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エッジ・オブ・オーシャンの国際会議場の爆発から、二日が経った。
爆発現場の遺留品からは米花町で探偵事務所を営む毛利小五郎の指紋が検出され、警察は毛利探偵事務所の家宅捜索に踏み切った。
そこで押収されたパソコンから東京サミットの日程表や現場見取り図などの資料、および爆発現場のガス栓にアクセスしたと見られる痕跡が発見され、それらが決定的な証拠となってその日の夕方には毛利を逮捕。そしてその翌日である昨日、彼は送検された。
(この流れ…事件化させるために公安の違法作業が行われている可能性は高いな)
諸伏は昼食を準備しながら思考を巡らせる。
彼がここまで正確な情報を掴んでいるのは、もちろんナマエが情報を得てきてくれたおかげだ。
ふらっと出て行ってふらっと帰ってきた彼女が、スマホアプリで捜査会議の音声を再生した時は腰が抜けるほど驚いたが。
("絶"、万能すぎる……)
"絶"にも技術が必要で、向き不向きや上手い下手があるのは漫画で知っているが、彼女は確実に達人級だ。
彼女が一度気配を絶ってしまえば、きっとこの世界にそれを察知できる人間はいないのだろう。
それにしても。
「バレたらオレ、クビどころじゃ済まないな」
思わず力の抜けた独り言が零れる。
捜査会議を盗聴する公安捜査官ってヤバすぎだろ。その場合ナマエはどんな扱いになるのだろうか。草の者か?
「ゾルディック家長女がオレの忍…パワーワードすぎる」
そんなことをつらつらと考えながら料理の盛り付けを終える。
そろそろ、朝から警視庁に潜り込んでいたナマエが一度帰ってくる頃だ。
取り皿やグラスを用意したところで、タイミングよく玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
「おかえり、ナマエ」
キッチンから声をかけると、手を洗ってきたナマエがひょこっと顔を出して「いい匂い」と表情を緩める。
「もう盛り付けも済んでるから座って。飲み物は?」
「暑いから麦茶」
「オッケー」
ダイニングテーブルに料理を運び、揃って「いただきます」と手を合わせる。
ナマエは空腹を感じることがほとんどないと言うが、いつも美味しそうに食べてくれるので作りがいがあった。
「それで、どうだった?警視庁」
「バーボンがいた」
「ぶっ」
思わず入ってはいけないところに食べ物が入りかけて、諸伏は咳き込む。
「え、大丈夫?」
「ゲホッ、ゴホッ……あー、大丈夫、うん。大丈夫」
麦茶をがぶ飲みし、なんとか落ち着いたところで「バーボン?」と聞き返した。
「うん。知ってるでしょ?組織幹部の」
「あーうん、知ってる……ライと一緒にスリーマンセル組んでたし」
「へえ。じゃあ安室透っていう名前で探偵やってるのは?」
「知ってるよ」
安室透は組織に潜入するにあたって作った降谷のカバーだ。探り屋として組織以外の場所に潜る際に、私立探偵の肩書きを使っているのも知っている。
ちなみに諸伏にも偽名はあった。だが死亡という形で組織との関係を断った以上、もう二度と使うことはないだろう。
「多分その関係だと思うけど……毛利小五郎は送検されててもういないのに、警視庁に差し入れ持って行ってたよ」
「ふーん…?」
「公安の人と接触してたけど、何か狙いがあるのかな」
「ぶっ」
今度は麦茶を噴き出しかけた諸伏に、ナマエが「大丈夫?」とまた気遣わしげな目を向ける。
「大丈夫大丈夫。ちょっとむせた」
安室透が接触する公安捜査官、それは確実に自分の上司である風見だろう。
そうなると彼も安室透ではなく、降谷零として動いていることになる。
(ゼロが動いてるのか、この案件)
それなら何の心配もいらないだろうし、逆にナマエを近づけることで彼の正体が組織に伝わってしまう可能性が出てくる。
そのリスクは考えていなかった…と諸伏は内心で頭を抱えた。
「ナマエ、色々ありがとな。状況もわかったし、もう情報はいいよ」
「……そう?」
「うん、助かった」
自分が知りたいというだけで、これ以上のリスクは取るべきではない。
あっさり終了を告げた諸伏に、ナマエはどこか憂いを帯びた表情で「そっか」と呟いた。
「……どうかしたか?ナマエ」
その表情は、サミット会場の爆発が起こるまで常に彼女が浮かべていた表情だ。
ここ数日は忙しく動いていたこともあり、元に戻ったように見えていたが。
「…んーん」
ぼんやりした表情で、ナマエがスプーンを置く。
「……彼には嫌われてるから、もう近付くつもりはなかったんだけど…ちょっとでも顔が見れて嬉しかったなって」
でももう必要ないなら仕方ないね。
消え入りそうな声で呟いて、ナマエは伏し目がちにため息をついた。
(………ん?)
諸伏は「そっか」と反射的に返した後、料理をかき込むように食べる。
それから空いた皿を持ってキッチンに戻り、ナマエに背を向けた状態で口元を押さえた。
(……んんん!?)
今、すごいことを聞いた気がする。
彼女は以前、好きな人に嫌われていると話していたはずでは。
(えっ……えー!?ゼロ!?ゼロなの!?)
諸伏は思わず叫び出しそうになる口元を必死に押さえた。
ナマエが好きな相手はバーボンで、安室で、降谷らしい。なんという奇跡だろう。
ちらりと後ろに視線を送ると、ナマエはまたスプーンを持って、緩慢な動きで料理を口に運んでいる。
取引関係なく力になりたいと言ってくれたのにも驚いたが、好きな相手がまさかの公安警察のエースとは。
(これはもしかして、もしかするんじゃないか……!?)
これで降谷が正体を明かしさえすれば、彼女が組織に手を貸す理由もなくなる。報酬として得ていた毒や薬も、公安のツテで手に入れてあげればいい。
彼女の協力が得られれば降谷の正体が組織にバレるリスクも抑えられるだろうし、そうなれば諸伏の職場復帰も容易いだろう。
さらに欲張れば組織壊滅にも手を貸してほしいところだが、そこはさすがに時期尚早か。
「……なあ、ナマエ」
振り向いた諸伏が声をかけると、ナマエがゆっくりと顔を上げる。
「…なに?」
「あのさ……」
諸伏は一つ深呼吸をして、逸る気持ちを落ち着かせた。
「今回の件が解決して、警察の状況が落ち着いたら……そろそろオレも職場に戻ることを考えようと思うんだけど、どうかな?」
その相談に、ナマエはぱちりと目を瞬かせた。
「潜入仲間のリスクがどうのっていうのは、もう大丈夫なの?」
「ああ、その辺りも目処が付きそうなんだ」
「……そっか」
ナマエは眉尻をへにゃりと下げて、弱々しく微笑んだ。
「よかったね。応援するよ」
その表情を見て、諸伏は心臓の辺りがギュッと痛むのを感じた。
(さ、寂しそうー…!)
それは初めて見る表情だった。
それだけ心を許してくれているという証明でもあるが、素直に喜べないのは彼女に全てを言えない後ろめたさがあるからだろう。
(ごめんなナマエ……上司とゼロの許可が取れるまでの辛抱だから!そしたら全部言えるから…!)
さすがに自分一人で判断するわけにはいかない。まずは上司である風見の判断を仰ぐことになるし、そうすれば自然と降谷にも伝わるだろう。
どちらにせよ二人の共同生活は終わることになり、彼女に寂しい思いをさせてしまうことには変わりないが。
(ナマエ一人にしたら生活できないだろうから、オレ通うし…めっちゃ通うし…!)
心の中でギリギリと歯噛みしながら、諸伏はなんとかいつも通りの笑顔を貼り付けた。
「長いことありがとな、ナマエ」
「ううん。ヒロがいてくれてよかった」
そう言って笑うナマエが儚く見えて、諸伏は思わずキッチンの天板に突っ伏したくなるのをすんでのところで耐える。
「…まあ、もちろんすぐにってわけじゃないし。まずは上司に相談して、それから色々と調整しなきゃだから」
「……うん。それまで、よろしくね」
別れを実感したのか、ナマエの瞳が揺れる。
諸伏は罪悪感に押し潰されそうになるのを必死に堪えながら、彼女に笑いかけた。
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