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「あれ?なんかまな板が」
「あ、ごめん。ちょっと勢い余って」

角が一つないまな板を手に、諸伏が「えっ」と目を丸くする。まな板は包丁で切れないからこそまな板なのだが、そこを切ってしまうとはさすがゾルディックである。
ナマエが自分で料理をすることも増え、常備菜を置いていくことも減ったわけだが、たまにこうして予想だにしないミスを起こすのが心配な諸伏だった。

(まあ足の上に包丁落としても怪我一つしないんだろうけど……)

興味津々なナマエに見守られながら、諸伏はキッチンの掃除を続ける。
今までならテレビを見たり寝転んだりしてのんびり過ごしていた彼女も、できることを増やしたいという言葉通り、最近は家事を覚えようと一生懸命なようだ。

「こういう水垢にはクエン酸、石鹸汚れには重曹な」
「クエン酸、重曹」
「最終手段はメラミンスポンジだけど、研磨効果が高くて細かい傷がつくから、シンクが曇りやすくなる」
「メラミンスポンジ」

諸伏は真顔で頷きながら繰り返すナマエを見て、その素直さに思わずニヤつきそうになるのを我慢した。

こうして見ているといつもと変わらないように思える彼女だが、少し前に降谷から報告があったので、彼が喫茶店をやめて組織の摘発に備えていることは知っているはずだ。
降谷の「彼女は手を出さない」という言葉が正しいなら、ナマエは彼の無事と成功を信じて大人しく待っているということになるが。

(本当かなー。そんなタマじゃない気がするんだけど)

ナマエがこっそり介入しないよう見張るのも諸伏の務めだ。引き続き定期的に顔を出しては目を光らせるつもりではいる。
しかし彼女が本気を出せば、自分なんてあっさり欺かれてしまうだろうとも思っていた。

「ナマエ」
「ん?」
「最近何か変わったことは?」

んー、と目線を上に向けたナマエが、思い至ったのか見る見るうちに頬を紅潮させる。
ふいっと顔を逸らしながら手で隠して、ナマエは「特に、何も」と呟くように答えた。

(あれっ?)

想像していた反応と違う。不満げな表情でも見せるかと思ったのだが、もしかして降谷と何か進展でもしたのだろうか。
だから上手く言いくるめられたということなら、「彼女は手を出さない」というのもあり得ない話ではないのかもしれない。

(普段からこれだけわかりやすければ助かるんだけどな)

耳や首筋まで赤く染めているナマエの様子を観察しながら、諸伏はこっそり苦笑した。




***




ナマエが躊躇いなく手に取ったものを見て、松田は呆れたように「またかよ」と言った。

「前とほぼ同じだろ、それ」

ナマエが手に取ったのはシンプルな黒のロングコートだ。確かによく似合うのだが、以前着ていたものとほとんど変わらない。

「だってこういうのが好きなんだもん」
「はぁ……貢ぎがいがねぇな」

コートが破れて着れなくなったというから、なら新しいものを買ってやろうとナマエを連れ出したのはいつかも来た百貨店だ。
別にピンクだの水色だのを着ろとは思わないが、もうちょっと可愛げのあるものを選んでほしいところである。

「買ってくれなくても、自分で買えるのに」
「こーいうのはありがたく受け取っとくの」
「はーい」

結局コートに加えてローヒールのパンプスも購入し、なんとなくプレゼントした感を演出する松田だった。

「コートと靴、ありがとね、陣平」
「どういたしまして」

百貨店を出た二人がやってきたのは喫茶ポアロだ。定位置である奥のテーブル席が空いていたので、いつも通りそこに座る。
オーダーを取りに来た梓にコーヒーを二つ頼むと、松田が店内を見渡した。

「今日安室さんいねーな」
「あ、辞めたんだよ」
「辞めた?……ああ、なるほど」

安室がポアロを辞めたことに一瞬は驚いた松田だったが、すぐ納得して頷いた。
降谷の所属が公安だということは予想していたし、喫茶店バイトが潜入の一環だということもわかっていた。それを辞めたということは、潜入先で動きでもあったのだろう。

「はー、忙しい男は大変だね」
「ふふ、陣平も別に暇じゃないでしょ」
「良くも悪くもな」

爆弾事件が多いというのは決して喜ばしいことではないが、おかげで退屈することもない。

「もしまた死にかけたら教えてね。助けに行くから」
「はいはい、そりゃどーも」

軽く答えながら、松田は運ばれてきたコーヒーを飲むナマエを眺める。
店の明るい照明が彼女の長い睫毛に影を落とし、作り物めいた美貌を引き立てていた。

「…陣平?飲まないの?」
「あー、おう」

一見するとただ綺麗な女だが、彼女がおそろしく強い人であることはよく知っている。
そして彼女に命を救われた松田自身、もしナマエが萩原が生きているうちに来てくれていたならと、そう思ったことは一度や二度ではなかった。
しかしそんなことを考えてしまうこと自体、自分が情けないとも思うわけで。

「人生ってのは難しいな、全く」
「どうしたの?いきなり」
「別にー。頼むからナマエちゃんはそのままでいてくれよ」

何それ、と形のいい目を細めて彼女は笑う。

「前もそんなこと言われた気がする」
「そうかよ。まぁ大事なことだからな」

そう、取引や気まぐれで簡単に命を助けてしまう、そんなマイペースなところがナマエ=ゾルディックの魅力だ。
だから彼女はそのままでいい。何もかも助けてくれようとしなくていい。元々この世界はそうやって回っていたのだし、そこに彼女がいるだけで世界は上手くいく気がする。なんて、柄にもないことを考えてしまった。

「ついでに飯食うか?」
「じゃあカラスミパスタ」
「俺ハムサンドにしよ。ケーキも頼めよ」

そして自分には、こうやってたまに彼女を甘やかすポジションが合っている。
ケーキを選ぶナマエの姿を眺めながら、松田は人知れず口元を緩めた。




***




なんか最近料理のことばっかりな気がするな、とナマエは目の前の光景を見つめながらぼんやりと考えた。
弱火でじっくりと加熱されたビーフシチューは、ツヤッとした表面にポコポコと気泡を弾けさせながら芳醇な香りを漂わせている。

「これ……本当に沖矢さんが?」
「ええ、煮込み料理にハマってしまって」

すごい…と呟きながら、ナマエはその芳しい香りを目一杯吸い込んだ。

「すっごく美味しそうです」
「それはどうも。少し持っていかれますか」
「いいんですか?」

目を輝かせたナマエに、沖矢が「もちろん」と微笑む。

「いつもたくさん作りすぎてしまうので…。ああ、そうだ。阿笠博士のところにも差し入れに行かなくては」

そう言って手を打った沖矢は、小鍋を用意してビーフシチューを取り分け始めた。

「なんでもできるんですね、赤…沖矢さん」

感心のあまりうっかり本名が漏れかけたナマエに、沖矢がすっとモスグリーンの瞳を覗かせる。

「それは光栄です……が、そろそろ慣れていただかなくてはいけませんね」
「ふふ、すみません」

どんな丁寧な口調でも、赤井が喋っていると思うと可笑しくなってしまう。そんなナマエの様子を見て沖矢は小さくため息をついた。

「以前と感じが変わりましたね、ナマエさん」
「……そうですか?」
「もう少し硬いというか、内側を見せない感じがあったように思いますが」

うーん、と少し考え込んで、ナマエが穏やかな微笑みを見せる。

「それはやっぱり、周りの人のおかげなのかなあ」
「なるほど」
「赤井さんもそうじゃないですか?」
「……ナマエさん」

わざとだろう?と鋭く細められたモスグリーンに、ナマエはいたずらっぽく笑ってみせた。




***




「…ちょっと、なんであなたがあの人と一緒に来るのよ」

不満げな目を向けてくるのは哀だ。
沖矢が阿笠邸にビーフシチューを持っていくというので同行したのだが、どうも彼女は沖矢が苦手―――というか胡散臭い男だと思っているらしい。

「沖矢さん、いい人だよ?」
「……あ、そう」
「それにビーフシチュー味見したけど、すっごく美味しかった」
「ふーん。ちょっとは進歩したのね」

なんとも辛辣な口ぶりだ。これはもはや嫌っていると言っていいレベルでは。

「それに哀ちゃんに渡したいものもあったから、ちょうどよかったの」
「渡したいもの?」

うん、と頷いてコートのポケットから取り出したのは、小さめのアルミケースだ。
どこかのタイミングで渡せたらと、ここ最近持ち歩いていたので都合がよかった。

「これは?」
「開けたらわかるよ」

そう促され、哀がそっとケースを開ける。

「! これ……!」

やはり彼女には一目でわかったらしい。さすが制作者というべきか。

「……まだ残ってたのね」
「うん。二回縮んだけど、もう飲まないから。あとは哀ちゃんが役立てて」

さらっと言ったナマエに、哀は珍しく目を丸くして驚いた。

「縮んだ…!?」

それは阿笠博士と話す沖矢を気にしながらの小さな声だったが、その反応に気を良くしたナマエは嬉しそうに微笑む。

「スポーツ大会、楽しかったね」

言うまでもなくキキョウとして参加した日のことだ。思い当たったらしい哀が頭を抱えた。

「あなたね、その時に言いなさいよ…」
「ごめんごめん」

まあいいわ、と哀がため息をつく。

「これで完全な解毒薬ができれば、彼も大喜びでしょうね」
「……、そうだね」

合わせるように相槌を打ってから、ナマエは哀が"彼"と呼ぶだろう人物を思い浮かべる。

(なるほど…道理で)

変装した赤井が工藤邸に住んでいること、たびたび飛び出す「新一兄ちゃん」。これまで気にしていなかったナマエも、これだけ情報があればさすがにわかってしまった。
哀はナマエがすでに知っているものと思っていたのだろう。彼女にしては迂闊だが、それだけナマエに信用があるということだ。

「? どうかしたの?」
「ううん。頼りになるよね、彼」
「それだけが取り柄だもの」

相変わらず辛辣な口ぶりに、ナマエは可笑しそうに笑った。


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