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ナマエの"円"の最大範囲は、調子のいい時で半径100メートルほどだ。
祖父の300メートルには遠く及ばないが、これはこれで父に褒められるほどには広範囲だった。
展開した"円"をベースに能力を発動させると、その範囲が限りなく透明に近いドームのようなもので覆われる。
「……これがお前の能力か?」
「ふふ、まあね」
「空間遮断系の"レアモノ"は食ったことがある。五感を奪うだの、毒が充満するだの、色々あったな」
「ふーん。それもいいけど、そういうのではないなぁ」
ナマエは一歩下がりながら、右手を上に持ち上げる。
「外から入るのは自由だけど、出られるのは私だけ。ただし私を中で殺せば出られるよ」
余裕の表情でアドバイスのようなものを告げたナマエに、トカゲ男が一気に気色ばむ。その時、ふと周囲が暗くなり、男の血走った目がドーム上空の光景を捉えた。
『あれは……刃物!?』
コナンが叫んだ通り、上空にはナマエが具現化し得るありとあらゆる種類の刃物が浮かんでいた。おびただしい数のそれが、ドーム内部に暗い影を落としている。
「忠告したからね」
ふふっと笑ったナマエが手を下ろし、トカゲたちに背を向けてドームの端へと歩き出す。
『ナマエ!危ない!』
諸伏の鋭い声にも振り向かない。
禍々しい殺気とともに差し向けられた八本の腕を、牙を剥いた口元を、高い跳躍力を誇る下肢を、ナマエはいつの間にか具現化していた二本のコンバットナイフで切り刻んだ。
モニター越しにはたったの一振りで四体がバラけたようにも見え、息を呑む音がナマエの耳に届く。
そしてナマエの体がドームから完全に出た瞬間、滞空していた無数の刃物がドーム内部へと降り注いだ。
ドドドと地鳴りのような音を響かせながら肉を切り、削ぎ、貫き、そして潰していく。透明だったドームの内側には跳ねた血や肉片、乱雑に刻まれた臓物がこびりつき、赤黒い半球と化していた。
やがて全ての刃物が落ちると同時に破裂音が鳴り、弾けるようにしてドームが消える。そしてパシャンという水音とともに、血肉や臓物が地面へと落ちて異臭を漂わせた。
ここまでが、「雑すぎ」とイルミを引かせたナマエの"発"である。
車内でその一部始終を目撃した面々は、皆一様に顔を青褪めさせていた。風見に至っては今にも吐きそうだ。そしてその瞬間、偶然にも全員が同じことを考えていた。
―――肉片増やしてどうする?と。
しかし振り向いたナマエが血と肉片の海にバチャッと右手をついたことで、全員の思考が止まる。
手元で急激に熱された肉片がボッと燃え上がり、まるで地を這う大蛇のように何本もの炎の筋が走る。そこから瞬きの内に辺り一帯に燃え広がり、肉片の海はあっという間に炎の海と化した。
黄色が混じった明るい色の炎は、通常の赤い炎に比べてかなり高温だ。国際会議場解体時に地面のコンクリートもまた剥がされてはいるものの、もし敷かれたままだったら融点をゆうに超えて溶け出していたことだろう。
そんな高温の炎に巻かれても、それを生み出したナマエ自身が焼かれることはない。炎が舐めるように彼女の体を包み込むが、髪一本として燃え上がることはなかった。
ナマエは"円"を展開したまま炎の中を歩き、"凝"で周囲をぐるりと見渡す。血液は瞬時に蒸発し、炭化した肉片が動く気配はない。やはり血肉が残っていなければ能力の発動は叶わないらしく、あの異質なオーラもすでに残滓すら残っていないようだ。
それを確認した彼女が炎の海からゆっくりと歩み出てくるのを、モニター越しの彼らは息を呑んで見つめていた。
「うん、大丈夫そう。後始末お願いします」
彼女の背後では、報道規制も意味を成さないほどの炎が天高く燃え上がっている。
かろうじて返事を返した彼らに、ナマエはふふっと小さく笑った。
『ナマエ、大丈夫か?そんなに燃やして、反動は……』
『反動?』
オーラに熱を付与すると制約によって極度の低体温状態に陥ることを知っている諸伏が、心配げに問いかける。
「大丈夫。ただちょっと疲れたから、このまま直帰するね」
『え?ナマエ、待っ―――』
諸伏の返事を最後まで聞かず、ナマエは耳から外したイヤホンマイクをポイっと炎の渦に投げ入れた。
そしてそれを『あっ!』と目で追いかけた彼らが次に目線を戻した時、もうそこに彼女の姿はなかった。
***
血と煤で汚れ、死臭の染みついた体を熱いシャワーで洗い流す。
頭のてっぺんから温水を浴び続けても、制約によって極度の低体温状態となった体が温まることはなかった。
(さむ……)
この状態になった時、ナマエの体温は大体30度前後だ。常人であれば一周回って体の震えが止まり、脈拍や呼吸が減少して幻覚が見え始める体温でもある。
食い千切られた二の腕は一度血が止まってはいたものの、シャワーを浴び始めた途端にまた開いてしまった。
手当てすら面倒だ。早く寝たい。と、ぼんやり考えながら浴室を出る。
体と髪を雑に拭き終えて、適当なガーゼタオルで患部を圧迫したところでインターホンの音が聞こえた。それから少しして、カチャリと鍵の開く音が聞こえる。
諸伏だろうと考えたナマエは、服も着ないまま脱衣所の扉を少し開けた。そしてそこからひょこっと顔を出せば、髪から落ちる雫がぽたぽたと床を濡らした。
「ヒロー?ごめん、頭やっ」
て。
言い切る前に硬直したナマエの目線の先で、スーツ姿のままの安室がぎょっとした表情を浮かべている。
パタン、と何も言わずに扉を閉めたナマエに、安室が慌てたように声をかけた。
「す、すみませんナマエさん。鍵を開ける前に声は掛けたんですが…」
脱衣所にいた彼女には運悪く聞こえなかったのだろう。低体温のせいで五感がいつもより鈍くなっている自覚もあった。
「鍵はヒロから借りたんです。彼と風見には現場とコナン君を任せたので」と続ける声が扉越しに聞こえるが、頭の回らないナマエは上手く返事を返せない。
「あの、ナマエさん?大丈夫ですか?」
「は、はい」
「体温が下がってるんでしょう?風邪を引きますから、服を着て出てきてくれませんか」
風邪なんて引いたことない。そうは思いつつも寒いことには変わりないので、ナマエは患部に当てていたガーゼタオルを外し、のろのろと下着を着けた。
それからそこにあった部屋着替わりのキャミソールとショートパンツだけ身に着けて、再び患部を抑えながら脱衣所を出る。
その無防備すぎる服装に、安室がなんとも言えない顔をした。
「……まあいいです。まずは髪を乾かして、それから腕の手当てをしましょう」
諸伏から場所を聞いたのだろう。ローテーブルにはすでに救急箱が用意されている。
脱衣所からドライヤーを持ち出した安室がナマエをソファに座らせ、濡れた髪を一度タオルで丁寧に拭いてから温風を当て始めた。
(…気持ちいい……)
長い指が髪を通るたび、地肌に優しく触れるたびに心地よさを覚える。
それでも諸伏の時のように眠気が襲ってこないのは、ぼんやりとした頭でもちゃんと緊張しているからだろうか。
「…ナマエさん?起きてます?」
「……気持ちいいです」
「ふ…、そうですか」
背後から小さな笑いが零れたのがわかる。
穏やかな空気感にも心地よさを覚えながら、ナマエはその優しい手に身を委ねていた。
「今回は本当にありがとうございました。ナマエさんのおかげで、これ以上の犠牲者が出ずに済んだ」
髪を乾かし終えて怪我の手当てを始めると、安室が改まったように話し始めた。
「自分たちの世界のことを自分たちでなんとか出来ないというのは、悔しかったですが」
「あれは仕方ないです。むしろこっちの人達には関係ないというか……完全に巻き込み事故というか」
元来正義とは対極にいるナマエでも、これは自分がなんとかしなくてはと思ったくらいだ。彼女にしては珍しく、食い散らかされてしまった人々を哀れに思う気持ちすらある。
「どうやって来たのかはわからないですけど……一体でよかったです」
「確かにそうですね。軍勢だったら成す術もなかった」
「残りは漫画通り、あちらでなんとかしてくれてると信じておきます」
「はは、僕もそうします」
手当てが終わり、救急箱を片付けた安室を見送ろうとナマエが立ち上がる。
「手当てありがとうございました」
「いえ、じゃあ次はベッドで寝ましょう」
「えっ?」
思わず目を丸くして安室を見上げたナマエに、彼はにっこり笑って畳み掛けた。
「寝付くまでそばにいますから」
***
「ね、眠れないです」
「何かお話でもしましょうか」
「いえ、一人じゃないと眠れないかと…」
「おや?ヒロの話と違いますね」
「ひぇっ」
鼻先まで布団で隠して、困惑しきったナマエが瞳を揺らした。
青い顔で安室を見送ろうとするナマエを彼女の部屋に連れ込み、半ば無理矢理にベッドに寝かせたのはつい先程の話だ。
安室が肩を押すと抵抗することなくベッドにころんと転がったナマエに、うっかり微妙な気持ちになってしまったのも致し方ないだろう。
ギムレットの正体を暴いた時も思ったが、彼女は安室に対して抵抗らしい抵抗をしない。それを喜ぶべきか無防備すぎると嘆くべきか、思わず悩む安室だった。
「じゃあ……安室さん」
「はい」
ベッドの端に腰掛けている安室に、ナマエがおずおずと話しかける。
「安室さんの話が聞きたいです」
「僕ですか?」
「あの…どんな話でもいいので」
うーん、と少し考え込んでから、安室は表情を柔らかくして彼女に提案した。
「じゃあ…警察学校の話とか、どうですか」
「警察学校?」
「はい。警察官になる前に、半年間そこで勉強するんです」
「あー、聞いたことあります」
安室の灰青色の目が懐かしそうに細められるのを、ナマエはじっと見つめている。
「僕とヒロ、松田、伊達ともう一人…萩原って奴が同期で」
「あ、やっぱりそこ同期だったんだ…。伊達さんは…こないだの?」
「そうです、眉毛が太い」
「ふふ」
ジェスチャーで太眉を表現した安室に、ナマエが思わず頬を緩めた。
「萩原は卒業の年に殉職したんですけど……あとの三人は全員ナマエさんに命を助けられた奴らですね」
え、あ、とナマエが戸惑うような声を漏らす。どれもたまたまで、恩を着せるつもりはない。相変わらず彼女はそう思っているのだろう。
「気負わないでください。勝手に感謝してるだけですから」
「う…はい」
それから鬼塚教場での日々を話し出すと、ナマエは興味深そうに目を輝かせた。
無茶ばかりで罰掃除だってさせられて、生傷の絶えなかった日々。あんなに密度の濃い半年は他になかっただろう。
「安室さん、昔は結構ヤンチャだったんですね……意外です」
「別に好きでヤンチャしてたわけじゃないんですけど…」
苦笑する安室に、ナマエが微笑ましそうに目を細める。心なしか、彼女の瞬きがゆっくりになっている気がした。
(さっきあくびを噛み殺していたし……もう一押しか)
「実は僕が料理をし始めたのはヒロがきっかけで…」
「そうなんですか……」
「今の車は教官が乗ってたのと同じ車で…元々は萩原が乗りたがっていて」
「……へえ…」
「…それで、爆弾処理を教えてくれたのは松田なんです。あいつは筋金入りの分解魔で……、…ナマエさん?」
取り留めもなく話しているうちに、相槌が聞こえなくなってナマエの方を見る。案の定彼女は目を閉じて眠っていた。
安室は振動を与えないようにそっと立ち上がり、サイレントにしていたスマートフォンを確認する。予想通り、そこには数えるのも億劫になる量の着信が残されていた。
(ゆっくりしすぎたか)
諸伏と風見に押し付ける形で離れてしまった以上、早々に現場に戻らなければならない。
今回の件では大っぴらに人員を動かせないし、自分のいない現場が今どうなっているのか想像に難くなかった。
スマートフォンをしまって、眠るナマエを見下ろす。
その頭をそっと撫でる彼の表情は、すでに安室透を演じてはいない。
「あなたからはもう貰いすぎだ。……これ以上は返し切れなくなる」
艶やかな黒髪に指先を絡めながら降谷は苦笑する。
「あなたを甘やかしたいんだ、僕は」
今回は特例だとしても、組織の件に関わらせるつもりがないのはこれからも変わらない。
ナマエにはもう力や利害とは関係のないところで、ただ穏やかに笑っていてほしい。そう望むのは贅沢なことだろうか。
枕元に置かれていたイルミのぬいぐるみを、自分の代わりのようにナマエの隣に添えて降谷はふっと笑った。
これを獲ったあの日、まさかこの人にこんな気持ちを抱くことになるなんて思いもしなかった。
「好きな人に守られっぱなしなんて、冗談じゃない」
褐色の手が、白い頬にそっと添えられる。
血の気のない唇に自身のそれを重ねようとして、降谷は触れる直前で動きを止めた。
「………」
少し考えて顔を上げ、結局丸いおでこに唇を落とす。
最初のキスは、やっぱり真っ赤な顔を見ながらがいい。そんなことを考えながら、降谷は甘く微笑んだ。
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