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モーニングとランチの間。コアタイムを避けた時間帯にポアロを訪れたナマエは、梓がいないのを確認してから小声で安室に話しかけた。
「安室さん、すみません」
「はい、なんですか?」
作業の手を止めて正面に立った安室が、内緒話に応えるようにしてカウンター越しに顔を近づける。
いつもならその距離に赤面するはずのナマエが真剣な表情を浮かべているのを見て、安室はおや、と目を瞬かせた。
「実は相談があるんです」
「なんでしょう。言ってみてください」
「あの…ヒロが喜ぶものを教えてほしくて」
ヒロが?と安室が首を傾げる。
「仕事で忙しいのに、家事のために通ってくれて…ちゃんとお礼がしたいんですけど、お金はもう受け取ってくれなくなっちゃって」
お金以外でどうやってお礼をしたらいいんだろう。ナマエは困りきった様子で眉尻を下げた。
「なるほど……。こういう時は自分がされて嬉しいことをしてあげるというのがセオリーだと思いますが」
「されて嬉しいこと?」
「はい。ナマエさんは彼に何をしてもらったら嬉しいですか?」
そう言って優しく促した安室に、ナマエは考える間もなく即答した。
「会えるだけで嬉しいです」
その答えに安室がピタリと動きを止める。さすがゾルディック、破壊力抜群の攻撃をノーモーションで繰り出してきた。
安室は言われた本人じゃないのに胸の辺りをキュッと掴まれた気がした。
「……なるほど。その次は?」
「次?次…うーん……美味しいご飯を作ってもらえるのが、嬉しいかな…」
よしそれだ。もうそれにしよう。安室は半ば投げやりに「それいいじゃないですか」と笑いかける。
「それ?料理ですか?」
「作る立場の人間って、他の人の手料理がものすごく嬉しかったりするんです」
僕もその気持ちはわかりますよ、と続けた安室に、ナマエは眉根を寄せて悩み始めた。
「料理なんてやったことないです。失敗して終わりそう」
「ナマエさん要領良さそうですし、メニューを絞って練習してみては?」
「うーん……じゃあ、やってみます」
嫌そうにしながらも素直にアドバイスを受け入れたナマエに、安室も自然と頬が緩む。
「よかったら僕が教えましょうか」
一生懸命な彼女に思わずそんな提案をしてしまったのも、きっと自然なことだった。
***
その日の夜、閉店後のポアロに二人の姿はあった。
店内の片づけをする安室に倣って、ナマエも見様見真似でテーブルを拭きながら言葉を交わす。
「わざわざポアロをお借りしてすみません。うちでもよかったんですけど」
「…ナマエさんの家に、僕と二人でですか?うーん…ちょっと想像してみてください。本当に大丈夫ですか?」
手を止めて困ったように笑う安室を見て、ナマエは疑問符を飛ばして首を傾げる。
それから少しして、言葉の意味を理解した彼女がボッと頬を紅潮させた。
「……!?」
「伝わったようでよかったです。マスターも快諾してくださったので、お店のことは大丈夫ですよ」
はい、と小さな返事が聞こえて、安室はまた可笑しそうに笑った。
「さて、ナマエさん。作りたい料理はありますか?」
無事片づけを終え、キッチンに二人で並んで立つ。天板にはまだ何も置かれていない。
「食材の切り方一つとっても色々ありますが、一からやっている時間はないので…まずメニューを決めてしまいましょう」
「……ヒロって何が好きなんでしょう。いつも私の好みばっかり気にしてくれてたので、ヒロの好みがわからなくて」
ナマエは申し訳なさそうにそう言った。
その言葉に安室が諸伏の好みを思い浮かべるが、あまり手の込んだものに挑戦しても負担になるだけだ。
「うーん、そうですね。ナマエさんが無理なく作れることが大事ですから……カレーはどうですか?ヒロ、カレー好きですよ」
というか彼女が作ればなんでも喜ぶだろう、とは言わなかったが、ナマエはパッと表情を明るくした。
「本当ですか?じゃあカレーにします」
「決まりですね。ちょうど使えそうな食材も揃ってるので、早速作ってみましょうか」
そう言って安室は人参や玉ねぎ、じゃがいもといった定番の野菜を天板に並べる。
「野菜の切り方ですけど、厚さは大体このくらいで……」
「はー」
実際に野菜の皮を剥いて切ってみせると、ナマエは興味津々といった様子で安室の手元を覗き込んだ。
「刃物の扱いは得意でしょうから、早速やってみましょうか」
いたずらっぽく笑いかけた安室に、ナマエは真顔で「はい」と頷いて三徳包丁を具現化する。
「コラ、包丁はありますから」
「は、はい」
瞬時にそれを消した彼女に、三徳包丁まで具現化できるのかと思わず感心してしまったのは内緒だ。まったく、油断も隙もない。
手渡された包丁を握り込んで、神妙な顔つきのナマエが野菜を睨みつける。
「えーっと…まな板まで切らないように…」
気を付けるのはそこなのか、と安室は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
ナマエは手元の野菜とカット済みの野菜をよく見比べてから、短く息を吐いて刃先を滑らせ始める。
トントンと軽快な音を立てて切られた野菜は、厚さも均一でお手本と遜色なかった。
「うん、さすがです。じゃあ次は炒めましょうか」
「はい」
褒められて自信がついたのか、ナマエの顔にもう不安そうな色はなかった。
***
「今日はありがとうございました。家でも練習します」
完成したカレーの入ったタッパーを抱えながら、ナマエは嬉しそうに微笑んだ。
煮込み時間にサラダの作り方も練習できたので、当日はこれでなんとかなるだろう。
「頑張ってくださいね。ヒロも絶対に喜びますよ」
「はい。…それで当日なんですけど、もし都合がつけば安室さんも来てくださいませんか?」
「え?僕ですか」
思わぬ誘いに安室が目を瞬かせる。
「はい。仕事でも滅多に会わないんですよね?会えたらヒロも喜ぶと思うし」
自分のための誘いではないからか、自宅に招きながらナマエが照れる気配はない。
どうやら彼女は、他の何かに夢中になっていると赤面しがちな自分を忘れるらしい。諸伏へのお礼に悩んでいる時しかり、諸伏を喜ばせたい一心で安室を誘っている今しかりだ。
彼女のそんなところも好ましく思いながら安室は微笑んだ。
「ありがとうございます。僕も行きたいので調整しますね」
「ふふ、よかった」
「じゃあこの流れで…連絡先交換してくれませんか?」
さっとスマートフォンを取り出してみせた安室に、ナマエが「えっ」と目を丸くする。
「ダメですか?」
「だ、だめじゃないです」
そう言ってコートのポケットを探るナマエは早くも目尻が赤い。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「うっ……いえ」
連絡先を交換しながら、タッパーとスマートフォンで両手が埋まったナマエは何かを耐えるように一瞬目を瞑った。
意識した途端に表情が取り繕えなくなるのも可愛らしい、と安室はこっそり観察する。
店の外まで見送りに出た安室に、ナマエは「ありがとうございました」と頭を下げた。
初めての料理がよっぽど嬉しかったのだろう。タッパーの入った紙袋を大事そうに抱えながら、黒曜石のような目を柔らかく細めている。
「ヒロの喜ぶ顔、楽しみですね」
「ふふ、そうですね。頑張ります」
そう言って安室に背を向ける直前、ナマエは目線だけで彼を見ながら微笑んだ。
「安室さんがいてくれてよかった」
それににっこり笑って手を振った安室は、彼女が見えなくなったところで店内へと戻る。
鍋に残ったカレーは一晩寝かせて、明日にでも毛利探偵事務所に差し入れしよう。ナマエと一緒に作ったと言ったら、彼女を知る蘭やコナンは驚くに違いない。
それを想像してふっと笑みを零した安室は、ふと店の窓に映る自分の姿に気付く。
外はすっかり暗くなり、ガラス窓がまるで鏡のように彼の姿を反射させていた。
一瞬だけそれを見て、すっと視線を外した安室が手で口元を覆う。わざわざ確認しなくったって、自分がどんな顔をしているのかは自分が一番よくわかっていた。
(……どうしようもないな)
いい歳した公安捜査官が、女性の笑顔一つで頬を熱くしてどうする。これで公安が務まるのか。
そう言い聞かせながらも、誰もいない空間ではわざわざ取り繕う気にもなれなかった。
***
「なあオレ泣きそうなんだけど、どうしたらいい?ゼロ」
案の定、ナマエの手料理に諸伏は目を潤ませて喜んだ。
「ふふ、練習してよかった」
「ナマエさん、本当に上手になりましたね」
驚くことに、あれから何度も自宅で練習したという彼女のカレーはすっかり上達していた。
ネットで調べて隠し味なんかにも手を出したらしく、充分他人に振る舞えるレベルに仕上がっている。
「必要に迫られたらなんでもやりますけど、必要がなければ全くやらないので。いいきっかけになりました」
ナマエはそう言って微笑みながら、諸伏にカレーのおかわりを手渡す。
「いつもありがとね、ヒロ。私も少しずつ自分でできること増やしていくから」
「うーん複雑……。それで会えなくなる方が辛いから頑張りすぎないでくれ」
「ふふっ、なにそれ」
まるで子離れを惜しむように半泣きになる諸伏に、ナマエは可笑しそうに笑った。
「向こうだと秘境に入れば一週間水と塩だけとか普通だったし…一人だと食べられなくても寝られなくても気にならなくて。四年間ヒロのおかげで人間らしい生活ができて、本当に感謝してるの」
「……えっ、なにこれ、オレ死ぬの?」
「? …なんでそうなるの?」
不思議そうに首を傾げるナマエに安室が吹き出す。
「ふっ……嬉しすぎて死にそうっていう意味ですよ、多分」
なるほど、と返しながらもあまり理解できていなそうだ。
「にしても、本当に表情豊かになったよな、ナマエ」
「そう?」
「最初から穏やかな感じではあったけど、表情のバリエーションっていうのかな。今ほどじゃなかった気がする」
今もニッコリ明るく笑うようなタイプではないが、付き合いの長い諸伏が言うのだから確かなのだろう。
それを聞いたナマエは「ふーん」と目を細めながら、どこか面白がるように微笑んだ。
「じゃあ、きっとヒロのおかげだ」
ズキュンという音と突き刺さる矢の幻覚が見えて、安室が目をこする。
レトロな幻覚が消えた先で、諸伏が胸を押さえてうずくまっていた。
「あー、死ぬ。尊くて死ぬオレ」
「そろそろ冗談きついぞ」
「そうだった、笑えないんだ……オレ一回死にかけてるんだ……」
「ヒロは死なせないから安心して。私が何度でも助けてあげる」
「グハッ」
今度は彼が血を吐く幻覚が見えた。
ふふっと笑う彼女はもはや彼の反応を楽しんでいるようにすら思える。
「ナマエさん……ヒロが溶けそうなので、そろそろその辺に」
「はい。ごめんなさい、つい」
飲み物持ってきます、と立ち上がったナマエがキッチンへと消えていく。
その途中で聞こえた「あー楽しい」という小さな呟きは、男二人の鍛えられた耳にはしっかり届いていた。
(あー尊い)
その瞬間、二人の心境がピッタリ一致したのは言うまでもない。
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