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「えっ?何してるの、カルト」

ナマエは可愛い弟の姿を見つめながら、思わず素で呟いた。



再会した安室と諸伏は、諸伏の職場復帰に向けてすぐに動き始めた。
そして新しい住居や偽名などが急ピッチで用意され、彼は予定より大幅に早く職場復帰を果たしたのだ。
彼のいた部屋は家具こそそのままだが、服などの私物は一切残っていない。
しかしナマエは、不便さも寂しさも意外なほど感じていなかった。

それもそのはず、心配そうに出て行った諸伏は翌日には変装姿で再び訪れ、大量の作り置き惣菜で冷蔵庫を埋めていったのだ。
電子レンジの使い方も覚え、ナマエは毎食のように彼の作った料理を食べている。
連絡も頻繁に来るし、ほとんど毎日声が聞けるので寂しさを感じる暇もなかった。

そして今、ナマエはソファにごろんと寝転がって―――ハンターハンターを読んでいた。

「うわ、幻影旅団なんてやめた方がいいよ、カルト……。イルミも余計なことするなぁ」

イルミの紹介で旅団入りを果たしてしまったカルトに、ナマエは思わず声に出してツッコんだ。

彼女はしつこく勧誘してくるクロロに苦手意識があり、その影響で旅団そのものにもいい印象がない。遭遇したら即逃げる間柄だ。
以前ゲームセンターで獲得したクロロのぬいぐるみも、手に入れたその日から自室の隅っこに追いやられている。

(でも面白いな、これ)

ナマエに単行本を貸したのは松田だ。
ルビ付きだからナマエにも読めるはずだと、ポアロに全巻持ってきてくれたのだ。

家政夫が辞めたことを知った松田は、以前にも増してナマエを気にかけてくれている。
おかげで彼女はここ数日、夢中になって漫画を読み進めているのだった。




***




「ありがとう、陣平。これ面白かった」
「だろ?まあ続きは当分出ないと思うけど」
「そうなの?」

どうやら休載が続いていて長らく新刊が出ていないらしい。
ポアロの定位置に向かい合って座り、ナマエは松田に借りていた漫画を返却した。

「安室サンは読んだことあんの?ハンター」

椅子の背もたれに肘をかけ、カウンターを振り向いた松田が安室に問いかける。

「ありますよ、学生時代にですが」
「オリジナル念能力とか考えたりした?」
「したかもしれないですね」
「それ絶対覚えてるだろ」
「ははっ、バレました?」

二人は仲良さげに会話を交わす。
同じ警察だし、ナマエが松田を助けたことに安室が礼を言うくらいだ。元々親しい間柄なのだろう。
諸伏と松田が警察学校の同期なのだから、安室もまたそうなのかもしれない。
楽しそうな二人を眺めながら、ナマエは安室の淹れたコーヒーを堪能していた。

「あ、そーだナマエ」
「ん?」

これ行こうぜ、とこちらに向き直った松田が差し出してきたのは自分のスマートフォンだ。
ナマエはそのディスプレイを覗き込み、そして思わず上擦った声を上げた。

「えっ……何これ、すごい!」

それはハンターハンターのコラボカフェの告知だった。なんと期間限定でゾルディック家カフェが開かれるらしい。

「みんないる…!」

グッズにはミルキやアルカ、カルト、キキョウなど普段商品化されないようなキャラクターの物もあり、ナマエは目を輝かせた。

「陣平、これ行きたい!」
「おー」

ナマエは緩んだ顔で松田に笑いかけ、また画面に視線を落とした。
そしてナマエがそれに夢中になっている間に、松田がニヤッと面白がるような笑みを安室に向けたのだが、それにはもちろん気付かない。

「あ、ねえ陣平。何これ?」
「ん?」

ナマエが指し示してみせたのは、シルエットだけが描かれたコースターだ。

「ああこれな、ナマエ=ゾルディック」
「えっ」

作中一回しか名前が登場しないのに、どうやらグッズまで作られてしまったらしい。

「なんか変な感じ……」
「だろ?こりゃ見に行かなきゃな……っと」

ナマエの手の中で、松田のスマートフォンが振動する。彼の同僚からの電話のようだ。

「悪ぃ、呼び出しだわ」
「わかった。頑張ってね」

伝票をスッと持って、松田は席を立った。
そして会計を終えた彼が店を出るのを手を振って見送ったナマエに、安室が近付いてくる。

「ナマエさん、よかったらカウンターに移動しませんか?」
「えっ、カウンターですか?」

思わず店内を見回すが、店にいるのは今ナマエだけだ。

「ああ、すみません。特に席移動の必要はないんですが…僕が個人的に、ナマエさんとゆっくりお話がしたいと思って」

えっ、とまた間の抜けた声が漏れる。
カウンターの中では、梓が同じように目を丸くしているのが見えた。

「お会いした回数は多くても、ゆっくりお話したことってないでしょう?」
「え、あ、確かに……?」

バーボンとギムレットとして会えば仕事が終わり次第即解散だったし、ナマエはポアロでもテーブル席に好んで座るため、安室との会話が長く続くことはない。

「そろそろ僕にも慣れてほしいんです」

ダメですか?と小首を傾げられてしまえば、ナマエが断れるはずもなかった。

(ていうか未だに慣れてないの、普通にバレてる……)

むしろ慣れる日は来るのだろか、と思いつつカウンターに移動したナマエの前に、例によって一枚の皿が置かれる。

「どうぞ、新作のケーキです」
「え、またですか?」
「はい、またです」

皿の上には見た目にも柔らかそうな生地のケーキと、たっぷりの生クリーム、それから彩りにミントと苺が乗せられている。
半熟ケーキというらしい。

「おや、もしかしてお腹空いてないですか?今日は二回目のおやつもないだろうし、気軽に食べてもらえると思ったんですが」
「二回目のおやつ?」
「ええ、いつもここでケーキを食べた後、自宅で家政夫の方が作ったお菓子も食べられていたでしょう?」

なんで知ってるんだ、とナマエが目を丸くする。
食べる食べないに関わらず、諸伏はいつも三回の食事とおやつを欠かさず用意してくれていた。
だからポアロでケーキ類を注文することはなかったのだが、安室がケーキを出してくれた日はせっかくだからと両方食べるようにしていたのだ。

驚いた様子のナマエに、安室はふっと笑う。

「すみません。実はいつも、時間的に家でも用意されているだろうとわかった上でケーキをお出ししてたんです」
「……なんでそんなこと?」
「対抗心っていうんでしょうか。僕の作ったものを先に食べて、お腹いっぱいになってしまえばいいのに…なんて、ちょっと意地悪なこと考えてました」

そう言って安室が可笑しそうに笑うのを見て、思わずナマエもプッと吹き出してしまった。

「なんですか、それ」
「なんでしょうねぇ……。でももう家政夫さんもいないわけですし、これからはもっと堂々とお出しできますね」

嬉しそうな安室に、ナマエは苦笑して「いやいや」と手を振る。

「サービスはもうやめてください。ちゃんと自分で頼みますから」
「いいじゃないですか。僕にもあなたを甘やかさせてくださいよ」

手を振った体勢のままナマエがカチンと固まる。

「…あ、あま……?」

言葉の意味を飲み込むのに少し時間がかかる。それをして彼になんのメリットが?

なるほど、これはからかわれてるんだな。
そう判断したナマエは俯きがちに視線を落としてから、抗議の言葉をぼそぼそと口にした。

「そういうの、やめてくださいってば……」

すると安室がふっと笑うのがわかり、視線だけでちらりと彼を見る。
目を細めて意地の悪い笑みを浮かべる彼は、安室というよりバーボンのようにも思えてドキリと心臓が跳ねた。

「やめませんから、早く慣れてくださいね」

これまでより落ち着いたトーンでそれだけ言って、安室はバックヤードへと引っ込んでしまった。
取り残されたナマエはしばらく硬直する。
キラキラと瞳を輝かせてこちらを窺う梓の視線が痛い。
少しして我に返ったナマエは色々な感情を誤魔化すべく、ケーキに添えられたフォークを手に取った。



一方の安室は、バックヤードでスマートフォンを確認する。先程短く震えたそれは、メールが届いたことを示していた。
見れば案の定諸伏からだった。

ナマエと松田が店に来た時、安室は諸伏に向けてナマエの来店を知らせるメールを入れた。
復帰したばかりで忙殺されているだろう諸伏に、自慢げなメールを入れて少しからかってやろうと思ったのだ。

(ん?『オレにはこれがある』?)

彼からのメールには画像が添付されている。
そしてそのファイルを開いた安室は、その灰青色の目を限界まで見開いた。

それはキルアのぬいぐるみを抱えたままソファで眠るナマエの姿だった。

(く……っ)

決して小さくないダメージを受けた安室がふらっとよろめく。

なに盗撮してるんだ、あの男は。いや確かに尊いが。脳内でツッコミを入れながらも、彼の指先はしっかりそれを保存していた。

謎に包まれたナマエ=ゾルディックの顔写真が保存されたスマートフォンなんて、この世界には片手程も存在しないだろう。
それにほんのわずかな優越感を覚えてしまった安室だった。




***




喫茶ポアロから少し離れた曲がり角で、ベルモットは建物の陰に身を隠していた。
チラッと顔を出して店の様子を窺うと、視線の先では店から出てきたナマエが店員姿のバーボンに見送られている。

ナマエに対する組織からの依頼は一ヶ月以上前から断られ通しだが、彼女は一度だけバーボンとの仕事を引き受けた。
そしてそこからまた断られるようになってしまったわけだが、二人がこうして繋がっているとは。

(ちゃんと手綱握ってたのね、バーボン)

それなら彼女が依頼を受けるよう誘導してほしいところだが、彼にもきっと考えがあるのだろう。

「…ハァイ、ジン。面白い知らせがあるわ」

電話口の向こうで、先を促すジンの声が聞こえる。
彼に今見たものを教えてやろうと再び口を開いたところで、耳に当てたスマートフォンに違和感を覚えた。

「!」

バッとそちらを向いたベルモットが目にしたのは、端末に手を添えるナマエの姿だ。
ベルモットが慌てて飛び退くのに合わせて、ナマエはそこから手を放した。

手元のスマートフォンを確認すると、画面が完全に暗転している。側面の電源ボタンの長押しでシャットダウンされたようだ。

「……ギムレット」
「あのお店気に入ってるんです。邪魔しないでもらえますか?」

ナマエは穏やかに微笑んでそう言った。

「あら、気に入ってるのは彼じゃなくて?」
「どちらでも同じです。私の癒しが奪われるなら、相応のお返しをさせてもらわないと」

あの男が癒しとは。外見こそベビーフェイスだが、中身がそんな可愛いものじゃないことはベルモット自身よく知っている。
そしてまた、目の前の女の恐ろしさもよくわかっていた。

「……わかったわよ。手出しはしないと約束するわ」
「ふふ、それならいいんです」

それじゃ、お気を付けて。
そう言って背を向けた彼女は、相変わらず希薄な存在感ですぐに見えなくなってしまう。
ベルモットはそれを見送って、詰めていた息を吐き出した。

(残念だったわね、ジン。あなたのお気に入りはもう捕まってはくれないみたいよ)

よりによってジンが嫌うバーボンになびくとは。彼が苛立たしげに舌を打つ姿が容易に想像できる。

(……あの子、あんな顔もするのね)

思い出すのは、カウンター越しのバーボンに向ける初々しくも甘い表情だ。
あんなにもわかりやすく好意を向けられては、さぞハニートラップも仕掛けやすいことだろう。

彼女が野放しになるのは組織にとって脅威だ。しかしバーボンが繋ぎ止めている限り、彼女が組織に牙を剥くことはない。

ベルモットはそう判断し、その場を後にした。


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