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ナマエがポアロにコーヒーを飲みに行くのは、大体バーボンと仕事をした後か、その翌日だ。彼の毒舌によるダメージを癒しに行くのが目的なので、自然とそんなルーティンになった。
しかしバーボンとの仕事もそう頻繁にあるものではない。
報酬に納得しなければいくら彼との仕事でも受けないし、彼自身一人で動くことも多いので月単位で会わないこともザラだ。

そしてその日、どうしてもポアロのコーヒーが飲みたくなったナマエは、ルーティンとは関係なく店を訪れていた。

(やっぱり美味しいなあ……)

「コーヒーのおかわりはいかがですか?」
「あ、お願いします」

美味しいコーヒーと爽やかで明るい店員。これで癒されない方がどうかしてる。
ふと、おかわりのコーヒーを注いでいた女性店員がふふっと笑った。

「?」
「あっ、すみません。いつもここに来る時は暗い顔をしてらっしゃるのに、今日はお元気そうでよかったなって」

そんなにわかりやすかったか。ナマエは自身の両頬に手を当てる。

「コーヒーを飲みながら少しずつリラックスされていくのがわかるので、いつもつい見ちゃうんです」
「ええ……恥ずかしいな。そんなに顔に出てました?」
「いえっ私が見過ぎなだけだと思います」

失礼だったと思ったのか、彼女は慌てた様子で手を振った。

「実はお帰りの時の笑顔にも癒されてまして……。なんていうか、こう…ポアロのコーヒーで元気になってくれたんだなーって思えるんです」

そう言いながらはにかむ姿に、今度はナマエが笑う。

「いつも元気な店員さんのおかげです」
「えっ本当ですか!嬉しいー」

コアタイムを避けた上に平日ということもあって、客は今ナマエしかいない。
彼女は梓と名乗った店員と、しばらく会話を楽しんだ。

「ただいま戻りましたー」
「あっ、安室さん!買い出しありがとうございました」

ドアベルの音とともに聞こえた声に、梓がテーブルを離れていく。
ごゆっくり、と去り際にかけられた言葉に笑い返したナマエだったが、彼女の向かう先に見えた人物に硬直した。

それはもう、この上なく見事に硬直した。

(…バ………?)

金髪に青い目をした褐色の肌の男が、ナマエに気付いて「いらっしゃいませ」とニッコリ笑う。
ナマエはそれを直視できずに思いっきり目線を逸らした。
あからさますぎるとか怪しすぎるとかそんなことを考える余裕もない。というか、声がいつもと違って爽やかすぎて第一声で気付けなかった。

(えっ……なに…?)

状況が飲み込めない。アムロさんって誰。
ひとまず落ち着こうとコーヒーを飲むが、大好きなポアロのコーヒーなのになぜか味がしないように感じられて、さらに混乱が加速する。

(……うう、ダメだ…とりあえず帰ろう)

ここにいてももう落ち着けはしない。そう判断したナマエが、コーヒーを飲み干してレジに向かう。

「もうお帰りですか?」

ヒッと声が出そうになって咄嗟に飲み込む。レジに立ったのは安室と呼ばれた男だった。

「以前、お会いしたことがありますよね。ほら、イルミのぬいぐるみの」

人の好さそうな笑みを浮かべる安室に、ナマエは一瞬だけ動揺を忘れてそちらを見た。
どうやら彼はナマエがギムレットだとは気付いていないらしい。顔も隠して声も変えているし、それもそうかとナマエは少しだけ安心する。

「……あの時は、ありがとうございました」
「いえいえ。UFOキャッチャーなんて久しぶりだったので、僕も楽しんじゃいました」

そう言って笑う彼からは、ギムレットに向けるような嫌悪感や苛立ちは感じられない。
ぎゅうっと心臓が鷲掴みにされるような感覚に、ナマエは短く息を吐いた。それからおずおずと伝票を手渡すと、褐色の大きな手がそれを受け取る。

「僕、安室透といいます。最近入ったばかりなので、まだまだ不慣れで」
「…そ、うなんですか」

(あむろとおる、っていうんだ)

もちろんそれが本名とは限らないが、ナマエは思いがけずコードネーム以外の名前を知ってドキドキと胸を高鳴らせた。
不慣れと言いつつ素早くレジを打ち込む姿をチラリと見やって、やはり直視できずふいっと逸らす。

会計を終えると、安室はわざわざ店の前まで見送りに出てきた。

「またいらしてくださいね」

優しく細められた目に、ナマエは伏し目がちに「はい」と答えるのがやっとだった。




***




ある時は公安のエース、またある時は犯罪組織の幹部、そしてまたある時は私立探偵兼喫茶店店員。そんな振り幅の大きすぎるトリプルフェイスを難なく使いこなす降谷零という男の日常は多忙を極める。
元来仕事人間である彼はどんな役割も完璧にこなし、一切の妥協を許さない。ここ、喫茶ポアロで安室透を演じている間も、メニューの考案や改良に余念がなかった。
そんな生活だから慢性睡眠不足は当たり前だし、一歩外に出れば組織の人間がどこで監視しているともわからず息つく暇がない。

そうやって日々神経をすり減らしながら、国のために休みなく働いているのだ。ほんの少しの癒しくらい求めたってバチは当たらないだろう―――と、客席に視線をやりながら安室は考える。
視線の先では、梓が安室の淹れたコーヒーを運びながら「ナマエさん、どうぞ」と声をかけていた。

ナマエは安室が以前ゲームセンターで接触し、少し前にこのポアロで再会した女性である。
一度目の邂逅では安室への興味を一切示さず、むしろ胡散臭いとでも思っていそうな態度だったが。

ふと、安室の視線に気付いたナマエがちらりとこちらを見る。それにニッコリ笑いかけると、彼女は途端に目尻を赤く染め、気恥ずかしそうに顔を俯けた。
それを見て安室は満足げに笑みを深める。

安室は自身に向けられる感情に気付かないほど鈍くはないし、むしろ人より鋭いと自負している。
そんな安室から見て、今のナマエは間違いなく安室を異性として意識していた。

再会してから店で何度か会っているが、彼女がJK達のようにアピールしてくることはない。梓いわく、安室が働き始める前と後とで来店頻度も変わらないらしい。
それでいて目が合えば頬を染め、話しかければ瞳を揺らして顔を逸らすのだ。その慎ましやかな振る舞いに癒されない男がいるのだろうか。

思わせぶりな態度をとって振り回すつもりはないし、適度な距離を保って眺めるくらいは許してほしい―――と安室が誰に言うともなく考えたところで、ドアベルが音を立てた。

「いらっしゃいま」

せ、という音が口から出る前に、安室は完璧な笑顔のままピシリと固まった。

「………は?」

驚いたのは相手も同じだったらしい。形のいい目が大きく見開かれている。

「……え?いや……お前、ふ」
「いらっしゃいませ!一名様でよろしいでしょうか?」

すぐさま回復した安室が、爽やかにかぶせながらカウンターを出る。

「いや、お前こんな」
「お席はカウンターでよろしいでしょうか」
「はあ?お前な」
「お前…?どなたかとお間違えでは?僕は安室透といいます」

アムロだあ?と相手が眉根を寄せる。

そもそも長年連絡を取れていないのだから、所属くらい予測がついているだろう。だったら察しろ。空気を読め。
そんな圧を込めた笑顔に、目の前の男がわざとらしく舌打ちをした。どうやら理解してもらえたらしい。

「あ、陣平。こっち」

そんな男に声をかけたのは、奥のテーブル席にいたナマエだった。

「おー」

安室の横を通り抜け、松田が彼女のもとへと向かう。

「……陣平、安室さんと知り合いなの?」
「あー、いや。カンチガイ」

棒読みやめろ、と安室が心の中でツッコむ。まさか松田と彼女が知り合いだったとは。

梓が松田のオーダーを取り、それを受けて安室がコーヒーを淹れる。手を止めずに二人の様子を窺えば、随分と親しそうなのが見て取れた。
松田が身を乗り出して何やら耳打ちすると、ナマエがボッと顔を赤らめて両手で覆う。

それを見た梓が隣からコソッと話しかけてきた。

「あの二人、たまにここで会ってるんですけど……付き合ってるんですかね…?」

知るか、とはさすがに言えなかった。


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