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コンコン、とリビングの掃き出し窓をノックする音に諸伏は顔を上げた。

「ナマエ!」

カーテンを開けると、そこにいたのは案の定ナマエだ。慌てて窓を開ける。

「ごめん、ヒロ。タオル取ってもらえる?」
「え?」

ベランダでブーツを脱ぎ始めたナマエを見て、諸伏は彼女の右足が血塗れなことに気付いた。

「……え!?ちょっ…どうしたんだそれ」
「止血はしてもらったんだけど……帰り道走ってたらまた止まらなくなっちゃった」

いろんな屋根に血の足跡つけちゃった、とナマエが苦笑する。確かにそれは怖そうだが。

「いや、それどころじゃないだろ。とりあえず傷の様子見たいし、ほら掴まって」

ナマエの背中と膝裏に手を添えると、彼女は若干戸惑いながらも首に腕を回してきた。
諸伏はそのまま彼女を抱え上げて風呂場へと直行する。俗に言うお姫様抱っこというやつだ。

「……うわっ、えぐいな!?」

浴槽の縁に座らせてシャワーで血を流すと、特に足の甲がひどい有様だった。
救急箱を取ってきた諸伏は、ナマエの足を自分の太ももに乗せ、その場で手際よく手当てを始める。

「何したらこうなったんだ?」
「"硬"して観覧車蹴ったの」
「ん?ええ…?」

よくわからないけどニュースで確認しよう、と決意する。
彼女が負傷するほどの事態だ。絶対現場もすごいことになってる。

「"絶"して寝てれば治りも早いし、手当ては大体でいいよ」
「ああ……確かそんなだったな」

漫画で読んだ、と納得しつつも手は抜かない。それより気になるのはナマエの状態だ。

「……眠そうだな?」
「ん、ちょっとね」
「血も足りないだろうし、オーラ?も大分使ったんだろ?シャワー浴びたらすぐ寝ろよ」
「ん」

手当てを終え、患部が濡れないようにラップで保護する。
諸伏が風呂場を出ると衣擦れの音が聞こえ、すぐにシャワーの音が聞こえ始めた。

(ネットニュースになってないかな)

スマートフォンで確認すると、東都水族館で二輪式観覧車の片側が脱落したという速報が出ていた。

(これか)

にしても観覧車を蹴ったとはどういうことだろう。まさか彼女が積極的に壊したというわけではないだろうし。
組織関係である可能性は高いが、だとしてもなぜ観覧車?

諸伏が少ない情報で考え込んでいると、シャワーを終えたナマエがふらふらと出てきた。

「ナマエ、髪が濡れてる」
「んー」

どうやら相当眠いらしい。ソファに座らせてドライヤーの風を当てると、彼女の頭部が今にも寝そうに揺れる。

(いや、可愛いけども)

なかなか見られない無防備な姿だ。
つい笑ってしまいそうになるが、ナマエが怪我人であることを思い出してグッと堪える。

「よし乾いた。ほら、部屋で寝るぞ」
「うん」

頷きながらも動かないので、仕方なく再度抱き上げて彼女の部屋へと運ぶ。
ベッドに寝かせて部屋を出ようとすると、すでに半分寝ているナマエが諸伏を呼び止めた。

「どうした?」
「……昨夜ね、警視庁からノックリストが盗まれたの」
「え?」

どうやら事の経緯を話してくれるらしい。
珍しいこともあるものだと、諸伏はベッドサイドに膝をついた。というかその時点でずいぶんな大事件だ。

「彼、もNOC扱いされてて……」

彼とは好きな男のことだろうか。

「疑いは晴れたけど……赤井さんに、ノックリストの回収を頼まれて…」
「え、ライ?」
「組織が観覧車壊したから…転がるの、止めるために…蹴り倒したの」
「ん?あー、なるほど…?」

支離滅裂だが、なんとなく彼女が大多数を守ったらしいことは伝わった。

「よく頑張ったな」
「……うん。――も…生きててよかった…」

それきり彼女は眠ってしまったようで、静かな部屋に規則的な呼吸音だけが響く。

(…ん?今、もしかして)

今聞き取れなかった部分、文脈的にもしかして好きな男のコードネームだったのでは。諸伏は反応しきれなかった自分の耳を恨んだ。

(くっそー、もう言わないだろうな)

まあコードネームのことはひとまず置いておいたとしても、事件の詳細についてはまた明日詳しく聞けばいい。
今はとにかくナマエを労おうと、諸伏はその頭をそっと撫でた。




***




怪我を治すための"絶"生活は、それから三日続いた。

ほとんどベッドの上で過ごした三日間ではあったが、諸伏は優しいし、何も知らない松田からは相変わらずマメにメールが来たので退屈はしていない。
ナマエの介入を知らなかったコナンからは電話で色々と追及されたが、「取引で動いただけ。相手は言えない」の一点張りでなんとか引き下がってくれた。

知らない番号からの着信は赤井からだった。彼はキュラソーの身柄を公安が押さえたことを口先だけで残念がりつつ、ナマエが取引通りに動いたことをちゃんと労ってくれた。
安室も生きているし、彼との取引は問題なく完了したと見ていいだろう。

「だからー、銃のことはすみませんって。でも罪のない仲間を殺さずに済んでよかったじゃないですか」
『そこで本当に殺したとして、俺が後悔するとでも思ってやがんのか』
「後悔というか、恥をかかなくてよかったですねって話ですよ」
『なるほどな……次に会った時はそのよく動く口を縫い留めてやる』
「できるならどうぞ」

ジンとの電話も相変わらず軽い嫌味の応酬だ。これはまだいい。問題は別にあった。

(うう……会いたくない……)

ジンに告げられた、次の依頼。
もちろん断ってもよかったのだが、なんとバーボンがナマエを―――ギムレットを名指ししているというのだ。
それをご丁寧に仲介してくれる辺り、ジンもバーボンを疑ってしまったことに少しは思うところがあるのだろうか。いや、ないだろうな。ないだろうけども。

(手出ししたの絶対バレてる。怒られる)

余計なことをするなとか、恩着せがましいとか、彼が言いそうな嫌味は大体想像がつく。
それでも実際に言われた時のダメージを思うと今から憂鬱だった。
彼との仕事は一週間後だ。それまでナマエは、生きた心地がしなかった。




***




「怪我、大丈夫なんですか?」

仕事を終えたバーボンの第一声は、予想だにしないものだった。

「……え?」
「まさかこの距離で聞こえなかったんですか?怪我は大丈夫かって聞いたんですが」

口ぶりは相変わらずだが、その内容は驚くことに彼女の身を案じるものだった。

「あ、はい。もうすっかり…」
「見せてもらえますか」
「え?」

見せる?と首を傾げたナマエに、バーボンは後方を示してみせた。

「車、今日は近くに停めているので。乗ってください」
「えっ、いや」
「乗ってください」

圧の強い笑顔に、ナマエがビクリと肩を跳ねさせる。ダメだ、逆らえそうにない。
結局ナマエは促されるままバーボンの愛車に乗り込み、車の室内灯に照らされながら彼の前に右足をさらけ出す羽目になるのだった。

(な、なんでこんなことに……)

紅潮する肌を一ミリたりとも見せるわけにはいかないと、ナマエは両手で掴んだフードで必死に顔を隠す。
そんなナマエの抵抗をよそに、バーボンは彼女の素足を掴んでまじまじと眺めていた。

「痕にはなっていなそうですね」
「だから、本当に大丈夫なので…っ」
「そもそもこの短期間で完治したというのも驚きですが……本当にこの足で観覧車を?」
「はっ、はい」

ハァ、と大きめのため息が聞こえて、怒らせたか、あるいは呆れさせたかと内心震える。

「……にわかに信じ難い話ではありますが、あなたに関してはもう今更ですね。何はともあれ、あなたに傷跡を残すようなことにならなくてよかったです」

え、とナマエはフードの下で目を瞬かせた。

「観覧車を倒したのが僕のためとはさすがに思いませんが、少なくともそのきっかけになったのは倉庫の一件でしょう。それであなたに傷跡が残るようなことがあれば、後味が悪すぎますから」

そう言いながらバーボンはナマエの足から手を離し、ハンドルに向き直った。

「支度してください。このまま送ります」

ナマエは呆気に取られたまま、彼の指示通りに支度を整える。もっとこう、勝手な行動を責めるなり、助けた理由を問い詰めるなりすると思ったのだが。
無意識にシートベルトまで締めて、動き出した車内でナマエはようやく我に返った。

(ハッ、しまった。断りそびれた)

しかしもう今更だろう。諦めたナマエがチラッと隣を窺うと、無表情でハンドルを握るバーボンの横顔が見える。

(はあ…ダメだ。ドキドキする……)

これだから車はダメなんだ、近すぎる。と内心嘆息しながら、彼女はうるさすぎる心音が彼に聞こえないよう祈った。


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