27
ベルツリー急行の一件で、安室透が黒の組織の幹部、バーボンであるということが明らかとなった。
組織のネームドがごく身近にいるという事態に一時は緊張が走ったものの、彼が周囲の人間に危害を加える気配はない。
もちろん一瞬たりとも気は抜けないが、当面の危機を回避した今、コナンの興味は別のところに向いていた。
常連というほどではないが、度々ポアロに訪れるナマエという女性。
ゴリ押しで形ばかりの友達にはなれたものの、その正体は依然として謎である。
そして驚いたのが、灰原や沖矢がその存在を知っていたことだ。灰原は「彼女は組織の人間ではない」と言い、沖矢は「敵ではないが味方でもない」と言う。二人ともそれ以上は語らず、彼ら自身明確な答えは持っていないように思えた。
そんなコナンには、彼女と関わる中で少なからずわかったことがある。
それは彼女にお得意の子供アピールが通じないということと、打算は逆効果だということだ。
彼女に通じるのは「裏のない純粋なお誘い」と「明確なリターンを提示した取引」のみ。そして今回、コナンが選んだのは後者だった。
「…あれ?コナンくん、どうしたの?」
ポアロへ向かうナマエの進路を遮るように、コナンが姿を現す。
「ボク、ナマエさんに内緒のお話があるんだ」
ポアロでは話せないということを暗に伝える。
するとナマエは少し考え込んでから、「いいよ」と穏やかに微笑んだ。
「うわっ」
自然に距離を詰めた彼女に抱き上げられ、コナンは驚きの声を上げた。
「あのっ、ナマエさん?」
「内緒話なら、この方がいいんじゃない?」
至近距離で笑うナマエに思わずのけぞってから、「そうだね」と力なく同意する。
ナマエは十字路をポアロの方向へは曲がらず、コナンを抱いたまま当てもなく歩き始めた。
「それで、話って?」
コナンを縦抱きにしたまま聞く彼女に、抑えた声で囁くように問いかける。
「…ナマエさんって、安室さんのこと好きだよね?」
「え」
ナマエの顔を覗き込むと、顔を赤くして思いっきり動揺している。このわかりやすさで、まさか周囲にバレていないとは思っていないだろうが。…いや、思ってないよな?
(安室さんにもバレバレだっていうのは、とりあえず言わないでおこう)
「安室さんがさ、もし悪い人だったらナマエさんはどうする?」
単刀直入に聞くと、ナマエは少し黙り込んだ。それから「うーん」と頭を捻って、横目でちらりとコナンを見る。
「どうもしないかな」
「ふーん?」
するとナマエは口角を上げ、いたずらっぽく笑って見せた。
「もしかしたら、私の方が悪い人かも」
それはちょっと冗談に聞こえない。
だから彼女は殺し屋だと言っただろう、と父親が笑う声が聞こえた気がして、コナンは思わず半目になった。
「……じゃあ、安室さんが悪い人かどうかは気にしないことにして」
「ふふっ、うん」
「安室さんって小五郎のおじさんの弟子でもあるから事務所によく出入りするし、勉強になるからって依頼についてくることも多いんだよね」
「うん?」
コナンの言いたいことがよくわからないのだろう。ナマエが小首を傾げながら先を促した。
「ナマエさんって安室さんと付き合いたいとかじゃなくて……近くで見ていられるだけで幸せっていうタイプでしょ?」
「うっ」
「ボクと仲良くなればなるほど、ナマエさんが安室さんに会える機会も増えると思うんだけど」
「な、なるほど……」
ナマエが顔を逸らすが、耳が赤いのでどんな顔をしているのかはバレバレである。
「……それで、コナンくんは私にどうしてほしいのかな?」
その質問に、コナンの眼鏡がきらりと反射する。
「ボクの協力者になってよ」
その言葉にナマエの顔からは動揺が消える。当てもなく歩いていた足も止まり、彼女はコナンの顔をじっと見つめた。
「ボクも言えないことはあるから、もちろん何もかも助けてほしいってわけじゃない。ナマエさんができると思った時にボクのお願いを聞いてもらえればそれでいいんだけど、ダメかな?」
子供らしさの抜けた声音に、ナマエはコナンと視線を合わせたまま一瞬沈黙した。
「……お願いって、例えば?」
「うーん、主に肉体労働かなあ」
そのざっくりとした物言いに、ナマエがふふっと笑う。
「なるほど、肉体労働かあ。私が得意なの、知ってたっけ?」
「新一兄ちゃんに聞いたからね」
「そっか、そうだったね」
ナマエの声音が柔らかくなり、知らず強張っていたコナンの体からも力が抜けた。
「いいよ、それで。状況と内容次第だし、目立つことはしないけど」
「もちろんいいよ。ナマエさんに堂々と助けを求められる態勢を整えておきたかっただけだから」
「何それ、そんなに危ないことするの?」
「まあ、たまにね」
二人で目を合わせて笑い合う。少しして、ナマエが声のトーンを少しだけ落とした。
「……一つだけ、条件ね」
「なに?」
「私がその……そういうことが得意なの、安室さんには内緒にして」
窺うように言うナマエの眉尻は力なく下がっていて、コナンは思わず吹き出しそうになるのを抑える。この人、安室さんのことになると本当に乙女だな。
「わかった、約束するよ」
こうしてコナンは協力者を手に入れたわけだが、それがこの世界ではほぼ無敵とも言える人物であるとはさすがの彼も思いはしない。
そして彼女は今後スケボーでは行けない場所への足にされたり、警察犬のように人探しをさせられたりと、その身体能力を存分に活用されるのだった。
***
「ハムサンド……ですか?」
きょとんとした表情で小首を傾げたナマエに、安室はニッコリ笑って頷いた。
「はい。僕が考案したんですけど、これが結構好評なんです」
へえ、とナマエは感心したように言う。
彼女はいつもコーヒーばかりで、食事を取る時は専ら梓特製のカラスミパスタだ。
自宅では基本的に家政夫が作る料理を食べているようで、普段はケーキすら注文しない。
「ぜひナマエさんにも食べて欲しいなって。 ……あっ、初回なので、もちろんサービスしますよ」
そう言って片目を瞑ってみせれば、それを真正面から見たナマエが肩をビクッと跳ねさせた。顔を赤くして視線をうろうろと彷徨わせる彼女には少し刺激が強すぎたらしい。
くすっと笑う安室に、からかわれたと思ったらしいナマエが「うう」と眉尻を下げる。
「あの、それ…持ち帰ったりできますか?」
「もちろん!お包みしますよ」
「じゃあ、お願いします」
そう言って彼女は穏やかに微笑んだ。
「家政夫の方と?」
「はい。いつも作ってもらってばかりなので、食べさせてあげたいなって」
私は料理できないので、と笑う彼女に、安室もまた笑みを浮かべる。
「僕もずっと料理はからっきしだったんですけど……ここ数年でようやく面白いなって思い始めたんです」
「え、そうなんですか?」
思い起こすのは、どんな料理も魔法のようにパパッと作ってみせた幼馴染の姿だ。自分で料理をするようになったのは彼との別れがきっかけだった。
「ナマエさんも、やってみると楽しいかもしれませんよ」
「そうかな…。じゃあ今度、教えてもらえないか頼んでみます」
住み込みだという家政夫を思い浮かべているのだろう。ナマエの笑顔は凪いだ海のように穏やかで、素直に好感が持てた。
「実はちょっとした隠し味もあるので、ぜひその方と当ててみてくださいね」
ご回答、楽しみにお待ちしてます。
そう言って笑いかけた安室に、ナマエは一瞬きょとんとした表情を浮かべてから、頬を桃色に染めて「はい」と微笑んだ。
***
「味噌だな」
ハムサンドを食べながら、しばらく「うーん」と味わっていた諸伏がそう結論づけた。
「味噌?」
「うん、マヨネーズに少しだけ混ぜてある」
「へー」
「ハムもしっとりしてるし、この風味……多分オリーブオイルが塗ってあると思う」
料理を得意とするだけあり、あっさり見抜いてしまった諸伏にナマエは思わず感心した。
「すごいね、ヒロ」
「お、照れるな」
彼はそう言いながら手元のハムサンドを眺める。
「時間が経ってもレタスがシャキシャキだし、使う前にお湯に浸してあるのかな。これはオレもよくやるよ」
50度前後のお湯に浸けてから冷水にくぐらせると葉物野菜がシャキッとするらしい。ナマエはまた「へえ」と感心したように頷いた。
「細かいところまでよく考えてるよ、これ。めちゃくちゃ美味い」
「ふふ、美味しいよね」
「アルバイトが考案したってすごすぎないか?オレこの味好きだなぁ」
どうやらお気に召したらしい。安室を褒められ、ナマエも思わず頬が緩んだ。
「……あれ?」
そんな彼女の表情を見て諸伏が首を傾げる。
「え、なに?」
「いや、その顔……でもなあ」
ブツブツ呟き始めた諸伏に、ナマエは顔に何かついているだろうかと頬に触れた。
「ナマエ、前……好きな人が組織の幹部だって言ってたよな?」
突然の話題転換に、ナマエは目を瞬かせてから「うん」と肯定する。
「それが……その喫茶店の店員の話する時も同じ顔してるからさ」
「えっ」
「ほらそれ」
目尻がじわっと熱を持った気がして咄嗟に押さえるが、もう片方の手にはハムサンドを持っているため片側しか隠せない。
諸伏にはお見通しらしく、「その顔だよ」ととどめを刺された。
「ナマエが二人同時に好きになるなんて器用なことできるとも思えないし…もしかして」
「あの…うん。喫茶店の店員も、始めた…みたい……?」
「……ええ…?」
その辺の事情はナマエにもよくわからないので語尾が曖昧になる。
バーボンとしては相変わらず辛辣で刺々しいので、もはや別人と言われた方がしっくりきそうな状況だ。
「組織幹部がバイト?いや、潜入だろうけど……にしても喫茶店って」
その界隈、危なくないか?と諸伏は半ば引き気味である。
ちなみに次にポアロを訪れた時、ナマエは諸伏の回答を安室に伝えるのだが―――ハムサンドへのこだわりを完璧に見抜かれた安室がまだ見ぬ"家政夫"にひそかな対抗意識を燃やすようになるとは、思いもしないのだった。
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