04


ジンに依頼された仕事からしばらく経ち、ナマエは安易に仕事を受けたことを早くも後悔していた。

(そういうのは、いらないんだけど)

通話を終えたスマートフォンを腹の上に乗せ、ソファに寝そべる。
ジンやウォッカ、ベルモットが所属する組織はナマエを幹部として迎えたがっていた。幹部は酒の名前のコードネームを与えられるらしいが、彼女には微塵も興味はない。

この世界、面倒臭い。それがこの世界でしばらく生きてみて、彼女の出した結論だった。
元の世界なら、ゾルディックを仲間として勧誘しようなんて輩はまずいない。もちろん例外はいたが、そんなのに出くわす確率はおそろしく低い。

一方こちらの世界では、ゾルディックと名乗ったところで頭のおかしい人間扱いされて終わりだろうし、かといって名乗らなければこうして手綱を握ろうとする者が現れる。

(やっぱり暗殺稼業は無理か)

仕事に見合う報酬を支払える人間もいないだろう。しかしナマエはゾルディックとして生まれたときからこの生き方だ。
ハンターとしても活動できないこの世界で、一体どう生きていくべきなのだろう。

ナマエは一人、頭を悩ませていた。




***




「流石だな、スコッチ」

数多の星が空に瞬く夜。
諸伏はライに投げ飛ばされるフリをして抜き取ったリボルバーを、目の前の彼に突き付けていた。

「命乞いをするわけではないが…俺を撃つ前に話を聞いてみる気はないか」

 両手を上げ、薄く微笑みながらそう提案するライ。しかし元々、諸伏に彼を撃つつもりなど毛頭なかった。

「拳銃は…お前を撃つために抜いたんじゃない」
「ホォー…?」
「こうする…ためだ!」

素早く銃口の向きを変え、自らの胸元に突き立てる。
しかし諸伏が引き金を引くより早く、距離を詰めたライがシリンダーを握り込んだ。

「!」

この状態では人間の力で引き金を引くことは不可能だ。淡々とそう告げるライが、諸伏に「自殺は諦めろ」と言い聞かせる。
そして彼は、自らをFBI捜査官の赤井秀一だと名乗った。

「分かったら拳銃を離して俺の話を聞け。お前1人逃がすくらい造作もないのだから…」
「あ、ああ…」

予想だにしなかった展開に諸伏が手から力を抜きかけたところで、屋上に続く階段からカンカンと耳障りな音が聞こえる。―――誰か来る。

それに赤井の力が緩んだのを察知し、諸伏は咄嗟に引き金を引いた。

―――はずだったのだが。

銃声も聞こえず、痛みもなく、なんなら地に足がついている感覚すらない。
死とはこういうものなのだろうか?それにしてはビュウビュウと風が吹きつける感覚や腹に回った自分とは違う体温がやけにリアルな気が―――

「え?」

閉じていた瞼を開けて、諸伏は間の抜けた声を漏らした。

「えっ、ちょっ、何?…ど、どうなってるんだ?」

自分は今誰かに抱えられながら、夜の街を疾走しているらしい。しかもビルからビルへ、音も大した振動もなく凄まじい速さで跳躍しながら。
こんなこと、この世界の人間にできる芸当じゃない。

「…ッ、ナマエ!」

荷物のように小脇に抱えられた状態では傍らの人間の顔すら拝めないが、こんなの彼女の仕業に違いない。
思わず大声で名前を呼ぶと、人間の限界を超えたスピードでの移動が不意に終わり、諸伏は腹に働いた慣性の法則に「ぐぇっ」と潰れたような声を漏らした。
そっと下ろされて、その場にぐったりとしゃがみ込む。

「もしかして、余計なお世話だった?」

澄んだ声が耳に届き、諸伏は顔を上げた。視線の先では予想通りの人物がこちらを見下ろしている。

「い、いや、君は一体何を…?」
「散歩してたらあなたが死にかけてたから、引き金を引き終わる前に連れ出したんだけど」

どうやら自分は彼女に命を助けられたらしい、と諸伏はようやく事態を把握した。それにしてもゾルディックが慈善事業とは。意外そうな表情の彼に気付いたナマエが「ああ」と口を開く。

「前回の情報料代わりにね」
「あー、なるほど…。いや、助かった。ありがとう」
「どういたしまして」

諸伏が不要だと言った情報料を、彼女は変わらず払うつもりでいてくれたらしい。律儀な人だ。
そして人心地ついた諸伏の脳裏に、不意に過ぎるものがあった。

「…ああ、でも…オレの始末を命じられていたライの身が心配だな…それに階段を上って来たのは一体誰だったんだ…?」

顎に手をやって考え込む諸伏を見て、ナマエが「面倒臭いな」と呟く。

「え?」

顔を上げた諸伏だったが、次の瞬間にはまた彼女に抱えられて夜の闇を疾走していた。

「えっ!?」
「情報料分は働いてあげる」

頭上から凛とした声が降ってくる。どうやら命を助ける程度、彼女にとっては情報料と同等ですらなかったらしい。
ふと真下を向いていた諸伏の視界に、先ほどのビルの非常階段入口から出てくる見慣れた金髪が飛び込んできた。

「ゼロだったのか」

そう呟き終わるのと同時に、彼は元いた場所に下ろされていた。

「! スコッチ」

目の前のライが、彼には珍しく目を丸くしている。先ほど忽然と姿を消した男が再び戻ってきたのだから、さすがの彼でも驚くだろう。しかも今度は見知らぬ女まで連れている。――というか、連れられている。

「ライ、さっきは悪かった」
「いや…何があったんだ」

その問いに短く答える諸伏。聞こえてきた足音に思わず引き金を引きかけたこと、そして隣の彼女に助け出されたこと。もちろんナマエの素性を勝手に明かすわけにはいかないので、身体能力の高い人としか言いようがなかったが。ちょっと苦しいか。

「スコッチにライって…お酒の名前?」

それまで黙って立っていたナマエが、唐突に口を開く。

「あ、ああ」

彼女の問いを肯定しながら、諸伏の脳裏には最悪の想像が過ぎっていた。自分を警察官であると見抜いた彼女が、もし組織と関わりを持っていたら――

「ふうん…じゃあスコッチは、組織に潜入でもしてたの?」

その言葉にライが身構えるのがわかり、諸伏は思わず手で制した。いくら彼でも彼女には敵わないだろう。

「ああ、そうだよ」
「スコッチ」

ライが咎めるように呼ぶ。言いたいことはわかるが、彼女相手に取り繕うのは悪手だ。それで一度痛い目に遭っている。
組織のことは知っているようだし、あとはもう彼女自身が組織に与していないことを祈るしかない。

「そっか」

おもむろにスマートフォンを取り出したナマエが、どこかへ電話をかけ始める。諸伏はそれをじっと見つめながら、握り締めた手の中にじわりと汗が滲むのを感じていた。

「……もしもし、ジン?」

彼女の口から出た名前に、二人の体が凍りつく。

「スコッチって知ってます?」

しかし今度はライも動かない。相手がジンということもあり、どうやら通話が終わるまで静観するつもりらしい。

「その人……」

ごくりと生唾を飲み込んで次の言葉を待つ諸伏の耳に、思わぬセリフが飛び込んでくる。

「殺しちゃったんですけど」

は?と声を上げそうになって、慌てて飲み込んだ。

「間違えちゃったんですよ、すみません。やっぱりお仲間でした?……ああ、そうだったんですか、じゃあ問題ないですね。これの報酬はおまけで請求しないでおいてあげます。請求してもどうせ払えないでしょうし…ふふ、凄んでも別に怖くないですよ」

それから、もう勧誘はやめてくださいね。興味ないので。
そう言うと、通話口の向こうでまだ何か言っているらしいジンを遮るように電話を切るナマエ。それから固唾を呑んで状況を見守っていた二人に向き直った。

「これでスコッチは死んだけど…」

余計なお世話だった?
そう言って小首を傾げる彼女に、諸伏は乾いた笑いを零さずにはいられなかった。


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