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バーボンがギムレットにそれを聞いたのは、ほんの気まぐれだった。
仕事が終わり、時間にも余裕がある。仕事道具を片付けながらの、場つなぎ程度の会話のつもりだった。

「暗殺の仕事……ですか」

マスクの下から戸惑ったような声が聞こえる。
恐らく変声機を使っているのだろうが、その声は毎回少しずつ違う。今日は少し低めだ。

「ええ。あなたは元々暗殺者なんでしょう?こんな地味な仕事より、暗殺の方が実入りがいいのでは?」
「…この組織からは、暗殺の依頼を引き受けたことはありません」

呟くような小さな声に、彼の手が止まる。

「それは……何か理由が?」
「……報酬が折り合わなかったので」
「そういうものですか」

道具を入れたケースを閉めて立ち上がる。
今回、愛車は少し歩いたところのコインパーキングに停めてある。送ると言っても彼女にはどうせ固辞されるだろう。

このまま立ち去ってもいいが、彼は最後にもう一つだけ質問をしようと考えた。

「……最後に暗殺の仕事を引き受けた時、どんな仕事だったか覚えていますか」

質問の意図がわからなかったのだろう。少しの沈黙があって、彼女は「はい」と答えた。

「出先で依頼の電話を受けて、そのままターゲットのもとへ向かって……あとでちょっとトラブルはありましたけど、仕事自体はいたってシンプルでした」

質問したのはバーボンだが、もちろん聞いていて気分のいいものではない。それでも彼は、この際だから確かめたいと思った。

「それ、いつの話です?」

えっと、と少し考え込んだ彼女が、その仕事を遂行した日を答える。それを聞いたバーボンは、彼女に背を向けた。

「……なるほど」

それは、スコッチがギムレットに殺されたのより二ヶ月も前の日付だった。
どうやら彼女は、彼を殺したことを覚えていないらしい。もしくは仕事として依頼されたものではないかのどちらかだ。

(僕は、馬鹿だ)

彼女の良識ある振る舞いや、彼女に命を助けられたことで完全に目が濁っていた。

一体自分は何を期待していたのだろう。
彼女が暗殺の仕事を嫌悪していれば、彼を殺したことを悔いていれば、許せるとでも?

「バーボン……?」

背後から戸惑いがちな声がかかる。

いつも淡々としているギムレットが、たまにバーボンの機嫌を窺うような態度を見せるのには気づいていた。たまに怯えたように声が上擦ることも。
そういう時、彼女の人間らしい部分に触れたような気すらしていた。

(……でも、それがどうした)

「なんでもありません」

これ以上彼女に近づく必要も、お互いを知る必要もないだろう。自分はこれからも彼女を仇として恨み続ける。それでいい。

「あなたのことが嫌いだと、再認識しただけです」

吐き捨てるように言って、バーボンは歩き出した。




***




バーボンの後ろ姿が闇に溶けるように見えなくなり、その足音が遠ざかる。
足音がナマエの耳にも聞こえなくなったところで、彼女は俯いて長いため息をついた。

(わかってはいたけど……直接言われると、やっぱりきついな)

嫌う理由を聞いたことはない。
気にならないわけではないが、聞いたら立ち直れなくなりそうな気がしていた。

(……もう、今更かな)

心臓の辺りがギリギリと痛み、まるで首を絞められているかのように息がしづらい。

(苦しいなあ……)

一瞬ゆらりと視界が滲み、目線の先のアスファルトが、ぽつりと一点だけ色が濃くなる。

(……あれ?)

なんだろうと目を瞬かせると、またぽつり、ぽつりと色が濃くなった。

「………うそ…」

目元に触れて、そこが濡れていることに気づいたナマエは唖然とした。
泣いた記憶なんて、正直一度もない。

「ええ……赤ちゃん以来?」

そうなると止め方もわからない。
とりあえず喉元に指を添え、声を元に戻す。それからマスクを外して、深呼吸のつもりで思い切り息を吸った。

吐き出す息が震えていることに気づいた時には、もう遅かった。

「………っ」

次から次へと溢れ出した涙に、ナマエは体を縮めるようにしてしゃがみ込む。
手の甲で目元を押さえてみるが、伝う先が頬から手首に変わっただけだった。

背中に流していた長い髪が、フードの端からさらりと零れ出てくる。

「ぅ……止まらな……っ」

喉が震えて息が吸えない。鼻の奥がツンと痛む。涙の溢れる目が熱くて熱くて仕方ない。

ひょっとしたら、人は泣きすぎたら死ぬのかもしれない。
そう思ってしまうくらいには、彼女にとってそれは未知の苦しみだった。




***




「ナマエ?まだ寝てるのか?」

コンコン、と自室のドアをノックする音と、諸伏が呼び掛ける声が聞こえる。
彼は「珍しいな」と呟きながら、ドアの前を離れていった。

ナマエは布団を頭の先までかぶり直し、その中で小さく息を吐く。
あれだけ泣いてしまった後でバーボンの顔をまともに見れるとは思えないし、安室の前でいつも通りに過ごせるとも思えない。

もう、彼には会えない。

幸いナマエは組織の人間ではないし、仕事は断り放題だ。
ポアロではただの客である彼女は、安室の連絡先も知らない。店に行かなければそれまでだろう。

(終わった……)

長いのか短いのかもわからない初恋だった。
恋って大変だ。辛すぎる。もうしたくない。

自分の初恋がとびきり難易度が高かっただけとは露知らず、ナマエは何もかも諦めるようにイルミのぬいぐるみを抱き締めた。




***




諸伏景光がナマエ=ゾルディックに命を救われたのは、キンと冴えた空気に包まれた冬の夜のことだった。
それから雇用契約を結んだ二人が一緒に暮らし始めて、もう四年目になる。

ナマエは穏やかだがどこに地雷があるかわからない人物で、怒らせたら一巻の終わりだと、同居したばかりの頃の諸伏は思っていた。
しかし今はもう彼女の人となりも掴んでいるし、意外と可愛らしい一面のある女性だということもわかっている。

もちろん、青春時代に熱中した漫画のキャラクターだから、余計に親しみを抱いてしまうという部分もある。いわゆるキャラ萌えというやつである。

それも含めて二人の関係は良好で、家の居心地もいいと思っていたのだが。

(こっ、怖い……!)

諸伏は今、何年かぶりにナマエへの恐怖心を抱いていた。

彼女は普段から、体の耐毒性を維持するために度々毒を摂取する。
プランターの水やりついでにドクゼリの葉を摘まむこともあれば、組織の仕事で得たという無味無臭の粉末を料理に振りかけることもある。
それでも基本的には料理の味を邪魔しないものを選び、ちゃんと味わって食べてくれるので諸伏も気にしていない。

そんな諸伏でも、薬瓶から直接錠剤をポリポリ食べる姿は怖くて仕方がない。

(そんなラムネみたいな食べ方今までしてなかったじゃん…!?)

ナマエはソファに座ってぼんやりとテレビを眺めながら、ずっと毒薬を食べ続けている。

「あの、ナマエさん……?」
「んー?」
「そんな食べ方して大丈夫なのか?その、致死量的な意味で」
「んー」

ここ数日こんな調子である。
ダイヤモンドをカットする時もうっかり手を切りかけていたし、そもそも散歩好きな彼女が全く外出しない。
自棄になっているようにも思えて、諸伏はある仮説を立てていた。

(これはやっぱり……失恋か?)

となると組織幹部との繋がりが切れるわけで、諸伏的には大歓迎だが。
そんな不謹慎なことが言えるわけもなく、かといってどうすれば元のナマエに戻るのかもわからず、諸伏は落ち着かない日々を過ごしていた。

そして結局のところ、家政夫である自分には、どんな時も美味しいご飯と綺麗な家を提供する以外に道はないわけで。

「ナマエ、何か食べたいものあるか?」
「んー」
「食欲は?」
「んー」
「……とりあえず、大好きなカニクリームコロッケ作るからな」
「んー」

これは重症だな。
まずは手元の瓶を他のものにすり替えられないか試してみよう、と諸伏はキッチンを物色するのだった。


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