30
「外にいたの赤井さんだったんですね」
赤いマスタングの助手席で、ナマエは隣でハンドルを握る赤井に話しかけた。
「君もいたとは驚いたよ。あそこで何を?」
「ジンの銃をこう、スパッと」
「……なるほど。さすがだな」
ジンたちに続いて倉庫を出たナマエだったが、彼らを追うべきか迷っていたところを赤井に拾われたのだ。
行き先は東都水族館。赤井曰く、バーボンもこれからそこに向かうらしい。
「にしても……バーボンのNOC疑惑は一応晴れたんですよね?何しに水族館に行くんでしょう」
キュラソーを奪還するまでキールを拘束しておくとはいえ、バーボン自身は自由の身だ。
今さらノックリストに用はないはずなのに、とナマエは疑問を口にした。
「……ああ、彼は組織の探り屋でもあるからな。時には情報を武器に、同じ組織幹部に交渉や取引を持ち掛けることもある。ノックリストの内容も把握しておきたいんだろう」
「ふーん。そういうものですか」
赤井からすればそれらしいことをそれらしく言っただけだが、ナマエが安室透の正体を知らない以上、彼が公安であることを勝手に明かすわけにもいかない。
ナマエも彼の目的自体にはそこまで興味もないようで、すんなり納得した。
「君は彼のもとへ行ってどうする?」
「……そこなんですよね」
赤井の問いかけに、ナマエは珍しく言い淀む。
「拘束が解けた以上、大概のことは彼自身でなんとかできるでしょうし……余計な手出しはかえって妨げになりそうな気もします。それに彼は"ギムレット"の素顔を知らないので、あまり近づくのも避けたくて」
さっきのもバレたら怒られそう……という小さな呟きも赤井の耳には届いていた。
「…じゃあナマエさん。俺と取引をしないか」
「え?」
助手席からの視線を感じながら、赤井が提案する。
「君は彼を守りたいが、近くではかえって動きにくい。そして俺は組織にノックリストを渡したくない」
「……」
「それなら安室くんは、俺が決して死なせはしないと誓おう。そしてその代わり君にはリストの保護を任せたい。どうかな?」
なるほど、とナマエが頷いた。
「それは心強いですが……ノックリストってキュラソーが持ったままなんですか?」
「ボウヤの見立てでは、キュラソーの脳そのものが記憶媒体らしい。彼女の脳は少し特殊らしくてな」
「へえ…じゃあ死なせるわけにもいかないですね。わかりました、それでいきましょう」
こうして二人の間で取引が成立した。
赤いマスタングはそのまま東都水族館への最短ルートを進む。空を赤く染めていた夕焼けは地平線に消え、辺りには夜の帳が下りようとしていた。
***
水族館に到着して赤井と別れたナマエは、キュラソーが公安の捜査官とともに乗り込んだという大観覧車の真下に来ていた。
直径100メートル以上あるだろう巨大な観覧車は、地上にいるナマエが"円"で覆えるギリギリのサイズだ。
"円"を展開すると、二輪式観覧車の片側が二つのゴンドラ以外無人であることがわかる。
片方は子供しかいないようだし、大人が二人乗っているもう片方がキュラソーのいるゴンドラだろう。
(赤井さんの要望はキュラソーの保護と、彼女を組織に渡さないこと。なら、公安から奪うのは違うよね)
本音を言えばFBIとして手にしたいのだろうが、彼はそれを取引の内容には含めなかった。
となれば公安がその身柄を押さえているうちは手出し無用だ。ナマエは"円"を続けたまま待つことにした。
するとしばらくして、ゴンドラからキュラソーと見られる人物が脱走する。そしてその先で一人の子供と合流したようだ。
(今確保すべきかな?でも組織の出方がわかってからの方が……)
ナマエがそこへ向かうタイミングを図っていると、突如上空から観覧車に向かって激しい銃弾の嵐が降り注ぐ。
「!」
どうやら"円"の届かない上空になんらかの機体が飛んでいるらしい。
キュラソーが囮になったようで、子供から離れた彼女に銃弾が集中するのがわかる。
「やばっ」
ナマエは"円"を展開したまま彼女のもとへと向かう。
そしてナマエがキュラソーの姿を視界に捉えた時、彼女は銃弾をその体に受けて噴水用のプールへと落下していくところだった。
ナマエもまたそれを追うようにプールへと飛び込み、水中で彼女の姿を探す。
(……いた)
沈んでいく彼女の腕を掴むと、その目が静かに開いた。落下時にどこかにぶつかったのか、鉄骨が腹部を貫いている。しかし意識はあるようで、その不思議なオッドアイと視線がかち合った。
地上に戻ろうとその腕を引くと、キュラソーが水面を指差して首を振る。
(?)
何か問題でも、と首を傾げるナマエだったが、水中にいてもわかるほどの轟音が再び聞こえてきた。なるほど、まだ上空には例の機体がいるようだ。
その後少しすると爆発音や銃声が途切れ途切れに聞こえてきて、やがて静かになる。
ナマエとキュラソーはアイコンタクトを交わし、水面から顔を出した。
「ぶはっ」
呼吸を整えながら地上に上がり、手を伸ばしたナマエがキュラソーを引き上げる。
「私はナマエ。詳細は省くけど、あなたを組織から守りに来たの」
タイミングを見誤ったせいで彼女はすでに満身創痍だが、死なせはしないので許してほしい。キュラソーは「そう」とだけ答え、ナマエの背後を見てハッと息を呑んだ。
「何……げっ」
振り向いたナマエもまた眉根を寄せる。車軸を破壊されたらしい観覧車が、地上に落ちてギシギシと音を立てていた。
しかしナマエは呑気だった。まだ内部にいるだろう赤井や安室、コナンはどこかにしっかり掴まってさえいれば死にはしないだろう。転がり落ちたそれに突っ込まれる水族館では多数の死傷者が出るだろうが、それはナマエの与り知るところではない。
「ごめんなさい、私行くわ」
「えっ」
なんとキュラソーが観覧車に向かおうとしている。ナマエは腕を掴んで引き留めた。
「死なれたら困る。ここから動かないで」
「ゴンドラにはまだ子供たちがいるの」
どうやら子供たちを助けたいらしい。記憶を失っている間に新たな関係性でも築いたか。
転がり始めた観覧車の音を聞きながら、ナマエが逡巡したのはほんの一瞬だった。
「わかった、取引ね。子供たちは助けてくるから、あなたは絶対ここにいて」
キュラソーが目を丸くしたのを見て、ナマエは返答を待たず地を蹴った。
とはいえ観覧車は片側だけでも数百トンはあるだろうし、彼女の力でも止めることはできない。
(子供たちのゴンドラだけ助けたってバレたら後が怖いな……仕方ない)
ナマエは走りながら両手にククリナイフを具現化し、"周"を施す。そして追いついた観覧車の側面を駆け上がり、辿り着いたゴンドラを支える支柱を全て切り離した。
ゴンドラが落下する前に下に潜り込んで支えると、そのまま地面へと降下する。ゴンドラの中で子供たちの悲鳴が聞こえるが気にしている暇はない。
オーラを溜めた足で地面にクレーターを作りながらなるべく柔軟に着地し、離れたところにゴンドラを下ろして再び観覧車を頂上付近まで駆け上がった。
そこにタイミングよく段差を落ちた観覧車が、地響きを立てながら振動する。そしてその揺れを利用するように、ナマエは全身に吹き出させた大量のオーラを"硬"で右足に集め―――蹴った。
全力で強化したとはいえ、数百トンの鉄の塊を蹴り飛ばした右足からは筋繊維がブチブチと千切れる音が聞こえ、皮膚が裂けて血が噴き出したのがわかる。
一方で側面上部に凄まじい衝撃を受けた観覧車は、転がるのをやめてゆっくりと横に倒れ始めた。
ナマエは息つく間もなく再び"円"で観覧車を覆い、内部にいる三人の回収に向かう。
「!」
「うわっ」
赤井を右手に抱え、その指先にコナンを引っ掛ける。続いて一人離れたところにいる安室のもとへと跳躍した。
「なっ!?」
空いた左で彼を抱えて観覧車を脱出し、先ほど避難させたゴンドラ付近に三人を下ろす。その際、身長差でコナンだけ落とす形になってしまったのは許してもらおう。
ナマエはコナンにだけ聞こえるよう「伏せて」と小さく呟き、再び地を蹴る。
「! 赤井さん、安室さん、ゴンドラを!」
背後からは、状況を把握したらしいコナンの必死の叫びが聞こえた。
ナマエがキュラソーの前に立ちはだかるのとほぼ同時に、横倒しになった観覧車から風と土埃を伴った凄まじい衝撃波が迸る。
ナマエの長い髪がバサバサと揺れ、背中には飛ばされた小石がビシッビシッと繰り返し当たった。筒状のゴンドラが転がされないかだけが心配だが、力自慢の男二人がコナンの指示通りに押さえてくれていることだろう。
衝撃が収まったところで髪をワシワシ掻きむしると、小石や土埃がパラパラと落ちた。
「……あなた…」
目の前ではキュラソーが呆然とした顔でナマエを見つめている。無理もない。ここまでたったの数十秒だ。
「待っててくれてありがとう。子供たちは助かったから、安心して警察かFBI辺りに保護されてくれる?」
ナマエはそう言いながら右足のショートブーツを脱ぐ。血をぐっしょりと吸ったそれはなかなかに重い。
「……ええ。それはいいんだけど、あなたのそれ……」
「このままじゃちょっと帰れないからね」
ナマエは噴水用のプールでブーツを洗い、血が止まらない右足もまたそこに突っ込んで雑に洗い始めた。
「ちょっと、化膿するわよ」
「いいのいいの。とりあえず家に着くまでなんとかなれば」
「適当ね……足、見せて」
彼女はそう言ってスカートの裾を細く裂くと、ナマエの太ももをきつく縛りつけた。
彼女自身、腹に穴が空いているというのに強い人だ。
「ありがとう」
「こちらこそ。じゃあ私は行くわ」
そう言うとキュラソーはあっさり背を向け、観覧車の方へと向かい始める。ナマエもブーツを履いてそれを見届けてから、人知れずその場を後にした。
そしてその後、子供たちはゴンドラから無事に助け出された。
コナンは子供たちに付き添い、赤井と安室は彼らの目を避けるようにして別々の方向へと立ち去っていく。
後に残されたのはもぬけの殻となった一つのゴンドラだ。そしてその傍らには、決して少なくない量の血痕が残されている。
それが観覧車を倒した何者かのものだということは、彼らの目には明らかだった。
その時三人が思い浮かべたのは同じ女の姿だったが、結局最後まで、誰も彼女の名を口にすることはなかった。
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