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最近、安室がポアロに出勤していない。
当面のシフトも白紙なのだと、梓が残念そうに話していたのはまだ記憶に新しい。そして安室はその理由を、探偵の仕事が忙しいからだと話していたようだ。
(……何かあったのかな)
ソファでキルアのぬいぐるみを抱き締めながら、ナマエはスマートフォンを睨みつけた。
安室の連絡先は知っているがいつも受け身で、自分から連絡を取ったことはない。諸伏に聞いていいのかはわからないし、松田はなんとなくだが何も知らない気がした。
ディスプレイをじっと見つめたところで、時間経過で画面が暗転するだけだ。
諦めたようにため息をついたナマエは、出来立てのルースを丁寧にケースに入れて、馴染みの宝石店に向かうべくマンションを出た―――のだが。
「えっ?」
マンションの前に停まっている白い車に、もたれるようにして佇んでいた男。彼はナマエに気づくと「あ、ナマエさん」と嬉しそうに笑った。
「よかった。ちょうど連絡を入れようと思っていたんです」
「あ…安室さん?」
「はい」
まさかこんなにあっさり会えるとも思わず、ナマエはぽかんと口を開けたまま彼を見つめた。
「これからどこかにお出かけですか?」
「え、あ……ちょっと宝石店に」
ああ、と納得したように安室が頷く。
「ルースを売ってるんでしたっけ。江古田に行く途中の、青っぽい看板のお店で合ってますか?」
「あ、はい。そうですけど…」
ナマエが肯定すると、立ち止まっていた彼女に安室が近づいてくる。そしてスッと手を取った彼に、ナマエはカチンと体を強張らせた。
「!?」
「ナマエさんにお話したいことがあるんです。向かいながらでいいので、僕に少し時間をくれませんか?」
「えっ?」
優しく手を引かれ、自然と足が動き出す。その流れで助手席のドアを開けた安室に、ナマエは疑問符を浮かべたままシートへと身を沈めた。
その流れるようなエスコートがあまりに自然すぎて、ナマエがようやく我に返ったのは安室が運転席に乗り込んだ時だった。
「あ、あの…向かいながらって?」
「宝石店に行くんでしょう?ほら、シートベルトを締めて」
助手席のシートベルトを引こうと安室が身を乗り出すのを見て、ナマエは「自分でできます!」と咄嗟に叫んだ。
そして慌ててシートベルトを締めたナマエに安室がふっと笑う。くそ、やられた。
「じゃ、行きましょうか」
褐色の手がシフトレバーを引き、車がなめらかに発進する。
安室と知り合って二年は経つはずだが、密室に二人というのはどうも慣れない。どうしてもソワソワしてしまう自分を落ち着けるように、ナマエは早々に口を開いた。
「……話ってなんですか?」
ちらりと目線だけでナマエを見た安室が、口元に笑みを浮かべながらそれに答える。
「僕、ポアロを辞めるんです」
え、と驚きに目を丸くしたナマエが安室を見るが、彼の視線はもう正面を向いていた。
「当分の間、表に出ず組織の仕事に専念することになります」
「何かあったんですか?」
「いえ……強いて言えば、これから起こします」
その横顔はいつも通り穏やかで、組織の摘発に踏み切ることを暗に告げているとは思えないほどだった。
「…私は何をすれば?」
ナマエは自然とそう問いかけていた。
しかし安室は困ったように眉尻を下げて、「そう言うと思った」と呟くように言う。
「あなたならそう言ってくれると思ったので、今日は釘を刺しに来たんです」
「………釘?」
「組織のことで、僕に協力しようと思うのはもうやめてください」
その声にナマエを責めるような色はなく、むしろどこか懇願するような口調だった。
「ここまで何年もかけて準備してきましたし、あなたの手を借りる必要はありません。こっそり助けるのもやめてください」
確かに彼は、どんな時もナマエの介入を快くは思っていなかった。先日のキメラ=アントも他に手がなかったために致し方なく、といったところだろう。
その優しさが彼の美点だと思いつつも、それはナマエにとっては聞けない相談だった。
「…私、組織のボスの名前も顔も、居所も知ってます。拠点もかなり把握してる方だと思うし、幹部全員の素性も押さえてますよ」
それらはあまりにしつこい組織の勧誘に、そのうち脅し返そうと手に入れておいた情報だ。
「それ以上の情報だって、いくらでも集められます」
諸伏のために警察の捜査会議に潜り込んだ経験もあるし、電子機器もたいていのものは無力化できる。おそらく今この世界で、ナマエ以上にスパイじみた真似のできる人間はいないだろう。
しかしそうやって自身の有用性を主張する彼女に、安室はただ苦笑するだけだった。
「……あなたが凄いのは知ってます。僕だって、元々は目的のためなら手段を選ばない人間です。他人を利用することを躊躇ったこともありません」
「なら、私のことも利用すればいいじゃないですか」
赤信号で車が停まる。
安室はやっぱり苦笑したまま、ナマエを見て眦を柔らかくした。
「うーん、なかなか伝わらないな……」
「…何がですか?」
ふと、シフトレバーに置かれていた左手がナマエの右手を優しく握る。
思わずぎょっとするナマエに構わず、安室はふわりと甘く微笑んだ。
「あなただけは特別なんだって、どうしたらわかってもらえますか?」
(―――え…?)
言葉もなく見つめるナマエに、安室がふっと吐息を零すように笑う。
「ちゃんと言うのは全部終わってからにしたいので……これでなんとなくでも伝わると嬉しいんですが」
信号が青になり、重なっていた手が離れていく。
「あ、そうだ」
再び動き出した車内で、前を見たままの安室が名案だと言わんばかりに声のトーンを上げた。
「あれ使いましょう、鈴のお願い事」
「…鈴?」
「あなたから取った、あの鈴です」
呆然としたままのナマエの脳裏に、チリンと鳴る金色の鈴の音がよみがえる。
「今後、僕に協力したり助けたりしないこと。―――そういうお願いにします」
満足そうに言う安室の声を聞きながら、この男はなんてずるいんだろうとナマエは思った。
宝石店の前で車を降りたナマエは、去っていく白い車をぼんやりと見つめる。
パンパンに空気を入れられた風船のように、今にも頭が破裂しそうだ。むしろ針でプスッといったら楽になるだろうか。
そんな物騒なことを考えながら手に取ったのはスマートフォンだった。この番号にかけるのはもしかしたら初めてかもしれない。
耳元で聞こえ始めたコール音が、三回目を数える直前で途切れる。そして聞こえてきた声に、ナマエはいつも通りのトーンで言った。
「今夜、会えませんか?二人きりで」
***
宝石店を出たナマエは、近くのスーパーに立ち寄った。諸伏も毎日来れるわけではないし、最近は自分で料理をしてみようと思うことも増えたのだ。
特に今日はいっぱい切り刻みたい気分だ。そんなメニューあったかな、と食料品コーナーに置かれたレシピカードを順番に眺める。
その時、視界の端に見知った姿が映り、ナマエはその人物の後ろから声をかけた。
「こんにちは、快斗くん」
「わっ!?」
音もなく背後に立ったナマエに快斗がビクリと体を震わせる。
「ふふ、ごめん」
「な、なんだ……ナマエさんかよ」
「何してるの?おつかい?」
ナマエが問いかけると、快斗は呆れたように目を細めて「俺をいくつだと思ってんだ」と吐き捨てた。
「今日一日暇だから、家で食うもん適当に買おうと思って」
「家、この辺なんだ」
「まーね」
ふーん、と頷いたナマエが、思い立ったように提案する。
「よかったら家来ない?料理の練習するから味見してよ」
「えっ、ナマエさんち!?行く行く!」
ミーハー心からだろうか、パッと顔を明るくした快斗が即答で誘いに乗った。
「何作ろうかな。なんかいっぱい刻める系のメニュー知らない?」
「なんだそりゃ?俺魚ダメだから魚系以外」
「魚ダメなんだ」
「その温かい目やめて?」
結局売場のレシピカードからラタトゥイユに決めると、必要な食材を買い込んで二人はスーパーを出た。
ここからナマエの家までは常人の足では遠いので、彼女は右手にレジ袋、左手に快斗を抱えて近くのビルを駆け上がる。
「うわっ、ちょっ、ちょっ!?」
「信号に引っ掛からないタクシーだとでも思って」
「こんな腹に食い込むタクシーがあるかよ!ウッ」
文句を聞き流しながら走れば、自宅へはあっという間に到着した。
***
「なーナマエさん」
「ん?」
「ストレス溜まってんの?それとも機嫌いいの?……どっち?」
リビングのゾルディックグッズを物色していた快斗が、野菜を刻むナマエに問いかける。
「なんで?」
「いや、なんでって……」
近づいてきた快斗はナマエの隣に立ち、その手元を覗き込んだ。
「使う以上に刻んでるし、イライラしてんのかなーと思ったら鼻歌まじりだし」
「鼻歌?歌ってた?」
「うん。どしたの、情緒不安定?」
タンッと小気味のいい音を立てて振り下ろされた包丁が、うっかりまな板の角を切り落とした。
「あっ」
「えっ」
「あ、よかった。天板には傷ついてない」
ホッと息を吐いたナマエが隣を見ると、なぜか後ずさった快斗が少し離れたところで固まっている。
「どうしたの?」
「いや、えっ?俺怒らせた?」
「?そんなことないけど……」
ナマエは飛んだまな板の欠片を拾い、ゴミ箱に捨てる。それからレシピカードを確認し、次は炒めるのか、とフライパンを取り出した。
「なんか……嫌なことあった?」
おそるおそるといった様子で問いかけられ、ナマエはオリーブオイルを用意しながら、うーんと唸る。
「……あった、かな…」
協力するな、助けるな、というのが彼の優しさから来るものだというのはわかっていても、どうしても突き放されたように感じてしまった。
危険だとわかっていて見ているだけなんて、耐えられないとすら思う。
「じゃあ、いいことは?」
「……それも、あった」
さすがにあそこまでわかりやすく言われたら、いくら恋愛経験のないナマエでも理解できてしまう。
思い出した途端、実感が遅れてやってきて頬が熱くなった。
「う、」
「ナマエさん?」
両手で顔を覆ってしゃがみ込んだナマエを、快斗が心配そうに覗き込む。覆い切れていない耳が真っ赤に染まっている。
「…お?おおーっ?」
IQ400の頭脳が導き出した答えに、快斗はにんまりと笑った。
「なるほどね。いくらゾルディックでも恋愛が絡めば不安定にもなるってことか」
「!」
体勢はそのままに、ナマエがピクリと反応する。
「なんだ、可愛いところもあるんじゃん」
俺てっきり鉄壁の人かと思ってた。
そう言って可笑しそうに笑う快斗に、ナマエが少しずらした指の隙間から目線を向ける。
そしてそこから覗く据わった目が想像以上に赤く潤んでいるのを見て、快斗は思わず笑うのをやめた。
「……ラタトゥイユって、人参とかじゃがいも入れるのもアリ?」
どうやらまた刻みたくなってしまったらしい。
結局大量のラタトゥイユを平らげる羽目になった快斗は、頬を引き攣らせながら「もう二度とからかわない」と誓うのだった。
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