが取れない。

ランドセルを片付け、こんな時のために与えられているお小遣いと、買ったばかりのミステリー小説を持って事務所を出る。
夕食にはまだ早いが、本を読みながら過ごせばあっという間だろう。コナンは軽い足取りで階段を下り、階下のポアロへと向かった。

高校生探偵であった工藤新一が、黒ずくめの男たちに飲まされた怪しげな薬で幼児化してしまったのはごく最近のことだ。
現在は組織の情報を得るために毛利探偵事務所に転がり込み、居候の江戸川コナンとして暮らしている。

「あ、コナンくんいらっしゃい!」

ポアロの看板娘、榎本梓がコナンを笑顔で迎え入れる。
今回のようなことは初めてではないため、彼女は特に驚く様子もなくコナンをカウンターへと案内した。

「まだ夕方だけど、今日はどうするの?とりあえずオレンジジュース?」
「うん!ご飯も食べていくから、それまで本読んでるね」

そう言って小学一年生にはいささか重いハードカバーの本をドンと置く。

「さすがコナンくん、難しいの読むわね」
「えへへ」

ジュース持ってくるね、と離れていく梓をなんとなく眺めてから、コナンはいつもの癖で店内を見渡した。

(あっ)

奥のテーブル席でぼんやりとコーヒーカップを傾けているのは、見覚えのある女性だった。
去年新一の目の前で誘拐犯を気絶させ、被害者の少女を瞬時に助け出したあの―――ナマエという名前の女性だ。
さらに彼が中学生の頃、宝石店強盗を未遂に防いだと父親が推測した人物でもある。

運ばれてきたジュースを飲みながら、本を読んでいるフリをしつつ横目で彼女を観察する。
服装はシンプルなパンツスタイル。長い黒髪は相変わらずで、作り物のように整った容貌も二年前から全く変わらないように見える。
体つきは細身ながらも女性らしく、大の男たちを一瞬で昏倒させたとは思えない。

メールがよく来るのか、テーブルに置かれたスマートフォンのランプが頻繁に点滅する。
彼女はコーヒーを飲んでメールを返して、なんとも穏やかなひと時を過ごしていた。

(こうやって見ると普通の人だよなぁ)

コーヒーを飲んだ後は口元がふっと緩むし、ポアロのコーヒーを気に入っているのがよくわかる。
メールを読みながら時折微笑むこともあり、そうすると纏う雰囲気が一層柔らかくなった。
ただしコナン自身、可憐な見た目で実はめちゃくちゃ強いという女性を知っているので、外見だけでは判断材料にならない。

(まあ、あの人なら近づいておいて損はないだろ)

現状を考えると、強くて頼りになる大人は何人いたっていい。それに彼女の正体を知りたいという純粋な興味もある。
コナンは背の高いカウンターチェアを飛び降りて、ナマエのもとへと向かった。

「お姉さん、こんにちは!」

子供らしさを意識した高い声で呼びかけると、彼女が視線を上げる。

「? こんにちは」
「お姉さんって、もしかしてナマエさん?」
「そうだけど、知り合いだったかな」

きょとん、と目を瞬かせるナマエに、コナンは「ううん」と首を振る。

「新一兄ちゃんから聞いたんだよ!ボク、新一兄ちゃんとは遠い親戚なんだ」
「しんいち……ああ、工藤新一くん?」
「うん!ボクは江戸川コナン、よろしくね」

そう言って右手を差し出すと、彼女はそれを握り返してくれた。

(特にタコはないか……何か格闘技でもやってると思ったけど)

傷一つないなめらかな手で、一体どうやって男たちを伸したというのか。

「ねえ、ナマエさんってすーっごく強いんでしょ?」
「ん?普通だよ」
「(嘘つけ…)仮面ヤイバーみたいに強いって新一兄ちゃんが言ってたもん!ボク、ナマエさんとお友達になりたいなあ〜」

すっかり慣れてしまったぶりっ子口調で言うと、ナマエは目を丸くして「ともだち」と繰り返した。

「うーん」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……」

少し考えてから、彼女は再び口を開く。

「無条件で助け合うとか、困ってたら手を貸すとか、そういう縛りのない"お友達"ならいいよ」
「え」

ふわりと微笑みながら吐かれた言葉に、コナンの思考が一瞬止まった。
つまり見返りを求めない清い友人関係はお呼びでないということだろうか。この人、小学一年生になんてこと言うんだ?

「う、うん……それでいいよ」
「そう?じゃあよろしくね」

こうしてコナンとナマエは友達になった。…のだが、釈然としないのはなぜだろうか。

(この人、実は結構やべー人?)

ハハ、と半目で乾いた笑いを浮かべながら、コナンは失礼なことを考えていた。




***




その日は朝から雨が降っていた。
ナマエは雨の日が嫌いではない。雨は匂いや音を消し、血を洗い流す。暗殺に不慣れな子供の頃は、雨によく助けられたものだ。

ただし傘に打ち付ける音が邪魔になるし、片手が使えなくなるので、彼女があちらの世界で傘を差すことはまずなかった。
そんな彼女が素直に傘を差して歩いているのは、クリスマスプレゼントのお礼に諸伏がくれた傘がお気に入りだからだ

シンプルなライラックカラーの傘は、雨に濡れることで濃い色の花柄が浮かび上がる。初めてそれを目にした時は、上手くできているものだと感心したのを覚えている。

バーボンに指定された場所に向かうため、家を早めに出て夜の街をのんびり歩く。
なんとなく習慣でポアロの近くを通って、角を曲がった彼女がそれに気付いた。

身の丈に合わない白衣に隠れた小さな人影。雨の中倒れているのは、茶髪の少女だった。
夜闇に浮かび上がる白衣の白を見つめながら、ナマエの脳裏には一人の女性が思い浮かぶ。

「シェリー?」

声をかけながら近づくが反応はない。
白衣の下に着ている服も彼女の体型にはまるで合っていないし、この現象を一度経験したナマエには何が起こったか一目瞭然だった。

「シェリー」

傍らにしゃがみ込んで声をかける。傘が雨をからシェリーを守り、睫毛を震わせた彼女がゆっくりと瞼を押し上げた。

「……ギム、レット…?」

その瞳にかすかな怯えが走るのを見て、ナマエは小さく微笑んだ。

「大丈夫。誰にも言わないよ」

ナマエは組織の人間ではないし、逐一報告する義務も義理もない。
組織で何があったのかは知らないが、幼児化の副作用を知らないはずの彼女が"あれ"を飲んだということは。

「死ぬつもりだったの?」

ナマエの問いに、シェリーは再び目を伏せる。

「生きててよかったね」
「……これで、私は裏切り者よ」

組織は裏切り者を許さない。きっとすぐに追手が来る。そんな怯えの滲む声色に、ナマエはまた笑った。

「ふふ…そこで私に助けを求めないところ、嫌いじゃないよ」

そう言いながら"円"を展開する。
どうやら彼女が目指してきたらしい屋敷には誰もいないようだった。

「このお屋敷、誰もいないみたい。それに事情があってうちにも連れて帰れないの、ごめんね」

シェリーの返事を待たずに片手で抱き上げると、ナマエの服が雨水を吸ってぐっしょりと濡れる。

「お隣でもいいかな?」

隣の家には電気が点っていて気配もある。
住んでいるのがどんな人間かはわからないが、少なくともここに放置するよりはマシだろう。

「……ありがとう」

耳元で、力なく呟かれた言葉にナマエの口元が弧を描く。

「どういたしまして」

この程度なら、お返しはいらないからね。
軽い調子でそう言った彼女に、シェリーは「相変わらずね」と小さく笑った。

隣の家の玄関先に彼女を座らせ、インターホンを鳴らす。
中で人の気配が動くのを感じて、ナマエは闇に溶けるようにしてその場を離れた。


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