28
「今日はこれで終わりですね。まだ時間に余裕があるので、送ります」
「あ、大丈夫です」
「……あなたは本当に人を苛つかせる天才ですね」
「えっ」
「なんでもありません。あなたに気遣いは不要なのを忘れていました」
そんな会話をバーボンと交わしたのはほんの数分前だ。
それきり口を閉ざしてしまった彼と別れ、ナマエは自宅を知られないよう早足で夜闇を駆けた。
(怒らせてしまった…。明日はポアロで癒されよう、そうしよう……)
彼もまた彼女に癒されたがっていると思っているとは露知らず、月明かりや防犯カメラを避けて闇の中を移動する。
そして見慣れた町並みが見えてきたところで、建物の屋根から音もなく着地した。
(この辺って夜は本当に静かだな)
ナマエはフードとマスクを取って散歩がてら夜の町を歩く。
米花町の中でも、ポアロから一本入った辺りは閑静な住宅街だ。日付が変わる頃になれば人通りもなく、月と街灯の明かりだけがほのかに道を照らしている。
しばらく歩いたところで、ほんの一瞬―――間近に死が迫るような鋭い殺気を感知して、ナマエはピクリと反応した。
足こそ止めなかったものの、すぐに霧散したそれに内心首を傾げる。
(これ、もしかして……)
結局ナマエは、そこから数歩進んだところで足を止めた。
そこは、いつだったか雨の日にシェリーが倒れていた場所だ。見上げた先には古めかしい洋風の屋敷がある。こちらの世界では、かなり大きな部類に入るだろう。
ナマエは洋館を見上げる目をすっと細め、固く閉ざされた門を軽く飛び越えた。
芝生を抜けて二階の窓の前に立ち、ガラスをコンコンと軽く叩く。すると招き入れるかのように窓が開いたため、ナマエはそこに体を滑り込ませた。
暗い部屋の中には気配が一つ。ナマエは暗闇に向かって話しかけた。
「どなたですか?今、誘いましたよね?」
その問いかけに気配の主が動くのがわかる。
月明かりの下にゆっくりと姿を現したのは、見たことのない男だった。体つきはがっしりしているが優男風の顔立ちで、細い目と眼鏡、それから明るい茶髪が特徴的だ。
「こんばんは、ナマエさん」
「……お知り合いでした?」
「いえ、こうしてお会いするのは初めてです。ただ、コナンくんからはよくお話を伺っていますよ」
「そうですか」
どうやらコナンの知り合いらしいが、わざわざ殺気を飛ばしてまでナマエを招き入れた理由にはなっていない。
「それで、何かご用ですか?」
早く言えと言外に示すと、彼はククッと笑って喉元に手を伸ばした。何かのスイッチを押したような音が聞こえる。
「スコッチは元気か?」
「!」
突然別人の声が聞こえて、ナマエは驚きに目を瞬かせた。
「うわビックリした……えっと、なんでしたっけ?スコッチ?」
「四年前だったかな。君が助けた男だ」
スコッチ、スコッチ……とナマエが記憶を辿る。あいにく人の顔と名前を覚えるのはあまり得意ではない。
(四年前……あ、ヒロのことか)
「彼なら一緒に暮らしてますよ」
「ホォー、そうか……あの時は半信半疑だったが、まさか本当に雇うとはな」
あの時?と頭を捻り、ようやく思い至った。
「ああ、あの時一緒にいた人ですか。……ん?こんな顔でしたっけ」
相変わらず頼りにならない記憶だと思いつつ、そのままナマエが納得しかけたところで、男が自身の顔に手をかけた。
そのままビリビリと剥がされていく"顔だったもの"をナマエが呆気に取られて見つめる。
現れたのは黒い髪にモスグリーンの目をした男だった。
「今はこうして変装して過ごしている。これで思い出してもらえたかな」
「あ、はい。見覚えがありますけど……」
確か諸伏がライと呼んでいた男だ。その後組織を裏切ったとかで、一時期ジンが荒れていたような記憶がある。
(あー、組織の目を逃れるために変装を)
わざわざマスクをかぶって過ごさなければならないとは難儀なことだ。と、針を刺して顔をビキビキ変形させる弟の姿を思い出して、あれよりは楽かと思い直した。
「君にもらった名刺も使えずじまいだったからな。一度こうして話してみたいとは思っていた」
「ああ、渡しましたね。そういえば」
「今も組織とは繋がりが?」
「報酬次第でたまに仕事を手伝う程度には」
「なるほど」
男が感心したように頷く。
「NOCを匿いながら組織を手伝うとは、相変わらず面白いことをしている」
「ノック?」
知らない言葉に首を傾げると、平たく言えば潜入捜査官のことだと教えてくれた。彼もまたNOCだったらしい。
「組織には他にもNOCが潜り込んでいるが…まあ、あまり知らない方がいいだろう」
「ですね。特に知りたいとも思いません」
即答すると、彼は可笑しそうにくつくつと笑った。
「まだ名乗っていなかったな。俺は赤井秀一。今は死んだことにしているが、一応FBI捜査官だ」
ちなみにこの顔の時は沖矢昴だ。そう言って彼は変装マスクの残骸を持ち上げて見せた。
「ナマエです。仕事は…まあ、今は無職みたいなものです」
「暗殺はどうした?」
「私の報酬高すぎるみたいで」
「それはよかった」
開店休業どころかほぼ廃業状態の暗殺業をよかったと言われ、ナマエは内心複雑な思いだ。
しかし家業には彼女なりの誇りがあるので、ランクを落としてまで請け負いたいとは思わない。
「ところで、君はバーボンのことが好きだそうだが」
「ふぉっ」
突然の話題転換に思わず呼気が漏れる。コナン?コナンだな?
「ホォー…そんな顔もできるのか」
「面白がらないでください。帰ります」
「ああ、立ち通しで悪かったな、座ってくれ。何か飲み物を持ってこよう」
「帰ります」
「ナマエさん」
窓に手をかけたナマエを赤井が呼び止めた。
「君やスコッチのことをボウヤに話すつもりはない」
「……それはどうも。あなたのことも、別に誰にも話しませんよ」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
「ずいぶん信用してくれてるんですね」
ああ、と赤井の口元が弧を描いた。
「こと取引に関しては、君のような人間が一番信用できる」
「……」
「NOCを守り続けるなんてのも、そうできることじゃない。ボウヤも君の正体を怪しみながら、どこかヒーロー扱いしている節があるようだ」
「……それは、どうも」
手をかけたままだった窓を開け、窓枠に足をかけてから振り向く。
「褒めても何も出ませんからね」
捨て台詞のように言って宙に身を躍らせたナマエの背に、男の笑い声が微かに届いた。
***
「おや、ナマエさん。今日はまたずいぶんと疲れた顔をしていますね」
コーヒーを運んできた安室にそう指摘され、ナマエは両手で頬を挟み込む。
「ちょっと、ゆうべは疲れることの連続で」
「ホォー……もしかして、お相手は男性ですか?」
「まあ……」
「それは妬けますね」
えっ、と目を丸くしたナマエの目線の先では、安室がいたずらっぽく微笑んでいる。からかわれたのだろうか。
「……そ、ういうのやめてください…慣れてないので…」
「おっと、すみません。反応が可愛らしくて、つい…」
「そういうのです」
まさかこれが安室のストレス発散方法だとは思わず、ナマエは赤い顔を両手で覆う。それを見た安室がふっと笑ったのが気配でわかった。
「すみません、じゃあこれはサービスで」
トレンチに乗っていた皿がナマエの目の前に差し出される。他の客の注文かと思っていたが、どうやら最初から彼女に出すつもりだったようだ。
皿には見た目にも美味しそうなケーキが乗っている。
「え?頼んでないですけど……」
「実はどうしても食べてほしくて、事後承諾で持ってきちゃいました」
そう言って安室は内緒話をするように口元に指を立て、片目をパチッと瞑ってみせた。
「うっ」
「僕の考案した新作ケーキです。ぜひ食べてもらえませんか?」
目の前に差し出されてしまっては断るわけにもいかない。
時間的にも家に帰れば諸伏の作ったおやつが待っているはずだが。
「わ、わかりました。ありがたくいただきます……」
「よかった。食べ終わったら、感想聞かせてくださいね」
(仕方ない、意地でも両方完食しよう)
そして安室がカウンターに戻ってからケーキを口に運ぶ。
その美味しさに思わず頬を緩ませたナマエを、こっそり横目で確認した安室が嬉しそうに笑ったのには気付かなかった。
「ナマエさん!よかった、いた!」
ケーキをちょうど食べ終わったところで、コナンが慌てた様子で駆け込んでくる。
「?どうしたの、コナンくん」
「今すぐ一緒に来てほしいんだ」
「え」
これはまた肉体労働のお手伝いだろうか。満たされたばかりのお腹を呑気に撫でるナマエをコナンが引っ張った。
「早く早く〜!」
「もー、仕方ないなあ」
「コナンくんは本当にナマエさんが好きだね」
カウンター越しに笑いかける安室に「すみません、感想はまた今度」と声をかけ、手早く会計を済ませてポアロを出る。
「で、今日は何?追跡?人探し?」
「追い詰められた犯人が人質を連れてバイクで逃走中なんだ」
「なるほど。人質を回収して犯人をバイクごと葬り去ればいいんだね?」
「(殺し屋!?)違うからね!?」
コナンを抱え、指示された方向へ疾走する。
「…ナマエさん、機嫌いいね?」
「ちょうどケーキを食べ終わったところでよかったよ。途中だったら犯人に八つ当たりしてたかも」
ふふっと笑うナマエに、葬るのは八つ当たりじゃないんだ?と遠い目をするコナンだった。
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