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はくちょうのカプセルが東京湾に着水した翌日、ニュースはその話題で持ちきりだった。
カプセルには火星由来の物質が含まれており、人々に宇宙工学の可能性と科学の発展を予感させたのだ。

そしてその日。
昼間よく晴れていた空が夜には雲で覆われ、強い風が吹きすさぶ荒模様となった。

安室がバーボンとして立っているのは廃ビルの屋上だ。前夜に命がけで立ち回ったばかりの彼だが、当然ながらそれは組織の知るところではない。指令を無視するわけにもいかなかった。

吹き荒れる風は悲鳴のような音を立て、バーボンの服をバタバタと煽る。
そして彼の視線の先で、錆びついた屋上のドアがゆっくりと開いた。

「……来てくれたんですね」

その声は風の音に紛れてしまったが、彼女の耳なら聞き取れただろう。
相変わらず大きめのフードとマスクで顔を隠し、ギムレットはそこに立っていた。

「最近は依頼しても断られてばかりだと、ジンが苛立っているそうですよ」

それはベルモット伝いに聞いたことだ。
無言だったギムレットが辺りを見回し、ようやく口を開く。

「…今回、危険な仕事だと聞いたんですけど……本当にここで合ってますか?」
「ああ、それならもう済んでますよ」
「え?」

間の抜けた声で驚く彼女に、バーボンがふっと笑う。

「場所も隣のビルですし、別に大した内容でもありませんでした」
「……じゃあ…」
「危険な仕事だと聞いたから、僕を守ろうと来てくれたんですか?」

かぶせるように問いかけたバーボンに、ギムレットは口を噤んだ。

「どういうつもりだと聞いても、答えてもらえないんでしょうね」
「………」

バーボンは無言の彼女に背を向けると、屋上の端に向かって歩き出す。
背の低いフェンスは錆びついていて、彼が手をかけると表面のメッキがボロッと剥がれた。
剥がれたかけらが風に舞い上げられていくのを暗闇に慣れた目で追いかけながら、バーボンが振り返る。

「あなたのことなんて知る必要もないと思っていましたが…撤回します」
「え?」

いくら彼女でも屋上の端と端で、こうも悪天候では聞き取れなかったのだろう。
少し躊躇ってから、話を聞くことにしたらしい彼女がゆっくりとした足取りでこちらに向かってくるのが見えた。

その時、一際強い風がバーボンの黒いキャップを吹き飛ばす。

「あ」

バーボンはそれを掴もうとして手を伸ばし、一歩下がった体が錆びたフェンスにガシャンと当たった。
そして腐食していた金属が呆気なく壊れる音が聞こえ―――彼の体が暗い夜空に投げ出される。

「! バーボン!」

このままでははるか下の地上に真っ逆さまだ。
そう思ったギムレットが地を蹴って瞬時に距離を詰めてくるのを視界に捉えて、バーボンは笑った。

「あ…っ!」

彼女もすぐそれに気付くが、もう遅い。
バーボンは空中でギムレットの腕を掴むとすぐに彼女を抱え込み、わずか一階分落下した後、受け身を取って転がりながら着地した。

このビルは階下に比べて屋上が狭く、落下しても最上階のバルコニーに落ちるだけだ。
オフィスの憩いの場として活用されていただろうそこは、廃墟と化した今はプランターの残骸や錆びた椅子が無造作に転がっている。

バーボンを下敷きにしていることに気付いたギムレットがハッとして体を離そうとするが、彼は同時に体を起こしながらも掴んだ腕を放さなかった。

「バ…、バーボン……?」

月明かりもない真っ暗闇に、ギムレットの怯えたような声がぽつりと落ちる。
バーボンはそれに返さず、彼女の両手首を一まとめにして左手で掴んだ。それに彼女の肩がビクリと震えるが、抵抗する気配はない。

白い手袋をした手がフードに差し込まれ、彼女の口元を覆うマスクを外す。
続いてフードを後ろに下ろすと、現れた長い髪がサラサラと零れ落ちた。

「っ、」

頬に添えた右手にギムレットが息を呑む。
それに構わず顔を上げさせれば、暗闇でもわかるほどに揺れた瞳と視線が絡み合った。
そしてバーボンもまた、呼吸を忘れて彼女を見つめる。

どんなに辺りが暗かろうと、それが誰であるか彼にわからないはずがなかった。

「……ナマエさん」

絞り出すような声で、その名を呼ぶ。
それを聞いた彼女は諦めたように目を伏せた。

「…ギムレットが何者なのか、いくつもの可能性を考えました」
「………」
「組織による人体実験の被験者、元軍人、凶悪犯罪者……」

頬から離れた手が、ナマエの胸倉をガッと乱暴に掴む。

「あなたでだけは、あってほしくなかった」

夜目が利くナマエには彼の表情がはっきりと見えていた。
灰青色の瞳には怒りとも失望とも、悲しみともつかない色が浮かんでいる。

「スコッチを覚えていますか」

スコッチ、とナマエの唇が動いた。
戸惑うように眉尻が下がり、思い出そうとするかのように視線が泳ぐ。それを見たバーボンは頭にカッと血が上るのを感じた。

「……自分が殺した男のことすら、覚えていないのか…!」

胸倉を掴む手に力が入る。
コードネームを出せばさすがにわかると思ったが、思い違いだった。

バーボンは怒りを押し殺すため、胸倉を掴んだままの手に額を当てる。はぁっと漏れた吐息には苛立ちが滲んでいた。
隠し切れない怒りにナマエの体が小さく震えるのを感じ、彼は俯いたまま両手を下ろす。

(くそ、動揺した…詰問なんて悪手すぎる)

これではスコッチと何かしらの繋がりがあるのが丸わかりだ。早く取り繕わなければ。
両手を解放されたナマエが身じろぎしたかと思うと、頭上からいつも通りの彼女の声が降ってくる。

「…あの、安室さん」
「……すみません」
「え?」
「彼とはしばらく組んでいたので、情が湧いてしまって…NOCを消しただけのあなたに非はありません」

普段通りの笑顔を貼り付け、安室は続けた。

「乱暴な真似をしてすみませんでした。仕事も終わっていますし、帰っていただいて大丈夫です」
「安室さん」
「……一人にしてください」

お願いします、と呟くように続けると、ナマエは困ったように沈黙した。

それから少しして、静かに立ち上がった彼女がその場を離れていく。安室にもそれがわかるよう、いつもと違って気配も足音も消していないようだ。
どう考えても気遣われているのに、もう腹も立たなかった。

それからどれほどの時間が経っただろうか。
耳障りな音を立てていた風はいつの間にか穏やかになり、雲の切れ間から月明かりが差し込んでいる。
緩慢な動きで空を見上げた安室は、いつもより近く見える月をぼんやりと見つめた。

ギムレットの正体を暴くことに躊躇いはなかった。
彼女の普段の振る舞いや、これまでに何度も助けられたことを鑑みれば、多少乱暴にしたからと言って彼女が組織に密告するとも思えなかった。
理由はわからないが、彼女は自分を守ろうとしているのだと彼は確信していた。

―――その"理由"も、正体がナマエだったことですぐにわかってしまったのだが。

親友の仇に好かれているだなんて、そんな可笑しな話があるだろうか。
そしてその仇に好意を抱き始めていた自分だって、愚かしいにも程がある。

「…一人にしてほしいと言ったはずですが」

ザリッと地を踏む音が聞こえ、安室は月を見上げたまま言う。
わざと足音を立てて気付かせてくれたのだろう。どこまで律儀なんだ、と思わず乾いた笑いが漏れた。

「安室さんを、連れて行きたいところがあるんです」

いつものように遠慮がちな口調ではなく、はっきりとそう告げたナマエに安室が視線を向ける。
月明かりに照らされた彼女は、座ったままの安室を見下ろして困ったように微笑んだ。

「…今日は家まで送ってもらえませんか?」

それはこれまで頑なに拒まれていた、彼女の自宅への誘いだった。




***




「…本当にいいんですか?こんな時間に。住み込みの家政夫がいるのでは?」

エレベーターを下り、安室が今更ながらに問う。日付が変わってもう大分経っていた。

「連絡してあるので大丈夫です」
「……そうですか」

鍵を開け、ドアを開けたナマエが「ただいま」と声をかけた。
彼女に続いて玄関で靴を脱いだ安室は、自分がなぜここにいるのかもわからないまま「お邪魔します」と躊躇いがちに言う。

リビングに続いているらしいドアを開けて、ナマエは彼をそこに招き入れた。
そして入ってすぐのところで、安室はピタリと足を止めた。

「おかえり、ナマエ」

目の前には一人の男が立っていて、どこか気まずそうに頭を掻いている。
最後に見た時より少し大人びたが、つり目がちの目元も、ヒゲも、黒い髪も、何もかもが安室の記憶のままだった。

「……それから、久しぶり。ゼロ」

ゼロと自分を呼ぶその声も、一瞬たりとも忘れたことはない。

「…ヒロ……?」

四年前に死んだはずの―――ナマエに殺されたはずの男を、安室は目を丸くして見つめていた。

「あー…、イチから話すと長くなるから、とりあえず紹介するな」

そう言って諸伏が手のひらで指し示したのは、安室の後ろでドアを背に立っているナマエだ。
一歩横にずれた安室が、呆然とした様子で彼女を見つめる。

「彼女はナマエ=ゾルディックさん。オレと松田の命の恩人で、今の雇い主」

言われた言葉を飲み込めず、安室はぽかんと口を開いた。

「……は…?…ゾル…?」

奇しくも松田と全く同じ言葉が出たが、もちろん彼が知る由もない。

「四年前、オレは彼女に命を救われたんだ。松田は三年前かな。その辺りの説明もちゃんとするから…まあ、とりあえず座って」

諸伏がダイニングチェアを引いて彼を促す。
状況が掴めないながらも安室がそこに向かおうとしたところで、ナマエが諸伏に声をかけた。

「ヒロ」
「ん?」
「私、しばらく出てるから。二人でゆっくり話して」

え、と諸伏が目を瞬かせるが、ナマエはそのまま背を向けてドアに手をかける。
それを引き留めるように手首を掴んだのは、咄嗟に踵を返した安室だった。

「…あ、安室さん?」

戸惑うように揺れる安室の瞳と、困ったようなナマエの瞳が交錯する。
状況がわからなくても、言わなければいけないことくらいはわかっている。

「ナマエさん、僕は……」
「あ、あの!」

意を決して口を開いた安室を、ナマエが慌てたように遮った。

「ヒロや陣平を助けたのはあくまで取引だし、ここに安室さんを連れてきたのも、辛そうな姿を見たくないって私が勝手に思ったからで……その…他意はなくて」

彼女が重ねたのは弁解の言葉だった。
力なく眉尻を下げ、何かを怖がるように視線をさまよわせる。

(…まさか、この期に及んで僕が「恩着せがましい」とか、「何のつもりだ」とか言うとでも思っているのか?)

彼女の反応に呆気にとられかけて、そうさせてしまったのも自分だと思い直した安室は胸がズキリと痛むのを感じた。

「だから、私…別にあなたからの見返りが欲しいとかじゃ……っ」

そこで言葉を詰まらせたナマエが、零れ落ちそうな涙を堪えるように唇を引き結んだ。

(………ああ、もう!)

自由な方の手で目を隠そうとするナマエの姿に、安室は思わずその体を抱き締めていた。
ビクッと肩を揺らしたナマエが、腕の中で身を固くするのがわかる。

「ナマエさん、すみません…僕は今まで、あなたを傷つけてばかりでした。酷いこともたくさん言った。あなたにはいつも助けられていたのに」

固まってしまったナマエは微動だにしない。

「ナマエさん、僕は―――」
「あー……、ゼロ?」
「え?」

戸惑いがちにかけられた声に、安室が諸伏を見た。彼は困ったように頭を掻いている。

「その辺にしてあげてくれないか?」

その直後、ナマエの膝がガクッと折れた。

「わっ」

慌てて支えた安室は、真っ赤な顔をしたナマエがすっかり目を回してしまっているのに気付く。

「ナマエにはちょっと刺激が強すぎたみたいだな」

苦笑しながら近づいてきた諸伏が安室からナマエを受け取り、名前を呼びかけながら彼女を立たせた。

「よしよし、ビックリしたなー。ん?ああ、いいよ外は。部屋にいてくれるか?あー大丈夫大丈夫、聞かせられないことはちゃんと小声で話すし」

諸伏はナマエを支えたまま、彼女の部屋まで連れていく。
話しかけられたナマエが小さく頷いたり、ふるふる頭を振ったりしているのが見える。

ドアを開けた諸伏は、ソファから拾い上げたらしいキルアのぬいぐるみを彼女に渡した。

「長くなるかもしれないし、寝てていいからな。朝ご飯は皆で食べよう」

ナマエはぬいぐるみに顔を埋めながらこくりと頷き、ドアを閉めた。

その一部始終を、一人取り残された安室は唖然とした表情で見つめていた。
立ち尽くしたままの彼が思ったことは一つ。―――この男、慣れている。


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