35
ナマエが外出しなくなって、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
組織の仕事は断り、ポアロには行かない。
それだけのつもりが、すっかり外へ出る気力まで失われてしまっていた。
それでも晴れた日はリビングの掃き出し窓からの日差しで日光浴をしたり、ベランダで風を感じたりと、なんだかんだで健康的な日々を過ごしている気もする。
松田からはたまに誘いのメールもあるが、適当な理由をつけて断っている。コナンも同様だ。
最初は様子を窺うようにして過ごしていた諸伏も、そのうち何も言わなくなった。
人間、テレビとスマホがあれば時間はいくらでも潰せるんだな―――と、自堕落の典型のようなことを考えながら、ナマエはカーテンを開けた。
「……雨だ」
道理で朝から部屋が薄暗いと思った。
風はそれほど強くないらしく、しとしとと静かに降る雨が自室の窓に筋を残している。
ナマエは上から下へ流れ落ちていく雫をぼんやりと眺めた。
彼女は雨が嫌いではない。
暗殺者として独り立ちするまでは、気配や音を隠してくれる雨にずいぶんと助けられた。
今は諸伏がプレゼントしてくれたお気に入りの傘もあるし、正直晴れた日より雨の日の散歩の方が好きだ。
気が付いたら、ナマエは服を着替えて自室を出ていた。
「ナマエ?」
目を丸くしてこちらを見る諸伏に、小さく笑いかける。
「……ちょっと散歩してくる」
驚いた表情を浮かべていた諸伏だったが、「そうか」と笑って送り出してくれた。
いつも通り"絶"をしながらマンションを出て、離れたところでそれを解いて大通りを歩き始める。
傘の内側を見上げると、柔らかく降り注ぐ雨が濃い色の花柄を浮かび上がらせていた。
(うん、やっぱり綺麗)
当てもなく雨の町を歩き続けるナマエだったが、ポアロの方向からつい足が遠ざかってしまうのは仕方ないだろう。
気付けば一人では来たことがない杯戸町に辿り着いていて、彼女は辺りを興味深げに見渡した。
杯戸ショッピングモールは諸伏と一緒に来たことがあるし、松田を助けたところでもある。
他は入ったことがない店ばかりで、ナマエはなんとなく輸入雑貨の店の前で足を止めた。
(あ、あの扇子…お母さん好きそう)
ガラス張りの店内には羽飾りのついた上品な扇子が陳列されている。
その近くにある中華風のシンプルな靴は祖父が好きそうだし、隣に並べられた民族テイストの髪飾りはアルカによく似合いそうだ。
というかこの店多国籍すぎて節操ないな、とぼんやり眺めていたナマエは、ふと名前を呼ばれた気がして振り向いた。
「あ……」
そこに立っていたのは、今一番会いたくない男だった。
「………安室さん」
ポアロ方面をあえて避けたのにツイてない。買い出しでもなさそうなので、もしかしたら組織関係かもしれない。
「やっぱりナマエさんだ」
嬉しそうに微笑む姿に、一ヶ月前に乾いた涙が滲みそうになる。どうやら一度決壊した涙腺はなかなか直らないらしい。
ぐっと唇を引き結んで耐えたナマエに、安室が心配そうに名前を呼んだ。
「ナマエさん?どうかしました?」
「…だ、大丈夫です。なんでもないです」
強張る口元を無理矢理緩めて、なんとか笑顔を取り繕う。
「安室さん、今日はポアロじゃないんですね」
「ああ、はい。探偵の仕事で、さっきまでそこのレストランで依頼人に会っていて」
「そうなんですか」
組織の仕事に喫茶店に、加えて私立探偵としてもちゃんと働いているとは。相変わらず忙しそうだ。
「ナマエさんは?」
「え?」
「ナマエさんは…最近、忙しいですか?」
なかなか会えないので、と言う彼はいつも通りにも見えるし、どこか元気がないようにも見える。
「……はい、ちょっとだけ」
ナマエは努めて普段通りに笑おうとして、結局力なく眉尻が垂れるのを感じた。
「それは―――おっと」
言葉を途切れさせた安室が、唐突に彼女の二の腕を掴んで引き寄せる。
二人の傘がぶつかってガシャッと音を立て、ナマエがいた場所をマナーの悪い自転車が通過していった。
「危ないな」
自転車が走り去った方向を見ながら一瞬険しい表情を浮かべた安室が、掴んだままだったナマエの腕を放す。
「すみません、急に引っ張ったりして」
気遣うような声を聞きながらも、ナマエは顔を上げることができなかった。
「……いえ、ありがとうございました」
「ナマエさん?」
「ポアロ、また近々行きますね」
嘘だ。
ナマエはその場を離れるための嘘をつき、ペコッと頭を下げて走り出した。後ろから名前を呼ばれた気がしたが、振り向きはしない。
(あー、ダメだ)
充分距離を取ってから、ぐすっと鼻を啜る。
彼は相変わらず、咄嗟に人を守れる優しい人だ。彼女が好きになったのもそういうところだった。
それでも彼の嫌う女がナマエだとわかれば、きっとあの笑顔も見れなくなるんだろう。
(それは……辛いなぁ)
ウジウジする気持ちを切り替えたくて外に出たのに、結局元通りだ。
会えて嬉しかった。
でも会わなきゃよかった。
相反する気持ちに脳内をぐるぐる支配されながら、ナマエはまた当てもなく歩き出した。
***
雨の中、うっかり安室に会ってしまってから数日が経った。
その日もナマエは相変わらず、ソファでぼんやりとテレビを眺めながら、キルアのぬいぐるみを抱いて丸くなっていた。
一ヶ月以上に及ぶ引きこもり生活で、これまでに報酬として得た毒薬もすっかり底をついてしまっている。
ナマエにとって毒の摂取は自傷行為ですらないのだが、ある意味ストレス解消というか、もはやおやつ感覚で摘まんでいたのでちょっと口寂しい。
「ナマエ、クッキー食べるか?」
ふわりといい香りが漂ってきて、目の前のローテーブルに皿が置かれる。諸伏がクッキーを焼いてくれたようだ。
ナマエは体を起こし、それを一枚口に運んだ。素朴な甘さが舌の上に広がり、口寂しさを癒してくれる。
「…私、ヒロのこういうとこが好きだなぁ」
よく気が付くし優しいし、面倒見がいい。それはきっとナマエに雇われていなくても同じだろう。
突然の呟きに諸伏は一瞬動きを止めて、それから「光栄だな」と彼女の頭を撫でた。
その時、テレビのニュース番組が速報を知らせた。
『たった今入ってきたニュースです。東京サミットの開催を間近に控えたエッジ・オブ・オーシャンの国際会議場で、原因不明の爆発が起こりました』
傍らの諸伏がハッと息を呑んだのがわかる。
『この爆発で、会議場内で警備点検を行っていた警察官が数名死傷したとの情報が入ってきており―――』
ナマエはちらりと諸伏の表情を窺った。彼は眉根を寄せてテレビを睨みつけ、拳を固く握り締めている。
ふと、ナマエの視線に気付いた諸伏が、強張った顔に無理矢理笑顔を浮かべた。
「…ん?どうした?」
ずいぶん下手な笑顔だ。ナマエと初めて会った時、彼女に対する恐怖心ですら上手く隠してみせた彼が、こうも動揺するとは。
「……ううん、なんでもない」
そう返してナマエは目線をテレビに戻した。
突然の爆発で同僚の命が奪われ、誰が死んだのかすらわからない。現場に向かうことも、これ以上の情報を得ることもできない。
それはきっと、もどかしいだろう。
「ヒロ……」
目線をテレビに向けたまま、ナマエはぽつりと呼びかけた。諸伏が無言でこちらを見たのがわかる。
「私にできることがあったら言ってね」
それが自分らしくない言葉だというのはナマエもわかっていた。実際、驚いたらしい諸伏が「え?」と聞き返してくる。
彼女はそれ以上何も言わず、立てた膝の上でキルアのぬいぐるみを抱き締め直した。
優しくされることの心地よさを教えてくれたのは、隣にいる彼だ。
ナマエは取引や契約とは関係なく、諸伏のために何かしたいと感じ始めていた。
(……あ)
目線の先で、防犯カメラが捉えたという爆発の瞬間が再生される。
すると爆風による黒煙の中に見慣れた金髪を見つけ、ナマエはわずかに眉根を寄せた。
(なんであんなところに)
隣の諸伏は言葉の真意を確かめようとこちらを見ていて、今画面に映ったものには気付いていないらしい。
「…ナマエ?今のって、どういう意味だ?」
ナマエは傍らに立つ諸伏を見上げ、小さく笑いかけた。
「見返りはいらない。ヒロのために動くよ」
その言葉が彼にどれほどの衝撃をもたらすのかを、彼女は知らない。
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